第百四十二節 風雲急を告げる

 その日は、生温い強風が庭を吹きすさぶ一日だった。


「レヴァティは、こんな天気でも元気だねぇ…」

「こどもはかぜのこ~」


 まるで飛行機の羽の様に両腕を広げて、ぶーんと楽しげに声を上げながらレヴァティはバタバタと走り回っている。


 なるほど、『子供は風の子』か。

 あの子の姿を見ていると、確かにそんな気がしてくる。

 クオを思い出させる無邪気さだ。


「ソウジュお兄ちゃんも一緒に走ろ?」

「やめとくよ。君も、転んじゃうしれないよ」

「へーきだよー!」


 結局全く止まらない。


「あはは…」


 でもいいや。

 空が曇って、気も滅入る。

 こんな日にこそ、レヴァティのような活気が必要だ。


 ―――レヴァティが怪我をしてからおよそ十日。


 僕が彼女と出会う前と同様に、この軟禁生活に進展は全く訪れていない。


 この箱庭の束縛から脱する方法は未だに見つからず。

 狂った乙女が心の距離を詰めに攻勢を仕掛けてくる気配も見られず。

 自由奔放な魚がこの檻から海へ解き放たれる日も、未だ遠いことだろう。


 今日の空の様に雲がどん詰まった停滞。


 僕は手元の低木から葉っぱを摘み取って、そっと池に浮かべてやった。

 こんなやり方では、欠片も風情を感じられはしないが。


「お兄ちゃん、きっと大丈夫だよ」

「…そうかな」

「うん、いいことあるって!」


 そこで、レヴァティの雰囲気が若干物静かになって。


「いつだって、変わる時は一瞬だもん」


 普段の様子に似つかわしくない落ち着きを漂わせながら、彼女はそう云った。


 そして一転。

 また爛漫な調子に戻って。


「海の流れも~、突然”ぎゅぅ~”って変わっちゃったりするんだよ~」

「はは、巻き込まれたら大変だね」


 未だ体感したことのない自然の脅威の形に、得も言われぬ恐怖とも高揚ともつかぬ感情を覚えて、それでもきっと縁はないから唾と一緒に飲み込んだ。


 厚く層に重なった雲は遍く空を覆い隠し、ごくわずかに夕日が透けて向こうに仄かなオレンジ色が映る。


 刻一刻と、秒刻みで昏くなっていくような感覚。

 見ていると妙に心臓の拍動が急かされて、何かが起こりそうな予感が僕の肺を鷲掴みにした。


 ―――風が強くなっていく


 唯でさえ、甘い被りの帽子を遥か彼方に連れ去ってしまいそうな強風なのに。


 今となっては、もはや暴風と呼んでも差し支えの無い狂乱が吹き荒れているかのように……僕はしていた。



 それも全て、肌を伝う悪寒の仕業。

 


「そろそろ、部屋に戻った方が良いかな…」


 口ではそう言いつつ、心はすっかりと決まっていた。

 一秒でも早くこの不穏な場所から逃げようと、足早に庭の出口を目指して歩く。


 だが。


「待って」

「えっ…?」


 レヴァティ、なんで止めるの?

