第321話 星を見る人① セトとイルモート

〈セト、クルケアンの頂上にて〉

 

 ついに僕はクルケアンの頂上に立った。

 小さな祭壇に腰かけて世界を見れば、何処までも続く青い空は水平線との区別さえつかない。

 ……きれいな景色が広がっているものとずっと思っていた。でも現実は寂しいもので、世界に僕らアスタルトの家しかいないように感じて身震いをする。誰かとの繋がりを求めて地上を見下ろせば、ハドルメ騎士団が慌ただしく飛び回っているのが見えた。

 

「戦いが始まったのかな、ガド?」

「そうに違いない。地上が赤く光っているのは、イルモートの肉体が復活しやがったということだ。……もちろんお前のことじゃないぞ」

「気にしないよ。……僕は僕さ」

 

 地上ではアバカスさんが時計塔に残って観測を続けている。観測機(アストレベ)に取り付けた振動板から聞こえるアバカスさんの声だけが、僕達と地上を結びつけてくれていた。会話を聞く限り、観測のために少しここで小休止となるらしい。エラムやトゥイ、そしてエルはイグアルさんと一緒に観測を始め、そしてアナトさんとニーナはサラ導師と何やら話し込んでいた。何となく手持無沙汰な僕とガドは簡単な食事を作り始めたタファト先生の手伝いをする。

 

「さすがタファトおばさん。太陽の祝福者って動くかまどみたいだ」

「それは誉めてくれたのかしら?」

 

 甥と叔母の会話を邪魔してはいけないなと、少し距離を取ろうとしたら二人に腕を掴まれた。タファト先生は優しく、ガドは怒ったように僕を引き留める。

 

「おい、セト。遠慮をするなんてお前らしくないぞ」

「そうよ、それに何かため込んでいるものがあるでしょう? エルに言いにくい事なら私達が聞いてあげます。一人で悩まないで」

「……タファト先生、先生は神様になっちゃったの?」

 

 先生とサラ導師は神様の精神と重なったと聞いた。なら、人を超えた神様になったのだろうか。エルもエルシードの精神を取り戻せば神様になってしまうのだろうか。ガドも気にしていたらしく、準備の手を止めて先生の目をじっと見る。

 

「確かに精神を重ねたわ。だけど私の肉体は人間よ。それに地上に溶けた神様の、魂のひとかけらを受け継いでいるとしてもやっぱり私は人間なんだと思う」

「思うって……何か変わってしまったとか?」

「そうね、精神に保管されていた神様の記憶が一斉に流れてきちゃった。だからものの見方が少し変わってしまったかも」

 

 精神は魂を包み込む器であると共に、そこに記憶という羊水を湛えて魂を守っているのだと、先生は教えてくれる。

 人は見たこと、感じたことを忘れることはない。それらは全て精神の羊水として魂を包み、特に古い事や嫌なことはその底に溜まって行くものらしい。そして何か揺り動かされるような衝撃があると、泡のように浮かんでくるのだという。

 

「それを悪夢や後悔と言い換えることもできるわ。そして生きていれば辛い思い出も当然に増えてくる。肉体が病気に蝕まれるように、精神がそういう記憶で満たされたら魂は傷つき、死んでしまうでしょうね」

「なら、先生は大丈夫なの! 神様の記憶って膨大なものでしょう!」

「そうね、油断していると怖い記憶でおぼれてしまいそう。でもね、あなた達との思い出が私を浮き上がらせてくれるから大丈夫!」

 

 俯いたガドの反応を見る限り、先生は強がっているのだろう。僕達の大好きな先生が、ガドに残ったたった一人の家族がいなくなるなんて耐えられない。

 

「先生、その神様の精神は切り離すことはできないの?」

「心配してくれてありがとう。でも心配しないで、ちゃんとサラ導師と対策は考えているから。実はね、月にあるもう一つのクルケアンに記憶を委ねようと思っているの」

「月のクルケアン……」

「あ、そうか、セトは地下で眠っていたから知らなかったわよね、それは……」

 

 先生が月のクルケアンについて、その神様の記憶をたどるように説明してくれる。でもいつしか僕は先生のその先の言葉を口にしていたのだ。

 

 

 世界をやり直したイルモートは、

 滅んだクルケアンの記憶を魔力で月に植え付けた。

 それは贖罪から、そして大好きな人間が生きた証を残したいため。

 

 世界を二度やり直したイルモートは、

 再びクルケアンの記憶を月に植え付けた。

 重なる記憶は形を成し、月にそびえるクルケアンが生まれた。

 

 世界を三度やり直したイルモートは、

 泣きながらクルケアンの記憶を月に送り出した。

 重なる記憶は形と成し、死者の想いが再現されるようになった。

 

