12

 ナナさんに連れられて、呪縛病棟を駆け抜けた。出口のゾンビを蹴り倒して飛び出すと、僕らは一番近くにあった土産物屋の影に身を潜めた。幸いにもまだ藤ケイコも、その味方も僕らの動きには気づいてなかった。いや、もしかしたらナナさんが彼らを倒していたのかもしれない。見ればナナさんの左手には拳銃があり、そして右手には血がべっとり着いていたから。

「とにかく、これで一安心ね。いったん態勢を立て直しましょう。ナギサくん、大丈夫?」

 そう言われて、近くのベンチに座ったとき。僕はやっと助かったんだと思った。やっと生きた心地がした。もう大丈夫なんだって思った。そしてふとした瞬間、僕はそれまで我慢していた涙だとか、鼻水だとかそういうのが一気に溢れ出してきた。

 気づけば僕はナナさんのモッズコートにしがみついて、抱きついて、泣きじゃくってた。

「ちょっとちょっと、ナギサくんってば。安心するのはまだ早いよ。まだここは敵地なんだから。逃げ出したはいいけどさ」

「わかってます。……でも、僕、死ぬかと思いました」

「大丈夫よ。ナギサくんを死なせはしない。マヤさんのことも。わたしが守るから、ね?」

「本当ですか?」

 血に濡れたモッズコートで涙を拭う。やっとナナさんに顔向けできるようになって、僕は彼女の顔をじっと見た。この人が嘘つきかどうか確かめるために。

 藤ケイコは言った。この人は、ナナなんて名前じゃないと。その偽名は『牧志ミヒロ』。自分の復讐のためならどんな手段もいとわない殺し屋。僕とマヤを人質にして、復讐する相手を探している。僕らのことなんてどうでもよくて、復讐のことしか考えていない……。この人が本当にそうなのか……?

「……僕、聞きました」

「なにを?」

「ナナさん――いや、牧志ミヒロさん。あなたの正体のことについて」

 僕がその名で呼ぶと、ナナさんはとても残念そうな顔をした。ああ、知ってしまったのねと。そう言いたげな顔だった。

「……そう。で、どこまで聞いたの?」

「ナナさんがマヤを誘拐した、というところまでです。自分の復讐を果たすために、僕とマヤを人質に情報を得ようとしてるって、そう聞きました。それって本当ですか? 嘘ですよね?」

「そうね……ねえ、ナギサくん。タバコ吸っていい?」

 話を逸らすつもりだろうか。だけど、僕は首を立てに振った。

「うん、ありがとう。ごめんね、ちょっと痛みがひどくてさ。紛らわすためにもね」

 細長く、茶色いタバコ。ライターで火を付けると、ココアみたいな甘い匂いがふわっと広がった。先端が燃え始め、煙がやんわりと噴き上がる。ナナさんはそれを吸い込み、深呼吸。くわえタバコのまま話を続けた。

「結論から言えば、それはすべて真実よ」



「本当はこんなこと話したくなかったんだけどね」

 ナナさんはそう言うと、流れるような手付きでリボルバーに弾を込め始めた。丸いシリンダーを降り出すと、そこへ六発の弾丸を押し込めていく。一発ずつ、慣れきった手さばき。目隠しでもできそうなほどだった。

「わたしにもね、お父さんとお母さんがいたの。ナギサくんがそうであるように。お父さんは刑事で、お母さんは主婦だった。でも、お母さんはわたしを生んですぐに病気で死んじゃってね。お父さんもそのあとを追うようにしてすぐに死んじゃったの。わたしがまだ小学生のころよ。すぐ目の前でね、パパはのよ」

「じゃあ、復讐ってつまり……」

「そうよ。わたしはお父さんを殺した男を探している。七歳のときから、この二十年ほどずっとね。そしてあの藤ケイコという女の雇い主が、わたしのパパを殺したって。そういう情報を手に入れた。そこでわたしは彼女に接触し、安藤タダヒコ暗殺のメンバーに加わったのよ。はじめから彼女を脅迫し、仇敵に近づくためにね」

 装填し終えたシリンダーを、いま再びリボルバーへ振り戻す。ステンレスのボディが鈍く光っていた。これは殺しの道具。つまり、ナナさんにしてみれば親の仇を討つための武器だったのだ。

「偶然だったのよ。わたしは何らかの方法で藤ケイコを脅迫するつもりだった。あの女を裏切って、殺しのこと第三者にバラすと言ったって良かった。まあ、そんなの通用しないし、その前にわたしが殺されて終わりだろうけど。……そうしたときよ、偶然にも彼女がいたのよ」