 そう思って、振り向いたら。


「……え」


 もう一度驚いて、絶句した。


「残念だけど、もうゆっくりはできないわよ」


 僕の腕を掴んで止めていたのはレヴァティではなく、白い毛並みと先が虹色に光る尻尾を何本も持つ、レヴァティとは似ても似つかない大人の女性だった。


 待て、僕はこの人を知っている気がする。


 この口調。

 そして外見。

 まさか。


「…キュウビ?」

「ご名答。頭は鈍って無いようね」

「でも、どうして…」

「あら、言う必要がある?」


 キュウビはそう突き放すように言うが、教えるつもりが無いのではなく。

 いま、此処に彼女がいるという状況が指し示す事実が、誰の目から見ても明らかだからである。


「クオが貴方を迎えに来たのよ。で、私は先行突入ってところ」


 ぶっきらぼうに告げ、キュウビは何処かへ向かおうとする。


「ど、どこ行くの?」

「やることがあるのよ。貴方も備えておきなさい、チャンスがやって来たらすぐに脱出できるように」


 僕だって、そうしたいのは山々だけど。


「でも、石板と鏡が…」

「ああ、そんなのもあったわね」


 あれらを取り戻さない限りは、喜んで脱出など出来やしない。


「…場所は分かる?」

「分かるけど、引き出しの鍵をスピカが持ってるんだ」

「鍵なんて問題に値しないわ。場所さえ知っていれば、あとは機会をモノにするだけよ」


 だと、いいんだけど。


「じゃ、暫くは大人しくしてなさいな」


 キュウビは庭の扉を開けて、建物の中に消えた。




§




「ソウジュお兄ちゃん、ここから出るの?」

「今はまだ。…だけど、もうすぐ」


 具体的な距離はどれ程か。

 そう長くは掛からないと踏んでいる。

 何せ、もう目と鼻の先まで来ているのだから。


 だから、残るは力の勝負。

 自分の願いを押し通さんとする意志の鬩ぎ合い。


 風を叩き付けるような音がする。


「―――ソウジュくんっ!?」


 それは扉の音だった。

 酷く焦った様子で彼女は姿を見せた。


「スピカ…」

「風が強くて危ないですよ。お部屋に戻っていてください」

「そっか、そうだね」


 なるべく怪しまれないように、素直に従っておく。

 それにどの道、鏡を取り戻すためにも部屋に行く必要がある。


「その、妙なことはありませんでしたか…?」

「いいや、何も無かったよ」


 おそらくスピカは、侵入者の類を警戒しているのだろう。

 僕はキュウビに出会ったが、当然何も言わない。


「そうですか…」


 横顔を見ると、真剣な様子で眉をひそめている。

 僕の嘘も、勘づかれている気配はなかった。


 まあ、スピカがエスパーじゃなくて良かったよ。


「とにかく危ないですから、ここで待っててくださいね。夕ご飯を作る前に、一刻も早くやらなければいけないことが出来てしまいましたから…」


 そう言って、そそくさと部屋を出て行った。


 ……かと思えば。


「ホントのホントに、大人しくしててくださいねっ!?」


 一瞬だけ戻ってきて、またすぐに何処かへ行った。


(…やっぱり、クオが来たんだ)


 そうでなくては、スピカの焦りように説明が付かない。

 色々な状況証拠が、その時が来たことを教えてくれている。


 だけど、まだ行かない。

 スピカが完全に外への対処に掛かりきりになるまで。


 心配することはない、ほんの少しの辛抱だ。


 待つ。


 まだ待つ。


 そして、待つ。



「――そろそろかな」



 ふと天から降りてきた直感を信じ、僕は部屋の扉に手を掛ける。


「お兄ちゃん? お部屋で待ってて、って…」

「君は、此処に居ていいよ」


 部屋で大人しく待ち続けていれば、やがてスピカが戻ってきて、まあ悪いようにはならないだろう。何が起こるか分からない以上、レヴァティを無理やり巻き込む訳にもいかない。


 だから、一人で行こうと思っていた。


「…レヴァティ?」

「お兄ちゃんが行くなら一緒に行くっ!」

「そっか」


 ぎゅっと腕を握って、ぴょんぴょんと跳ねる。

 そんな彼女を見ていると、どことなく緊張が解れる気がして。


「…ありがと」


 ちょっぴり、安心した。


「――『開け』」



 そして、スピカの部屋に行く。



(案の定、誰も居ないよね…)


 しばらく辛抱した甲斐があった。

 部屋の主は既に出払い、完全にもぬけの殻。

 これなら漁り放題だ。


 もちろん僕は一直線に、例の引き出しの場所に向かった。


(あれ)


 取っ手に指を引っかけて、違和感に気付く。


(引き出しの鍵が、開いてる…?)


 腕を引くと、引き出しは無抵抗に開け放たれた。


「―――あ」


 そして中身は、空だった。


「まあ、持って行くわよね」

「キュウビ…」

「セルリアンを操れるなら、石板は十分な武器になるもの。ごめんなさい、私もそのことをすっかり失念していたわ」


 つまり、スピカから直接取り戻すしかないってことか。

 厄介だけど、仕方なし。


「…どうする?」

「追い掛けるよ」

「なら、忠告しておくわ」


 そう前置きして、キュウビの口から飛び出したのは。


「巻き込まれないように気を付けなさい」


 背筋が凍るような、不吉な助言だった。

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