 世界を四度やり直したイルモートは、

 ただ心の癒しをもとめてクルケアンの記憶を月に送り出した。

 

 封じられた大地から地上の全ての記憶を月に送り、

 そして満月の夜にそれを眺め続けていく。

 自分の大好きな人達の思い出を忘れないために、

 次こそは全てを救うのだと願いを込めて。

 

「そしてイルモートは地下にあって空を見上げ続けた――」

「おい、セト、しっかりしろ!」

 

 ガドが叩いてくれたのだろう。頬に強い痛みが広がって、僕は意識を現実に戻すことができた。それでも自分が自分でないような気がして呆然としていると、やがてタファト先生が僕を抱きしめて、頭を撫でながら落ち着かせてくれる。

 

「セト、あなたイルモートの肉体とわずかに繋がっているのね。……でも大丈夫、あなたはイルモートなんかじゃない。私の大事な教え子のセトよ」

「でも先生、イルモートの記憶が僕に示すんです。世界を四度も滅ぼしたのはイルモートの力を得たセトだったと。後悔した僕がイルモートの力を使って全てをやり直したのだと」

「馬鹿なセト。あなたが世界に機会をくれたのよ。クルケアンとハドルメ、みんなが幸せになれる世界を創る機会を、そして希望をね」

「……もし今回も同じだったら? 繰り返しで捻じれてしまった世界はもう弾ける寸前で、やり直しなんてできないんだ!」

「それこそ馬鹿よ。いいえ、思いあがらないで!」

 

 怒った先生が両手で頬を叩く。思えば先生に本気で怒られるのは初めてだ。悪戯や課題の忘れなどで小言をいわれたことはあってもこれほど怒られたことはない。だって泣きながら怒る先生の顔を始めてみたのだから。

 

「あなたは唯の人間、唯のセトよ。世界を救うなんて神に押し付ければいいの。あなたのせいで世界が滅びるなんてことはない。もし滅ぶとしたらそれはこれまでの歴史、そして人の行為の積み重ねによるものなんだから」

「でも、僕はこうして世界を救いにやってきて……」

「違うわ、私達は大好きな人達のためにここにいるの。世界のためなんかじゃない、全ての人のためなんかじゃない。そうでしょう? ガド」

「あぁ、俺は大好きなクルケアンの人を守るためにここに来た。優先順位をつけるとすればおばさんとアスタルトの家、そして俺の小隊員、そして市民かな」

「……それって随分、規模が大きくなっていない? 結局クルケアン全部じゃないか!」

「そうだ、強欲なエルとセトのおかげでずいぶん人付き合いも増えてしまった。おかげで気苦労が増えたんだぞ? このうえ世界だなんて守り切れるか」

「私だってそうよ。家族と、教え子さえ守り切ればいいの。そうね、月に行くのは卒業試験の監督みたいなもの」

「卒業試験!?」

「そう、アスタルトの家が独り立ちできるかどうか。でも困ったことに可愛いけれど出来の悪い教え子は課題達成目標が大きすぎて、頭を抱えているの」

「僕の目標……」

「そうよ、エラムとトゥイの目標はハドルメの民の復活だし、ガドはあなた達を守り切ること。ほら、世界を救うだなんてより具体的で、やり方もすでに示されているでしょう」

 

 そうだ、僕のしたいことって何だろう。

 それを探るために精神の海を潜るように深く、深く記憶をたどっていく。

 暗い海の底にはイルモートの力の根源である獣欲が渦巻いている。

 違う、これはイルモートの記憶だ。僕の記憶なんかじゃない……。

 

「そうだ、君は僕じゃない」

 

 意識の中の、青い海と暗い海の底の境目に古い神官衣を着た人が立っている。

 あぁ、僕はこの人を知っている。神殿長トゥグラト、四百年前に神の記憶を取り戻したイルモートその人だ。

 

 

「初めまして、セト」

 

 イルモートは少し照れくさそうに僕に挨拶をしてくれた。

 

「……初めまして、イルモート」

「先日は僕の手紙を読んでくれてありがとう。それにエルシードの手紙を聞くことができてとても嬉しかった」

「お話しができるということは、あなたは魂を持っているの?」

「僕の魂は四百年前にラシャプの呪いでぼろぼろになってね。無事な部分の魂を切り離してできたのが君で、呪いを引き受けた部分の魂は僕というわけだ」

 

 そして自分の魂はじきにこの暗い海の底に沈んでいくのだと笑って話してくれた。

 

「消えてしまうの? ならエルシードはどうなるのさ! ずっとイルモートを待ち続けて、何度も生まれ変わって!」

「僕も、エルシードも死を受け入れるべきだろう。本来、人とはそういうものだ」

 

