第288話 天国への階段⑧ 人の王

〈元老院〉


「バルアダンが帰ってきたぞ!」


 ついに帰還したバルアダンを軍やギルドの議員が歓呼で出迎え、彼の後ろに続く。トゥグラトに与する神官や武官、大貴族たちは階段を上り主人の周りに侍る。一触即発の雰囲気の中、バルアダンを守るためにアナトとベリアがその傍らに立つ。


 議場が戦場となろうとする張り詰めた雰囲気の中、バルアダンは倒れたシャヘルに向かって労わるように声をかけた。


「この強き魂はシャプシュだな。長く、長く待たせてしまった。だがもう大丈夫だ」

「王よ、何もできなかった儂をお許しください」

「それは私の言葉だ。あなたはハドルメの誇りと義務を果たしたではないか」

「あと一つ、あと一つ義務を果たしまする。若い世代を導く者をここに……」


 教皇が目を閉じた瞬間、止まりかけていた心音が跳ね上がり、その生を主張しはじめた。そしてかすれた声でアナト、と叫んだのだ。

 教皇の口元に耳を寄せたアナトに、造血をせよ、とこれまでの峻厳が尊大に転じた教皇が命じる。アナトは違和感を覚えつつ、大恩あるシャプシュのためならと、自らの血を祝福で変じて男に注ぎ込んだ。


「無駄だ、アナト。我の呪いは魂にかけたもの。血を注ごうがまた噴き出るまでよ。その哀れな男をこれ以上苦しめるものではない」


 トゥグラトが虫に向ける憐れみを込めて断言する。


「……勝手に殺さないでもらおう。哀れな獣から同情されるほど落ちぶれてはおらん」


 教皇は立ち上がり、そそくさとアナトとバルアダンの後ろに隠れて毒舌を吐いた。先刻までとは違い、地位に基づく品格をどこかに投げ捨てたような男に一同は困惑する。もっとも、男の姿は戦士の後ろで見えず、声だけが議場に響いていくのだが。


「さて、獣の王よ、私はシャヘルだ!」


 何を当たり前のことを、と議員達から白い目で見られるが、トゥグラトとアナトだけは目を見張って頷いた。


「シャヘル? 面白い、魂を切り離していたというわけか! 道理で我が呪いが効かないわけだ」

「……主の愛を知らぬお主は神殿に、そしてこのクルケアンにもふさわしくない。クルケアンの教皇、神の代行者としてシャヘルがトゥグラトに命ずる。ここから出ていくがよい。バルアダン、アナト、力づくで叩き出せ!」


 トゥグラトが鋭い目で一瞥すると、シャヘルはアナトとバルアダンの背をたたいて前に押し出した。アスタルトの国の王と大神官は苦笑しながら、議員の護衛をフェルネスとベリアに任せ、トゥグラトにゆっくりと歩み寄っていく。思えば、彼ら二人が共に戦った最初のきっかけもシャヘルの命令だった。


「アナト、覚えているか? シャヘル殿の命を受けて、貧民街に調査に行った時のことを」

「忘れるものかよ。……あれから何年たった?」

「十二年だな。どうだ、もう私の方が年上だぞ?」

「成熟した大人はそういうことで威張らないものだ。もっとも俺の方は最初から成熟しているがな」

「ほう、私と別れてからニーナに一度も怒鳴られていないということか」

「……そうだ」

「せめてごまかせる嘘をつくんだな。成長のない奴だ」

「お前こそ、サリーヌに窘められていたはずだ。子供と一緒に説教されているはずだが、どうだ?」

「……どうだったかな」


 戦士達は哄笑して長剣を抜いた。

 事情を知らない神官兵が、命令のままに襲い掛かる。三十人が二人に襲いかかり、そして瞬時に打ち倒され、彼らが登る階段の端を、壊れた彫像のように装飾していく。わずかに彫像と違うのはとどめを刺されず、蠢いている点であろうか。


