ローデンヴァルト5
「ねえ、ちょっと! 離してよ!」
私の手首を掴んで遠慮なく廊下を突き進む背中に向けて声を張り上げるが、止まることもなければ反応すらしない。
どうしてこうなってしまったのか。驚いた拍子にグラスを落としてしまったことが悔やんでも悔やみきれない。
落下したグラスは床に激突し、当たり前のように破片を中身をぶちまけた。侍女が慌てて飛んできて破片を片づけはじめたのだが、そのときに赤い果汁がドレスにかかっているのを見つけてしまった。
「お召し物が……!」
彼が顔を青くさせた侍女をなだめているのを呆然と見つめていた。驚いて状況についていけなかっただけだ。だってそうだろう、彼がここにいるなんて思いもしていなかった。
フィーネがいるのだから、その他の誰かがいても不思議ではないのにその可能性をこれまで考えたことがなかった。
しかも記憶があるなんて、想像すらしていなかった。
「あなたは掃除と貴賓の接待をお願いします。彼女は俺が――」
やんわりとしたその声がどこか遠くに聞こえた。
声は違うのに、穏やかな喋り方はとてもよく似ている。いや、本人なのだから似ているというのもおかしな話か。
「お手を」
手をすくい上げるように掴まれ、咄嗟に振り払おうとしたが冷たい眼差しに射抜かれ体が硬直した。
視線がちらりと胸に向く。不埒なと叱責できれば楽だろう。だが彼はそういう意図で見ているわけではない。
だってそこは、彼が罪人の証だと言って今はない印をつけた場所だ。
「さあ行きましょうか」
ぐいと手を引かれ、大広間から連れ出された。
私が正気に戻ったのはそれから少ししてからだ。
いや、おかしいだろう。確かに私にはリリアの記憶があるし、リリアの生まれ変わりだ。だからといってリリアではない。
リリアが受けた印なんて私には関係ないし、この男も私には関係ない。リリアと呼ばれる筋合いも、手を引かれて歩く義理もない。
「手を離してくださるかしら」
それでも震えそうになる体を堪えて、精一杯の虚勢を張る。
彼は不快そうに私を見た後、手首を掴んでさらに足を早めた。
「ちょっと! 聞いてるの!?」
答えは返ってこない。何度も呼びかけたが、返事はなかった。
騒いでいるのに様子を見に来る人もいない。何かがおかしい。ここはお城だ。誰もいないということはないはずなのに、誰ともすれ違わない。
「ヴィルヘルム様!」
名前を呼んでようやく、足を止めてくれた。振り返り、青い瞳に私の姿が映し出される。
「もうアベルとは呼んでくれないのかな?」
「一度も呼んだことないでしょうに、よく言うわ」
リリアは結婚してからもずっとマティス様と呼び続けた。もしも幸せな結婚生活だったなら、いつかは彼をアベルと呼んだかもしれない。
だけどそれは可能性の話にすぎない。
「リリア」
「私はリリアじゃない、レティシアよ」
頬を手がなぞり、首に指がかかる。ぞっとした寒気に体を強張らせると、ヴィルヘルム様の口元が奇妙に歪んだ。
「だが俺が刻んだものは覚えているだろう」
首から胸に指が降りてくる。とん、と叩かれたのは彼が焼き印を押しつけてきたところだ。
「自身が罪人であると覚えているのなら、それで十分だ」
「何がよ。私は罪人なんかじゃないわ」
「相容れない存在を許容しろと押しつけるのは罪悪ではないと?」
「皆納得してくれたじゃない!」
若い王様も、騎士見習いの子も、変わり者の発明家も、彼らを受け入れてくれた。そして彼もその一人のはずだった。
「納得?」
ゆるく首を傾げ、大きな手が私の肩を掴み勢いよく壁に押しつけた。背中から伝わる痛みに顔を歪めていると、ヴィルヘルム様の顔が間近に迫る。
「罰することもできない存在を目の前に連れて来られて、それでもなお反抗できる者がいるとでも?」
「ずっと戦っていたじゃない……」
「ああ、そうだな。勇者が寝返っているとわかるまでは戦っていた」
魔王がいなくなっても、人間と魔族は争っていた。魔物を討伐し、魔族の情報を集め、対抗しようと抗っていた。
「魔族と対等に戦える勇者が寝返り、手元にいるのは戦いたくないとわめく軟弱な勇者のみ。人類が一丸となって戦えばまた違うのかもしれないが、あの当時は人間同士ですら争っていた。それでどう反抗しろと?」
「……あんな、リリアにひどいことしなくてもよかったんじゃないの」
たとえ嫌だと言えなかったとしても、他にいくらでも方法はあったはずだ。ただの女の子を痛めつける以外の方法が。
「魔族と通じ魔族に心を預けた者を罰するのは当然のことだろう」
体が震える。恐怖から、ではない。
リリアがどんな思いで魔族といたのか、そこにどれだけの葛藤があったのか知りもしないで、ただ心を預けたと言い切るのに怒りがわいた。
言ってないからわからないのも知らないのもしかたないけど、だけどそれでも一言くらい聞くことはできたはずだ。
罪人だと弾じる前に魔族をどう思っているのか聞いてくれれば、夫になった彼にリリアはすべてを明かしたかもしれない。
「……私はリリアじゃないわ。私に関係のないことを言わないでくれるかしら」
「同じことだ」
だけどそれはもう過ぎたことだ。今さら言ったところで、リリアはもういない。
「王が魔王と和平を結んだのはどうせお前の差し金だろう」
「和平を望んだのはフレデリク陛下ご自身よ」
私はただアンリ殿下と戯れていただけだ。そしたら何故か魔王との和平に話が進んでいた。