 イルモートは静かに首を振る。そしてイルモートは僕の手を引いて、色々な記憶を見せてくれた。広寒宮でのエルシードとの出会い、そしてトゥグラトとしてエリシェさんと結ばれたときの記憶……。その思い出はとても美しく温かいものだった。

 

「幸せだったんですね」

「あぁ、幸せだったとも。心残りがあるとすれば二つだけだ。……ごらん、その一つが底にある」

 

 イルモートが指さす意識の海の深層は暗いながらもほのかに赤い。

 

「僕らの魂の根源、主神が魔獣を人にした時に抜き取った獣欲だけは封印しなければならない。これが解放されると人はまた魔獣に戻ってしまうからね」

「手段はあるの?」

「あぁ、そのためには君の力が必要だ。僕を信じてくれるかい?」

「……もう一つの心残りを教えてくれたら」

 

 そしてイルモートは僕にその心残りを告げてくれた。それを聞いた僕はたちまち顔が真っ赤になる。それは願いでもあり、約束でもあった。

 

「そ、それは、その……そうだ、十年以内とかでもいいんでしょうか?」

「十年でも二十年でも。あぁ失敗すれば化けて出てくるから気を付けることだ」

「……がんばります」

 

 僕は照れを隠すようにイルモートと今後のことを相談する。でもなにやら頬が痛くなってきたのだ。どうやら現実で呆けている僕を誰かが起こそうとしているらしい。よし、やることも決まったし、そろそろ起きて……。

 

「起きなさいっ、セト!」

「エ、エル? ほっぺを抓らないで!」

「まったく、あなたが起きるまでみんな食事を待っていたのよ。さっさと食べて外宮に向かんだから!」

 

 浮かび上がった月を背にしたエルが、腰に手を当てて僕をまくしたてる。その時、イルモートとの約束が泡のように意識の底から浮かび上がってくる。

 

「セト、きゅ、急に肩を掴んでどうしたの……」

「ねぇ、エル――」

「は、はい!」

「子供は何人欲しい?」

「へ? こ、子供? な、何を言っているのよ! わたし達にはまだ早いっ……じゃなくてっ! もう、変な夢でも見たの!」

 

 真っ赤になったエルが、僕がおかしいのだと騒ぎ立て、みんなが次々と僕の周りに集まって熱を確かめたり、頭を打ったか確かめたりしている。そのうち心配があきれ顔に変わり、ガドが飯を食わせれば治るだろ、と言うと、エルの手によって口に食べ物が詰め込まれていく。

 

「ほひ、がひきゅうにひくお!」

「え、何を言っているの? まだ足りなかった?」

「よし、外宮に行くぞ! みんな準備はいいか!」

 

 みんなも慌てて食事を飲み込んで、元気よく拳を月に向かって突き上げる。

 慌ただしく荷物を背負い、そして笑いながら階段を上っていくのだ。

 


〈イルモートの魂、セトの精神の内で〉

 

 精神に満たされた記憶の羊水の中でイルモートは思う。

 自分の魂を受け継いだ、それでいて自分とは違うセトが人として暮らすにはどうすればよいかを。エルシャら彼の大切な人々とどうすれば幸せに生きていけるのかを。


 そのためには自分の魂ともいうべき人の全ての獣欲をどこに封じ込めればいいのだろうか。

 

 天ではだめだ。あそこには死者の安息がある。

 地上ではだめだ。そこは人の住まう場所なのだから。

 ならば自分の肉体が封じ込まれていた地下ならどうだろう。

 いや、あそこよりも深い場所、

 生者が辿り着かない場所に獣欲を封じ込めるべきだ。

 魔獣として互いに貪り、

 奪いつくしたおぞましい人の記憶を閉じ込めるべきなのだ。

 そして未だ獣欲が強い魂を持つ者がいるのなら、

 そこで穢れを落とすべきなのだ。

 

 地下の果て、宇宙の果てにならそれが叶う。

 そうだ、天と地の結び目ドゥル・アン・キと呼ばれる世界の狭間に獣の記憶と穢れた魂の新しい揺りかごを作るのだ。だが、その揺りかごを何と呼べばいいのだろう。

 

「……地獄。そうだ、僕は地獄を作るんだ」

 

 イルモートは願う。

 どんな悪人であれ、死して魂の穢れを落とすことで、次に生まれ変わる時は幸せにあるようにと。

 そしてセトやエルシャらが生きる世界が少しでも幸せに向けて歩めるようにと。

 

「だから、エルシード、君の精神を地獄の揺りかごとしてもらう。愚かな僕を赦しておくれ」

 

 そしてイルモートは記憶の羊水の中に横たわり、眩しい上方を見上げた。

 そこには星空のように楽しく、美しかった日々の記憶が瞬いている。

 それを掴もうとしたイルモートは、しかし水底の獣欲に引き寄せられるように沈んでいった。

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