権威の行方
静かな部屋の中で時計が時を刻む音だけが木霊する。
レティシアは何も言わず、私はただ兄上の告げた話を頭の中で繰り返していた。こうして何もしていなくても時間だけが過ぎていくとわかっているのに、何をすればいいのか、何を言えばいいのかわからない。
魔王と魔族――それがどういうものなのかすらわからない。ただ兄上の口振りと様子からして、ただならぬ相手だということは確かだろう。
そして、このまま何もしなければレティシアが私のもとから去ることも、わかっている。
兄上は話し合えと言っていたが、何を話し合えばいいのか。
国のためを思って魔王のもとに行けと諭すべきなのか、国の今後を考えて兄上に嫁ぐように説得すればいいのか。
だが、レティシアは王妃にはなりたくないはずだ。王妃になるぐらいなら逃げる。彼女はそういう人だ。
――だから説得しろと、兄上はそう言いたかったのだろうか。
「……ルシアン」
レティシアの声がすぐ近くから聞こえてきた。俯けていた顔を上げると、いつの間にか私の前に立っている。いつ長椅子から降りたのかすらもわからないほど、今の私は混乱していたようだ。
「私は王妃になるつもりはないわよ」
ああ、そうだろう。それは知っている。
だから私がどうすればいいのか、それを悩んでいる。
「――だから、そんなに悩まないで」
頭の上に手が置かれ、ゆっくりとぎこちなく動いた。その柔らかな感触に顔が強張る。
母上が亡くなったときもレティシアはこうして私の頭を撫でた。
父上は部屋にこもり、兄上は忙しく、私はひとり部屋で過ごしていた。ふたりの邪魔にならないように大人しくしていようと思っていたのに、結局いてもたってもいられなくなって城を抜け出して――レティシアが来てくれた。
きっとあのときの私は情けない顔ををしていたのだろう。私に興味のないレティシアが慰めようと思うぐらいに。
そして、おそらく今も情けない顔をしていたのかもしれない
「レティシア」
「何かしら」
「私は君を兄上に渡すつもりはない」
「私もそのつもりはないわよ」
当たり前でしょう、と言うように軽く答えるレティシアに自然と笑みが零れてしまう。
そうだ、私はあのとき、私のところにレティシアが来てくれたときから心に決めていたはずだ。
たとえレティシアに想い人がいようと関係ない。何があろうと手放さないと、そう決めたはずだ。
女神の加護があろうと、レティシアが御使いだろうと、聖女の子だろうと、関係ない。
「魔王にも渡すつもりはないよ」
「ええと、それは……」
言いよどむレティシアの腰に手を回し抱きしめると、緊張したような強張りが伝わってきたが振り払われることはなかった。
レティシアは王妃にはならないと言ったが、魔王のもとに行かないとは言っていない。おそらく、魔王のもとに行くことで丸く収まるのならそうしようと考えていたのだろう。
いつだってすぐ逃げるのに、どうしてこういうときだけ逃げようとしてくれないのか。
レティシアの考えはいつも明後日の方向に飛んでいく。少しでも目を離すと、思いもよらないことに思いを巡らせている。
何を考えているのかはわかりやすいのに、どうしてそこに行き着いたのかがわかりにくい。
十歳で目を離すことになって、再会したときには王都から遠く離れた場所で倒れていた。未だにどうしてそうなったのかわからない。
わからないからこそ、もう二度と目を離さないことにした。でないとレティシアはすぐにおかしなことになる。
「君が御使いだと知っているのは誰?」
「サミュエルとディートリヒとクロエとリュカ……それからフレデリク陛下と、案内してくれた騎士の人ね」
ああ、ほら、また思いもよらない人物の名前が出てくる。
リュカ、というと下級クラスにいる子爵家の子だったはずだ。一体いつの間に交流を持っていたのだろうか。御使いだという重要な話をする仲にまでなっているのに気づきもしなかった。
それにあの男を呼び捨てにするような仲にいつなったのか。
目を離したつもりがないのに、おかしなことになっている。
「彼らを黙らせればレティシアが御使いだということは広まらない」
「……御使いがいないと災厄――いえ、仇敵ね。仇敵が止まらないわよ」
「そんなこと、レティシアが考えるようなことじゃない」
女神の敵だというのなら、教会が対処すればいい。
レティシアは教会とは関係ない。ただ加護がついただけのレティシアを戦いの場にいかせるなんて、冗談じゃない。
手を離せば間違いなくおかしなことになる。
「ルシアン、そういうことを言っては駄目よ。私を大切に思ってくれていることはわかるけど、でも……フレデリク陛下もアンリ殿下も大切な人でしょう」
諭すような声に腰を抱く腕に力が入る。
レティシアが言いたいことはわかっているつもりだ。だからといって、私にそのどちらかを選べるはずがない。
どちらを選んでも後悔しか残らないとわかっているのだから、尚更だ。
「ねえルシアン。私なら大丈夫よ」
大丈夫でないのは私の方だ。
「だから安心して」
だからどうして、レティシアの思考はおかしな方向に飛んでいくんだ。
結局一度も魔王のもとに行かないとは言われてないのだから、安心なんてできるはずがない。
抱きしめていた腕をほどき、代わりに頭を撫でていた手を掴んで引き寄せると、体勢を崩したレティシアが私の上に倒れ込んできた。
「……レティシア」
「あ、ああの、これは」
そしてそのまま抱きしめて、囁くように名前を呼ぶ。完全に強張っている身体とわずかに震えている声に、小さく息を零す。