私は何もしていない。少し魔族と交渉はしたけど、それだけだ。
「王が異端であると告発すると?」
「そもそも、魔族は異端じゃないわ。女神様が作った存在よ」
「それはお前がそう言っているだけにすぎない。その証拠がどこにある」
女神様は異世界の魂としか話ができない。彼に直接語りかけることができなければ、他の誰かを連れてきたとしても私にそそのかされただけだと決めつけるだろう。
「……たとえそうだとしても、あれらは相容れない存在だ」
「話もできるし、一緒に笑い合うこともできるのに」
「だが罰することはできない。あれらが罪を犯したとして、それを咎めることは誰にもできないだろう? 何もしない、などという口約束に意味はない。気分ひとつで罪を犯す者がそばにいて安らかに過ごせると……本気で思っているのか?」
冷めた目に言い返す言葉が見つからない。「人間の法になんで従わないといけないの?」と言い切る彼らの姿が浮かんだせいだ。
魔王なら彼らを制御できるけど、そもそも魔王が気まぐれな人だ。勇者さまなら、と思ったけど縄でぐるぐる巻きにされている図しか浮かばない。
「そんなことは直接フレデリク陛下に言いなさいよ。私は今回の和平に関係ないし、リリアじゃないからあなたと問答する義理はないわ」
私は問題を先送りにするのが得意だ。そういった小難しい話は陛下にすべて任せるに限る。
そういった擦り合わせやらなんやらは陛下とフィーネとクロエがやってくれるだろう。
「お前は自分がリリアではないと言うが……記憶があり、姿かたちもそのままならリリアだろう」
「違うわよ。私はレティシアとして生きてるんだから、リリアじゃなくてレティシアよ」
「レティシアとして生きた記憶を持つリリアだろう」
違う。リリアとして生きた記憶を持つレティシアだ。
そこにどれだけの違いがあるのかはわからないけど、私はレティシアだ。リリアの記憶をしっかりと思い出そうとは思わないし、レティシアであることをやめるつもりもない。
「俺の刻んだ痛みすら覚えている。それなのにリリアではないというのは、道理が通らないとは思わないか? それとも、体の隅々まで検分し、リリアとの違いを探してやろうか?」
酷薄な笑みを浮かべ、手が髪に触れる。
魔法を発動させたとして、太刀打ちできるだろうか。彼も私と同じで無詠唱で魔法が使える。魔力も下手したら私よりも多いかもしれない。
「お前に執着していたあれに助けでも求めるか? ああ、それもいいだろう。そうなれば魔族は罰することができない存在だと世に知らしめることができる」
「……なんなのよ、あなたは」
肩をなぞっていた指先が腕を撫でる。まるで体の形を確かめるように。
「なんで、そんな簡単に自分の命を賭けるようなことができるのよ」
「人間全体に比べれば価値がないから……では不満かな?」
柔らかく微笑み、まるで子どもに言い聞かせるような優しい声に顔をしかめる。
もはや二重人格なのではと疑いたくなるほど、裏と表を綺麗に切り替える。リリアも自分の考えや思いをひた隠していたけど、彼はリリア以上に隠すのが上手だ。
「……そんな綺麗事で隠さないで、復讐のためだって素直に言えばいいじゃない」
マティス様の父親が魔族に殺されてると知ったのは、彼が死んでからだった。だけどそれでも、リリアは彼の中に潜む怒りに気がついていた。
だけど彼はそれを人間のためだと綺麗な言葉でひた隠した。
姉のため、勇者さまのためだと言っていたリリアと同じだ。
「リリアは……自分たちのことを似た者夫婦だと思ってた。身を焦がすような怒りも理解していた。だから咎めもせず、受け入れた。いつか怒りが鎮まる日を待っていた」
自分と似た人の怒りがなくなるのなら、自分の怒りもなくなるかもしれない――淡く儚い願いを抱いて、彼に身を委ねていた。
「だけど私がリリアじゃないように、あなたもマティス様じゃない。前世の怒りなんて忘れて、ヴィルヘルム様として幸せになりなさいよ」
青い瞳が細まり、ぐっと体が寄る。密着するほどの距離に思わず身じろぐが、壁との間に挟まれているので逃げ道はなかった。
「俺が殺された恨みすらも忘れろと?」
「……そうよ」
一瞬クロエのことがよぎったが、それはそれ、これはこれということにしておいた。
クロエは前世の恨みから魔族に対する当たりは強いし、女神様もこの世界も嫌っているけど、しっかりと前を見て生きている。多分。
「ならお前は俺がお前にしたことを忘れ、俺の妻になることができるのか?」
「はあ?」
話の飛躍っぷりに思わず変な声が出た。ヴィルヘルム様の口元が奇妙に歪む。楽しむような、達観しているような、諦めているような、苦笑しているような、奇妙な笑み。
なんのことかと問うことはできなかった。
「魔女っ子キーック」
間の抜けた台詞と共に飛来してきた銀色がヴィルヘルム様に激突したせいだ。
視線を巡らせると、廊下の先に苦笑を浮かべたクロエが立っていた。
「魔女っ子には必殺技が必要かと思いまして、目指していた時期に考案したことが」
「なんでそれで物理なのよ!?」
飛来した銀色――もといモイラが体勢を整えて、決めポーズを決める。
このふたりが何を目指してこうなったのかは、聞かないほうがよさそうだ。
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