第百七十三節 薄く、分厚い壁を越えて
「……これでこの場所も、あらかた見終わったかな」
間一髪のところで『カシオペア』の魔の手から逃れることができたソウジュ。彼はその後、落ち着くことの出来る場所を探してキョウシュウの各地を歩き回ることにした。
万全ではない体調であの強敵に立ち向かうことは難しい。
少なくとも食べ物や飲み物は確保しておきたいし、いざという時安全な所に逃げ込めるよう周辺の地形も把握しておきたかったのだ。
遊園地のような荒れ地。
平地の先に放置されたロッジ。
彼はそれらの構造物を探索して夜を明かした後、明らかに環境の悪い雪山を避けて森の方へと向かうことにした。
その森林の奥には中心に大樹の聳え立つ広場があり、その大樹は中心が空洞になっていて外壁に沿ってたくさんの本棚が置かれていた。
まさに森の図書館といった様相。
大きな螺旋階段を上りながら、彼は古びた本の数々を覗いて回った。それらの書籍のくたびれ具合から、この施設もとても長い期間手付かずの状態で放置されていたことが窺える。
それでも……もしも本棚の上に積もる埃や、下にある汚れた調理器具が綺麗に掃除されていたとしたら、未だここでフレンズが暮らしていても全く違和感のない景色だった。
するとまるで、突然住人が消えてしまった後のような様相になる。
きっと前触れもなく危機に襲われて、家財を持っていく余裕もないままにこの島を立ち去らなければならなかったのだろう。
(……実際のところは分からないけどね)
兎にも角にも、ここも悪くない場所だ。
周囲の森は姿を晦ますのに使える上、裏にある畑によって食べ物もある程度確保することができる。
ボウボウに好き勝手に伸び散らかした草の海を掻き分けて野菜を見つけなければならないことは面倒だが、背に腹は代えられない。
ロッジに放置されていた
「帆座は、まだ使えないか」
孤立無援となったソウジュの手に残された四つの星座。
その中でも帆座の風を操る力を応用することで、長距離の移動に大いに役立てることができた。
石板が保有するエネルギーの都合上、長時間連続しての使用はできないが、相手の予想を大いに裏切るスピードで移動することができるこの力は大いに役立つと踏んでいる。
もちろん他の星座も役に立つ。
特に、羅針盤座などは―――
「……?」
何かの音を聞き、ぴくりと身体が反応する。
音源はまだ遠くだ。
身を隠せば、少しだけ考える時間はある。
なるべく木の上などを通って痕跡は残さないようにしたのだが、やはり敵の追手が彼を探しに来たのだろうか。すると彼の存在を察知しているというよりも、虱潰しの捜索の手がいよいよこの場所にも及んだと考えるべきだろう。
幾ら何でも単身で『カシオペア』を討伐することは難しい。
どうにかクオの所に戻って改めて段取りを整えるのが上策だが、その為にキョウシュウを脱出できる見通しは立っていない。
アルゴ座を再び顕現させられれば叶うのだが……。
(それだって、クオがいないと成り立たない)
とりあえず身を潜めるポイントは図書館の内部を避け、広場の外周の木に登ってしばらく様子を見ることにした。
「進むべきか、戻るべきか…」
音が響かないよう慎重に、紙製のパンフレットを開く。
その紙面にはこの地方のマップが描かれていた。
この森から更に進めば反対側の平原に出る。戻れば雪山に向かうことも選択肢の一つには上がってくる。勿論既に訪れた場所に行って籠城を始めてしまっても悪くないだろう。
そんな消極的な案が浮かぶのも、主導権が無いがため。
何処に行こうと打倒『カシオペア』を成し遂げる方策などなく、あるのは過去の形骸のみなのだから。
(さて、追手はどうなったかな…)
周囲の環境音に耳を澄まして、その中に混ざるセルリアンの雑音を探す。
サラサラ。
ガサゴソ。
サラサラ。
風の葉擦れに混ざって聞こえる落ち葉を踏む音が着実に近づいてきて、ボルテージを上げるように心臓が高鳴っていく。