「マヤのことですか」

「うん」

 タバコを吸う。亡霊の魂を吸い込むみたく。煙をいっぱい肺に取り込んで、ナナさんはそれを吐息として外へ吐き戻す。息は空気の寒さで白く濁っていた。

「マヤさんね、あの神社へお祈りに来てたんですって。あそこ、みなとワンダーランドから近いし、結構スピリチュアルな方面ではウワサになってる場所らしくてね。もっとも場所が場所だから、見つからないことが多かったり、気味悪がって近づかないことのほうが多いんでしょうけど。でも、彼女にとってはあそこはすごい特別な場所らしくてね。でも、それがまずかった。マヤさんは不運にも見てしまったのよ。藤ケイコが、安藤を殺す瞬間をね。だから、わたしはそれを利用させてもらった」

「マヤを誘拐し、どこかに隠し、交渉材料にした」

「そう。藤ケイコから仇敵の情報を聞き出すための。だけど藤のヤツは、わたしの交渉に歯向かうためのプランBを用意していたのよ」

「僕のこと、ですか」

「そうよ。君からマヤさんの居所を探ろうとした。ボーイフレンドなら連絡ぐらいつくと思ったんでしょうね」

「僕とマヤはそういう関係じゃないです」

「うん、知ってる。だからあいつはプランC――つまり君を人質にわたしをおびき寄せることにした。そして、それは成功した。つまり交渉はここからってことね」

 火はタバコを食いつぶす。

 葉っぱと煙に変換しながら、青虫が青葉を喰らっていくみたいに。先細りしていくタバコは、やがてナナさんの唇と衝突する寸前まで近づき始めた。

「あの、ひとつ聞いてもいいですか」

「なに? なんでも聞いてよ」

「あの……こんなこと、聞くべきじゃないんでしょけど。その、藤ケイコと交渉しないっていう手はないんですか? つまりナナさんが僕とマヤを解放してくれれば、すべては済む話じゃないんですか? 僕らはナナさんの身勝手につきあわされて、こんな目に遭ってる……そうですよね?」

「そうね」

「ぜんぶナナさんのせいってことですよね! 僕がこんな怪我を負ったのも、殺されかけたのも、マヤが監禁されてるのも、ぜんぶ」

「そうよ」

 ナナさんは冷めた口調で、相槌しか打たなかった。それが余計に僕の口を動かした。感情が高ぶりはじめて、段々と止まらなくなった。心臓が激しく鼓動する。喉元を冷たい空気が循環し、乾かしていく。舌が血の味がする。もう止まらない。怒りなのか何なのか、言葉が溢れ出ていく。

「ナナさんが復讐なんてしなければ、僕らはいまごろふつうに学校に行って、ふつうに家に帰って、二人で合格発表を見て、卒業の準備をしているところだった! なのにあなたが自分の復讐のために、マヤを誘拐した! そのせいで僕は、僕は……!」

「うん、悪いと思っているわ。だけどね、ナギサくん」

 そう言って、ナナさんはやっと重い腰を上げた。装填されたリボルバーを右手に握りしめ、そして左手は僕の頭にあてがわれた。雪ですこし湿った手で、ナナさんは僕を優しく撫でた。

「でもね、遅かれ早かれ藤はマヤさんを見つけていた。そうなったら、彼女は問答無用でマヤさんを殺していたことでしょうね」

「そうやって自分のやったことを正当化するんですか。だったら、マヤを早く解放してください!」

「そうね。ごめん、でもそれはできない相談なのよ。わたしは呪われているからさ」

 ナナさんは扉を開けた。外はまだ雪が降っている。開けた瞬間、冷たい風と雪とが飛び込んできた。僕らの拒絶するみたいな風。だけど、ナナさんは僕の手を握って、外へと連れ出した。そして僕もそれに従った。従わざるを得なかった。だって、この人はまだ僕を解放してくれていないのだから。

「復讐っていうのはね、呪いなのよ。復讐を誓った日から、それが果たされる瞬間まで。人生の意義はそれだけになってしまう。そういう呪いなの。だからもう少しだけわたしのワガママをゆるしてくれない?」


 メリーゴーランドが回っていた。電源が落とされたはずのこの遊園地で。中央広場の前、色あせた木馬たちを中心にして彼女たちは待っていた。藤ケイコと、雇われた男たち。ライフル銃を携えた彼らは、にらむように僕とナナさんを見つめていた。

