第254話 王の帰還⑥ あなたの名前は

〈魔獣工房にて〉


 シャマール達が奥の工房へ駆け込むと、初老の神官がそこで資料を漁っていた。闇の奥にいるその神官に角灯ランプの光を向ける。果たしてその男はクルケアンにいるはずのヤムだった。


「ヤム殿、なぜここにいるのです?」

「剣を向けるな、シャマール。それは儂の言葉だ。怪しい素振りを見せる神殿長アサグを追って地下に来てみれば、魔獣の工房に辿り着き、そしてお主達がいるとは。カルブ河の水源たる北方の湖へ行ったのではなかったのか?」

「わが師ヤムよ。ここはクルケアン大神殿の地下でもあり、あの湖の祭壇の地下なのです。距離と時間すらあやふやな、天と地の狭間という場所です」

「そうであったか。では我が弟子シルリよ、こちらへ来て手伝うのだ。ここは魔獣と魔人の研究の宝庫だ。変化を専らとする我ら月の祝福者にとってこれほど有難い場所はない」


 シャマールは眉をしかめた。二つの場所が繋がっているという、常識では信じられない状況を、ヤムは疑いなく受け入れているのだ。


「ヤム殿、失礼ですが、多くの民が犠牲となっているのですぞ。あまり喜色を浮かべるのはどうかと思います」

「そうだな、お主の言う通りだ」


 弟子であるシルリは短い期間でしかないが、師であるヤムの力量を正確に理解していた。尋常ではない魔力、そして戦士としても通じる膂力を目の当たりにしていたのだ。そしてどこか人離れした俯瞰的な視点……。人とは別の存在なのかとも考えていた。そして今、人血で赤く染め上げられたおぞましい工房で、笑みを隠し切れずに資料や実験の内容を確認するヤムを見て、それは確信に変わる。


「わが師よ、師が施した工房の表の封印ですが、モレクによって解かれていたようです」

「悪神とはいえ、やはり神か。ヒトの施した封印など歯牙にもかけぬらしい。まぁもともと一月もたせるのが限界なのだ」

「いえ、封印はかなり以前に解除されていたようです。頻繁に誰かが出入りをしていました。足跡を見る限り内と外から」

「神殿長が内から破ったのかもしれぬな。次は内外から封印をするとしよう」


 ヤムが冷たい目を弟子に向ける。人が蟻をみるような視線を受けてシルリは半歩後ずさりをする。


「ヤム殿、魔人や魔獣となった民を人に戻せるのでしょうか?」


 シャマールの問いにヤムは研究者のものであろう古い椅子に腰を下ろした。角灯の灯りが老人の髭を赤く照らし出し、椅子が軋む音と共に語りだした。


「そうだな、結局のところ、魔獣は先祖返りなのだ。獣からヒトに変化した事実を元に戻したに過ぎん。だからヒトに戻そうとするならば、魔獣とヒトの違いを思い出させるしかない」

「魔獣と人の違いですと?」

「伝説によれば、主神が愚かで弱い獣を憐れんで祝福を与え、ヒトとしたらしい。その祝福をもう一度与えれば可能かもしれないが、主神はもういない。ならばその祝福の意味を思い出せればよい」

「祝福の意味?」

「最初の祝福はな、愛だという。愛を知らぬ獣をヒトになさしめたのもその祝福だ」

「これは難しいことをおっしゃる。獣に愛を思い出せなど、不可能ではありませんか」

「可能だ」

「シャマール、ヒトはなぜ愛することができる?」

「愛する相手がいるからでしょう」

「しかしそれでは性欲に繋がる。本能は獣欲と変わらぬ」


 シャマールは恋人であるシルリの顔をじっと見て、しばし長考する。


「彼女が私を知っていてくれるからです。私の弱さ、強さ、愚かさ……。それを彼女が支えてくれている。そしてそれは私も同じです」

「噂に聞くハドルメとクルケアンの恋物語の主役に相応しい答えだな。シルリよ、そう照れなくてもいいではないか。お主の想い人はな、真実に近い事をいったのだ」

「相手を知ること、でしょうか」

「そうだ。魂は形を持たず、不安定なものだ。それを形にするのが器である肉体や精神だが、魂がそれを自分の形だと認識するためには、相手が必要なのだ。生れ出た後に親から呼ばれ、家族から呼ばれ、友人から呼ばれ、恋人から呼ばれるものは何か? それこそ獣とヒトの違いである」

「名とおっしゃるか」

「そうだ、ハドルメの英雄よ。魔獣の精神の中に入り、魂に呼びかけて名を思い出させるがよい。そうすればヒトに戻れるであろう」


 シャマールとシルリは手を握り締め、魔獣から救う手段があることを喜んだ。だが、ヤムは若い二人に冷水を浴びせるように、言葉を紡ぎ続ける。


「しかし、熟達した月の祝福者が必要だ。それに神の二つの杯イル=クシールで魔獣の魂の保護をせねば術者も魔獣も滅んでしまうだろう。あの神薬も数はなく、全ての魔獣を救う手段にはならん。また魂を融合させた魔人は記憶が混濁し、戻ることはできないと知れ」

「わが師よ、希望は見えたのです。一筋の灯りが見えたならばそれに向かって歩くだけです。たとえそれがわずかな距離だとしても、これ以上遠くなることはない」

「しかしヤム殿、この短期間で魔獣の調査をそこまでできるとは流石ですな。私には何と書いてあるかさっぱりわからないのです」

「……太古の言葉で書かれておる。読めるのは一部の賢者だけだろう。さてシルリよ、大神殿には神薬もあろう。助言する故、お主が術者となって、魔獣をヒトに戻すのだ」

「承りました、わが師よ」

「さて、儂は内から封印を賭けて大神殿に戻る。お主らは外へ出ていくがよい。またクルケアンで会おう」


 老人はそう言って椅子から立ち上がり、工房の奥へと消えていった。シャマールとシルリ、ヤムの一連のやり取りを見ていた、一同の中で最年長のハドルメの神官シャプシュは首を傾げる。


「儂も長生きをしているが、主神が人に愛を与えたなどと、そんな伝承は聞いたことがない。それにあの文字だ。古い言語とて先祖が使っていたものであれば何かしら似ているところがあるはず。それが全くないのは、どれほど隔絶した過去の文字なのか見当もつかぬ。あの男の知識は異常だ。二人とも気を付けるのだぞ」

「……はい、弟子としてあるまじきことですが、私もそう感じております。ですが、魔獣をヒトに戻せることが証明できるのであれば、信じてもよいかと思います」

「そうだな。何かあってもシャマールが守ってくれる。……ところでシャマールよ」

「はい、何でしょうか、シャプシュ翁」

「お主達の婚姻はいつになるのかのう。老い先短い儂の楽しみは、ロトとアドニバルの成長と、お主らの子を孫代わりに可愛がることだけなんじゃが。先の祝福ではないが、名付け親にしてくれれば甘い爺となることを保証するぞ」


 二人の若い恋人たちはたちまち赤くなって俯いた。

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