「……最初はサリーヌを死に追いやったお前を殴ろうと思っていた」

「君にはその権利がある。いや、殴られるためにここに戻ってきたんだ」

「全てが終わればお前を殴るさ」

「今、殴られた方が楽なんだが」

「ふん、そうやって独りで痛みと共に抱え込もうとするからサリーヌが心配するんだ。少しは俺を頼れ」

「今も昔も頼りきりだ。それに死の国で聞いたぞ、いよいよ市民の上に立つらしいじゃないか。アナトに任せて本当に良かった」

「市民集会を開く、お飾りにすぎんよ。……おい、なぜそんな嬉しそうなんだ」

「私だってお飾りの王さ、アナトも巻き添えにできるとすればこんなに嬉しいことはない」

「子供か、お前は!」


 次に二人に立ちはだかった兵は魔人であった。バルアダンは階段を上りざまに先頭の一人を腰斬し、アナトは頭上から飛び掛かってくる魔人の足を長剣でからめとり、踊り場にたたきつけ、その眉間を穿ちとどめを刺した。彼らの一歩は二体の魔人の死体と等しく、恐れをなした魔人はじりじりと後退を始めていた。


「アナト、私はラシャプと決着をつける。お前は市民の許へ行ってくれ。……それが役回りだ」

「おい、命に代えても仇を討とうとするなよ。サリーヌはお前が生きてくれることを何より願っている」

「……さすがは兄妹だな。何でもお見通しか」


 無能な魔人共に業を煮やしたダゴンがバルアダンに切りつける。だがその戦斧はアナトの細身の長剣によって防がれた。両者一歩も引かない中、バルアダンは刃をかいくぐり、ザハグリムの目を至近で見つめる。


「ダゴンか。私の大切な部下によくも巣くってくれた。よもや無事だと勘違いしていないだろうな」

「ふん、お前にこの体が斬れるかな。今でも精神の内で震えておるぞ、隊長、すみませんとな」


 怒気を発したバルアダンが拳をザハグリムの体に叩き込む。そして息ができずうずくまるダゴンの首筋を掴み持ち上げた。


「私と私の仲間を甘く見ないことだ。いずれその体は返してもらう」


 ダゴンをトゥグラトの許に投げ飛ばし、バルアダンは次なる魔神に向かい合う。だが、ダゴンと違い、その者だと判断をしかねていた。


「モレクか? 随分と雰囲気が変わったな」

「……バルアダン、兄と決着をつけに来たのですね」

「あぁ。四百年前の民の怨み、私が変わって晴らしてくれよう」

「それも仕方ないでしょう。だが我らも獣の王、人の王に負けるつもりはありません」

「今、ここで打ち倒してもよいのだぞ?」

「軍を率いてではなく、王が単騎で乗り込んでくるとは浅はかな。獣の王と人の王が決着をつけるのです。総力を挙げずにどうするのか」


 モレクの指示で上層の空を魔人たちが取り囲んだ。その数は千を軽く超え、全員が神獣に騎乗している。彼らが窓を塞ぐために暗くなった議場で大貴族たちが驚きの声を上げる。


「あの顔には見覚えがある、ペレス家の者だ」

「サムルだ、我が分家のサムルじゃないか!」


 ダゴンが大貴族たちに向かって嘲笑する。


「そうだ、こやつらは中位の神官や貴族であった。出世もかなわず、愚かな市民からわずかな富をふんだくるしかない哀れなヒトよ。権力と身分欲しさにその身を差し出したのだ」


 エパドゥンは中位以下の貴族の数を思い出す。貴族の男だけで二千は超える。もし彼らの全員が人ならざる道を選んだとすれば、そしてバルアダンの軍とぶつかれば都市はその形を残しているのだろうか。