「もう降参よ。大したものよ、あなたって」

 藤ケイコはウンザリしたようすだった。くわえタバコのナナさんを見て、彼女はイヤそうな顔をしてた。そういえばタバコの匂いは嫌いだって、彼女言っていた。

「交渉する気になった?」とナナさん。

「ええ、まあね。そういえばあなたの差し出した条件って――」

「『赤いボウイナイフの男』にまつわる情報。それをすべて吐き出すこと」

「それって、私のボスのことを言ってるのよね」

 ナナさんはうなずいて「おそらくね」と付け加えた。

 赤いボウイナイフの男。それがナナさんの復讐する相手。ナナさんのお父さんを殺した人。僕とマヤを危険に晒してまでも、殺したい相手……。僕はその通り名を胸に刻んだ。

「まずは武装解除よ。武器をその場におろして」

「はいはい、みんな銃は地面に投げ出しちゃって」

「ナイフもよ。地面においたら、こちら側は蹴って」

「しょうがないわね」

 銃も、ナイフも、すべて。藤ケイコのトレンチコートからは、まるで四次元ポケットみたいに武器が飛び出してきた。拳銃がひとつと、その弾丸が三つぐらい。ナイフがひとつと、手錠が一組。爆弾がひとつと、そして拳銃がもうひとつ。彼女はそのすべてを地面に捨て置くと、ブーツのつま先で蹴ってみせた。拳銃は雪の上をすべりながら、メリーゴーランドまで進んだ。馬車のあたりで停止して、金属の乾いた音が鳴った。カンコンって、そういう音だった。

「もうこれでいいでしょ。牧志、あとはあなたの望みを叶えるだけ」

「そうね。でも、その前に口封じをする必要がある」

「なんの?」

「わたしのよ。――ナギサくん、ぜったいに見ちゃだめよ」

 そのとき、僕を掴んでいたナナさんの手が顔に当てられた。死者にそうするように、ナナさんの手は僕のまぶたを降ろさせた。視界が暗くなる。何も見えない。感じるのは血の匂いと、凍えるような冷たさだけ。

「目を開かないで」

 ナナさんがそう言った、その直後だった。

 銃声がした。

 悲鳴が聞こえた。

 雪の押しつぶされる音がした。

 水の滴る音がした。

 断末魔が聞こえた。


 ナナさんは、僕を抱き寄せていた。

 僕にその世界が見えないように。

 呪われた彼女の世界が見えないように。

 僕とマヤを犠牲にしてでも手に入れたい、

 それが見えないように。



「これで目撃者はすべて始末した。あとはここにいる三上ナギサと、わたしが誘拐した畔上マヤの二人だけ。あとはもういない」

 ナナさんが言う。言葉を発するたび、すぐそばに触れる彼女の胸はふくらんだり、しぼんだりした。空気を吸って、吐いて。煙を吸って、吐くように。

「はは、はは、さすが大したものね!」藤ケイコの声。笑ってるけど、震えていた。「ウワサは本当だったのね! 牧志ミヒロ、復讐のためならどんな犠牲をもいとわない冷酷な暗殺者。七歳から斡旋人エージェンシーに仕込まれ、これまで何百人も殺してきたっていう女! さすがだわ! ねえ、これからどうするつもり?」

「赤いボウイナイフの男の情報を聞き出す」

「そうしたら? 私はもう用済み? こいつらみたいに殺す?」

「あんたの態度次第よ」

「面白いわね。ほんと。知りたいの? ボスのこと」

「答えろ。わたしはそれが知りたい。ヤツはどこにいる? どこで、何をしている? 居所は? ヤツへの連絡手段は?」

「そうね、どうしようかしら。あんたが泣いてお願いしたら教えてあげなくも――」

 銃声。

 藤ケイコのじゃない。ナナさんのだ。火薬のにおいがした。

「警告はした。いますぐ答えなければ、次は当てる」

「残弾管理は出来てるの?」

「K6Sの装弾数は六発。さっきチンピラを殺すのに四発、プラス今の警告に一発。あと一発。一発もあれば、お前を殺せる」

「自信家ね」

「自信じゃない、確定事項だから」

「あら、そうかしら」

 瞬間、ナナさんの体が揺れた。

 いや、震えたんだ。


 『にげて』


 視界からナナさんの手が消えたとき。つまり僕の視覚が開けたとき。ナナさんは、唇だけでそう言った。言葉にはならなかった。空気が振動しなかったんだ。だって、そんなことできるはずなかったから。

 武装解除したはずの藤ケイコの手には、まだナイフが握られていて。それがナナさんめがけて投げられていた。刃はナナさんの胸元へ突き刺さり、血が溢れ出した。モッズコートは黒くにごりだす。