胸を鷲掴みにして呼吸を落ち着かせ、目を見開いて地上を凝視する。
「……」
―――そして昼夜が一回転したような一瞬の後、ソウジュの目の前に本の形をしたセルリアンが姿を見せた。
「…っ」
こちらには気付いていない。
今なら不意を突いて一瞬で倒せる。
だがそうするべきだろうか。
『女王』を模倣した彼女が全てのセルリアンの動向を把握できる可能性はないだろうか。もしもここで撃破したとしても、それを察知されるようなことがあれば状況は非常に悪い。
わずかに逡巡し、意志を固める。
「……はぁっ!」
木の上から飛び降り、傘による一撃を脳天――本にそんなものがあるのか甚だ疑問だが――に叩き込んで一瞬で撃破した。
最悪の想定などやっている暇はない。
見つかったらその時はその時だ。
周囲の様子に再び気を配り、他のセルリアンがいないことを確かめるとソウジュは図書館の方へと戻ることにした。
椅子に腰かけて、腹の底から息を吐く。
「クオを待ってるだけじゃダメだよね」
ゴールには辿り着けなくても進み続けることに価値がある。
進むための道標は、少し不確かだけど。
「やってみよう」
羅針盤座の石板を握りしめて、いつもの言霊を。
「
石板が虹の粒子に解けて、手乗りサイズの羅針盤へと再構成される。針がクルクルと廻り、一つの方向を指した。
これは方角の北を指しているのではなく、彼が行くべき場所を示している。
方向だけではない。
目的地の景色も、彼の脳裏に一枚の写真のように浮かび上がった。
其処に向かうべき理由こそ分からないが、そういった思考の過程を省略して答えを先に得るのが”天啓”の特徴である。
それでも過程が得たいのであれば、出口から迷路を遡る必要があるだろう。
ソウジュも、そのようにすることにした。
「
帆座と同調したソウジュは姿こそ大きく変わることが無いが、髪の毛の裏側が爽やかな緑色に染まって、常に彼の周囲を風が取り巻く様になる。
そして、二つの星座との同時同調。
先の戦いで『カシオペア』から輝きを取り戻したお陰で、彼一人でもここまでなら大した負担なく維持することができるようになった。
だが三つはダメだ。
四つ揃えてアルゴ座を蘇らせるのは、更に遠い。
「風よ、唸れ…!」
操られた空気の質量が彼の背中を圧す。
そして足が浮き、飛び立つ。
空を駆け抜ける。
彼は再び宙を舞う自分をイメージした。
その間際。
「―――っ!?」
彼の二度目の空中散歩は、もふもふした巨大な毛玉に包まれて中断の憂き目に遭ってしまった。出だしの勢いを完全に殺され、毛玉を掴んだまま地上への逆戻りを余儀なくされるソウジュ。
地面に降りるまでの間、ソウジュは感じる。
”死んだジャパリパーク”の片隅に花開いた植物ではない生命の温かみを。
突然彼の目の前に現れたこの意味不明な存在を、しかし彼は知っていた。
「……ルティ」
「~~♡」
胸腔を占める懐かしい匂い。
リクホクで果たした不思議な出会いの片方。
ルティは、世界すら越えることができる只の友達。
彼の来訪が何を示すのか、ソウジュにはよく分かっていた。
(クオが、外で頑張ってくれてるんだ)
具体的に何をしているのか。
そんなことは知らなくてもいい。
ただクオが力になってくれる。
その事実が胸にあるだけで、ソウジュもこれ以上なく頑張る事が出来るのだ。
「ありがとうルティ、助けに来てくれるなんて」
「~★」
頭を撫でられて喜びながらも、ルティは自身の役目を忘れない。
外からの預かり物をちゃんとソウジュに渡した。
「これは…箱?」
胸いっぱいに抱えるほど大きな木箱。
ずっしりと重さを感じたので、きっと役に立つ物資が入っているのだろう。
四角い蓋を取り払い、中身を確かめる。
「あ」
ソウジュの予想通り。
開けてみると、幾つかの石板と力の込められたお札。
……そして、アスからの手紙が入っていた。
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