 魔人達は一斉に槍を構え、大貴族の議員達に狙いをつけた時、指揮官の肩を叩く魔人が現れた。


「なんだ、報告は後にしろ。今から大貴族を殺し、我らがその席に座るのだ。邪魔をするな」

「いや、邪魔をさせてもらおう」


 その魔人は指揮官に突如として切りつけ、同士討ちが始まったのだ。驚くモレクが目を凝らして観察すると、魔人の一方は古い神官服を着ているのだ。


「もしや、四百年前に魔人化したクルケアンの神官か!」


 過去に自分達がバルアダンを殺すために強制的に魔人化した兵達が、今、矛を逆しまにしてこちらに向かってくるのだ。敵すらも受け入れ、勢力を強めるバルアダンにモレクは素直に感嘆する。過去から来た魔人の軍隊は自分達の子孫が目先の欲に捉われ、自ら魔人化を願ったことに腹を立てていた。


「我らの子孫がこうも情けないとは! クルケアンとハドルメの流した血は無駄だったというのか」

「何をわけのわからぬことを!」


 議場の外の混乱を縫って、バルアダンの周りに魔人の兵が駆け付け、王を守りながら露台へと移動していく。口に数体の魔人を咥えたタニンが舞い降り、バルアダンを鞍上に乗せた。


「トゥグラト、いやラシャプよ。四百年の因縁に決着をつけよう」

「バルアダン、ハドルメへの宣戦も叶わない今、ヒトの王としてまずは敗北を認めよう。だが、おかげで縛りが解けた」

「縛りだと?」

「王の祝福の呪いよ。我らはヒトの王として主神に枷をかけられていた。貴様達に敗北したおかげで獣の王としての力を全て揮えるようになったのだ。感謝するぞ!」

「それは本当に枷だったのか?」

「あぁ、そうだ。我の本来の姿を見るがよい」


 ラシャプの体が膨れ上がり、その重みに耐えかねた議場の階段席が崩れていく。十層もある議場ですらその大きさに耐えきれず崩壊し、階段都市に巨大な白獅子が現れた。十アスク(約七十二メートル)はあるその獣に議員達は恐怖した。


「アナト、市民集会に向かってくれ。奴は私が倒す」

「分かった。混乱に乗じて大空洞のセトとエルを救出する手筈になっている、必ず合流しろ」

「……頼んだぞ。だがイルモートの肉体が目覚めれば手を出すなよ。私に考えがあってな」

「どんな考えだ」

「その時に言うさ、ただし二人とも生き残るのが条件だ」

「その言葉、お前こそ忘れるなよ」


 そしてバルアダンはフェルネスに向かって手を挙げた。


「フェルネス! 私と共にあの獅子を狩る勇気はあるか?」

「バルアダン! 見くびってもらっては困る。貴様がまごついているうちに俺が獅子の首を先にとってやろう」


 フェルネスはハミルカルを呼び、さっそうと飛び乗ってバルアダンの横につける。こうしてかつての部下と上官、父と養い子は呼吸を合わせて突撃していった。

 

 同じ頃、議場の外の混乱を利用してアナト達は上層の壁面に沿って走っていた。いざというときに備えてメシェクが脱出路を用意してくれていたのだ。


「アナト君。大塔では逃げ場がなくなるだろうから、もう一つの道を用意しておいた。一層降りて、イグアル君の議員私室の露台の壁を叩いてみるといい。少し狭いが逃げ道があるからね」


 さすがは天秤のギルドの長だと、メシェクの言葉を思い出しながら、アナトは議員達を案内する。ベリアが殿しんがりとなって魔人を防ぎ、時間を稼ぐ中、ついにアナトは求めるものを発見した。色の違う壁石を押すと、巨大な隠し部屋への通路が開いたのだ。だが、アナトが発した言葉は恨み言だった。


「メシェクの詐欺野郎、これで逃げろというのか?」


 そこには滑空機アングイスが十ほど乱雑に並べられていたのである。


 後方から急げと、ベリアの急かせる声が響く。アナトは覚悟を決め、議員達を滑空機アングィスに放り込む。そして彼ら全員、呪いの言葉を吐き捨てるのだ。


「あのやろう、次に会ったら殴ってやる!」


 二百三十層から飛び降り、空を滑空するクルケアンの為政者たちは口々にメシェクを罵った。




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