 さっきまで僕を抱きしめていた手は、僕を突き放した。雪の中に投げ飛ばして、僕を外の世界へ放り出した。目の前には四つの死体と、血溜まりが広がって。銃と火薬の匂いとが充満していた。そして、殺意に満ちた女の表情がそこにはあった。

「残念だったわね、牧志。ちゃんとボディチェックすればよかったのにさ。私、元マジシャンだから。ナイフを隠し持つのはお得意なのよ。残念だったわね。ボスの情報を聞き出せなくて」

 もう一本、藤ケイコはどこからともなくナイフを取り出した。右手を這うようにして現れたダガーナイフは、その切っ先を僕らに向けた。

「目撃者は始末しろって言われてるの。それから牧志、あんたは生け捕りにして連れてこいってね。そこのワンコくんは殺しちゃうとして。あんたは特別いたぶってあげるわ。監禁してる女子中学生の情報を吐くまで、じっくりね」

「やめ、ろ……!」

「なぁに? 極悪非道の復讐鬼がいまさら正義の味方気取り? 少年少女を事件に巻き込んだ張本人のくせに。あんたがくだらない復讐なんて思いつかなければ、この子は傷つかずに済んだのよ。なのに牧志、あんたはわざわざ巻き込んだ。ぜんぶあんたのせいよ。あんたの私怨が、この幼い少年少女を殺すのよ。しかと見届けなさいな」

「やめろ……!」

「じゃあね、ワンコくん」

 ナイフを持った彼女が、一歩一歩と近づきだす。体が震えてくる。心臓が痛いくらいに打つ。肌があわだつのを感じる。死ぬ。生きたい。生き残りたい、でも、僕は――

 そのとき僕は何を思ったんだろう。防衛本能でもはたらいたのだろうか。僕は気がつくと、倒れたナナさんの左手から銃をひったくっていた。銀色に光るリボルバー拳銃。まだ一発だけ弾丸が残されたそれを、僕は構えた。撃ち方なんて知らない。でも、引鉄を引けば撃てるはず。この女を殺せるはず。ナナさんを救えるはず。マヤを助け出せるはず。僕は生き残れるはずだ。

「うごくな! うごいたら……うごいたら、これで撃つ! おまえを殺す!」

「あら少年、威勢がいいじゃない。いつそんなに成長したのよ」

「黙れ! それ以上近づくな! おとなしく武器を捨てろ!」

「イヤよ」

「武器を捨てろ! 僕らの要求に答えろ!」

「要求って?」

「ナナさんの……あんたのボスの情報をよこせって、そう言ってるんだ!」

「なに? あの女の肩を持つわけ? ワンコくん、いいこと教えてあげるわ。君が陥っているのはね、ストックホルム症候群っていうやつなのよ。被害者が犯人に同情してしまうこと。君も大人になったら意味がわかるわ。つまりね、君をこんなにした張本人である牧志ミヒロに、君は恋をしちゃってるの。でも、それは錯覚なのよ。ぜんぶ気のせい。緊張と恐怖で感情が昂ぶっているのを、性的衝動だと錯覚してるの。みじめよね、そんなの? だから目を覚ましなさい。君の大好きなマヤちゃんを誘拐したのはこの女なのよ? わかる?」

「黙れ、おまえだってマヤを殺そうとした! だから、僕はお前を殺す!」

 引鉄に指をかける。引こうとしたけど、トリガーは想像以上に重たかった。両手で覚悟を持って撃てと、僕にそう言うかのように。だけど、僕にはもう覚悟はできている。そのつもりだ。


「だめよ、ナギサくん……! それだけはぜったいにダメ……!」

 胸から血を流し、荒い息のナナさんが立ち上がった。もう全身から出血して、意識も朦朧としているはずなのに。

「その選択をしたら、君は一生後悔する。それをやったわたしが言うんだから、間違いない。だから、それだけはぜったいにダメ……!」

 それから、一瞬だった。

「どけ、牧志! 先に死にたいか! 遅かれ早かれこの少年少女は死ぬのよ! 一緒に殺してやろうか!」

 ナイフを両手に持った藤ケイコが叫んだ。ゆったりとした足取りは、途端に駆け足に変わる。殺意に満ちた走りが僕らに向けられた。一秒後には死ぬ。斬られる。そう直感したときだった。

 ナナさんは僕の手から拳銃を奪い返した。左手で奪い返し、右手で僕を抱きとめ、また世界を隠した。僕の視界は失われて、ただ血に濡れたナナさんの胸元に顔をうずめた。

 そして、最後の銃声がした。

 装填された六発の、最後の一発。どこで炸裂したのか、僕には見えなかった。見させてくれなかった。ただ血の匂いと、火薬の匂いを遠くに感じた。

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