何故だか、レティシアはいつまで経っても触れることに慣れてくれない。逃げようとしなくなっただけ進歩なのかもしれないが、早く慣れてほしいものだ。
「私は――」
「ここですか!」
勢いよく開かれた扉と、幼くあどけない声。
――ああ、またか。また邪魔がはいるのか。
◇◇◇
アンリを探していたのだが見つからず、あまり時間をかけすぎてはルシアンに悪いと思い、ルシアンの待つ部屋に戻ったのだが――これはどういうことだ。
レティシア嬢にじゃれつくアンリと、それを微笑みながらも頬を引きつらせているルシアンが部屋の中にいた。
中々に珍しい光景で思わず見入ってしまったが、声をかけないわけにはいかない。
こほんとわざとらしい咳払いをすると、三人の目が一斉にこちらに向く。弟ふたりに見つめられるというのも悪くはない。
しかし視線を堪能する暇は今の俺にはない。結論が出たかどうかはともかくとしても、これからどうするべきかを話し合わなければいけない。
その上で教皇とどう話し合うかを決めるとしよう。
「さて、レティシア嬢をどう扱うかだが――」
「兄さま、レティシア様をお城に招いては駄目ですか?」
アンリの突然の提案にふむと思案するように声を漏らす。
それは予定として組み込んでいたが、俺からではなくアンリからというのは願ったり叶ったりだ。
まさか無垢で愛らしいアンリの誘いを断りはしないだろう。
「ずいぶんと仲良くなったようだな。しかし、レティシア嬢を招くとしてもそれ相応の理由が必要となるぞ」
レティシア嬢は今はスカーフを巻いている。その下にある紋様をアンリが見たのかどうかはわからない。
ならば下手なことは言わず、成り行きを見守ることにしよう。
「僕、父さまがいなくなって……だから、レティシア様をお部屋に招いて一緒にお喋りしたり、夜に寝かしつけてくれたらな、とそう思ったのです」
肩を落とし不安で瞳を揺らすアンリの姿に胸を打たれる。
アンリはしっかりしているし、やんちゃなところはあるが聡い子どもだ。しかし俺は父上が亡くなってからというもの城には帰っていない。ルシアンもアンリと寝所を共にしたりはしていないだろう。
どれほど聡くとも、まだ子どもだということを失念していた。母上が亡くなったときと同じ過ちを犯そうとしていたとは、反省せねばなるまい。
「アンリ、あまり我儘を言うものではないよ」
窘めるルシアンの顔には自分だってと書いてあるが、弟よ、さすがにそれはまずい。年頃の男女を同じ寝台に並べるわけにはいかない。
幼い子どもだからこそ許される我儘というものが世の中にはある。
そもそも、添い寝ならば兄である俺がいくらでもしてやるところだ。なんなら兄弟三人並んで寝てもいい。
これは中々妙案なのではないか。子どもとはいえ男女を同じ寝室にいれるのもどうかと思うので、機を見て提案するべきだな。可愛い弟たちのことだ、兄からの提案を無下に断りはしないだろう。
「いえ、私は大丈夫ですよ。寂しいんですよね、アンリ殿下」
少し恥じるように視線を落とすアンリに、レティシア嬢が柔らかな笑みを浮かべる。こういう顔もできたとは意外だ。
ルシアンがものすごく不満そうな顔をしているのは見なかったことにして、シルヴェストル家に使いを出さねばならないな。
アンリが寂しがっているとでも言えば頷いてくれるだろう。
幸い、戴冠式を終えたので城を解放する手はずとなっている。レティシア嬢を城に招いたとしても不都合は起きない。
教会も病ではないと発表すると言っていたので、どこからも不満の声は上がらないだろう。
聖女の子の扱いというものは、実に厄介だ。下手を打つと聖女を崇めるどこかのローデンヴァルトが口を出してくる。
文をしたためる準備と、ああそれから教皇のもとにも戻らなければならないな。アンリがいる手前、この場で話を詰めることはできない。
災厄と魔王に関しては一日預からせてもらって、明日また話し合うことにしよう。
ルシアンとアンリに城に戻るように命じ、俺は教皇の待つ部屋に向かった。
ノックして扉を開けると、教皇とその息子が扉の向こうにいた。
教皇の息子は俺に気づくと一礼し、すぐに部屋を出ていった。何を話していたのかは気になるが、追及していては城に戻れなくなる。さっさと用件を伝え、弟たちの待つ城に戻らなければならない。
「さて、災厄と魔王に関してだが――」
「そのことについてですが」
教皇は苦渋に満ちた表情で何やら考えるように口を動かし、しばらくしてからようやく意味のある音を発した。
「決定権は私にはありません」
「どういうことだ?」
「聖女が現れたとの報告を受けました」
魔王に引き続き、今度は聖女か。まったく、今年はどうなっているんだ。
「その情報は確かなものか?」
「おそらくは。この目で確かめたわけではありませんが」
「なるほど、息子経由での情報か。しかし、確たる証拠もなく明け渡せるほど教会は安くはないだろう」
そこまで言って、違和感を抱く。
口振りからすると、彼の親族ではなく聖女と呼ぶに値するだけの力を持つ者が現れたのだろう。
だとしても、教皇から権威を取り上げるだけの理由にはならない。近親者以外の聖女は教皇の妻になる決まりだと記憶している。それならば現在教皇を務めている者を退けてまで、聖女を優先させるはずがない。
俺の疑問に気づいたのだろう。教皇は瞼を閉じ、小さく息を吐いてから呟くように言った。
「現れたのはかつての聖女様の生まれ変わりです」
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