第231話 最強を目指して③ べリアの誓い
〈べリア、終わりの世界である階段都市クルケアンの記憶の中にて〉
「……まだ私の部屋を残しているのか」
クルケアンの百九十層から百九十九層にかけては飛竜騎士団の訓練場、詰所、騎士館、そして飛竜のねぐらとなっている。元団長のべリアは長椅子に腰かけ、時が止まったままのこの世界での自室を眺めていた。
そういえば机の中に紙を保管していたはずだ。それもここに存在しているのだろうか。べリアが引き出しを開けると、其処には何もない。
「馬鹿なことだ。この偽りの世界で私は何を期待しているのか」
自分に向けて皮肉気に笑い、引き出しを戻そうとした時、机とその周辺が淡く光り輝いた。べリアは驚き、机の正面に目を向ける。
「シャムガル将軍……!」
そこには魔獣との戦いで落命したはずのシャムガル将軍が立っていた。気のせいだろうか、目の前のかつての上司は心なしか若いように見えるのだ。
「シャムガル将軍、なぜここにいる?」
「べリアよ、なぜエステルとの縁談を断ったのだ! まったくお互いに好いていると思うからこそ話を持ってきたのに」
「縁談?」
べリアはありえない言葉を反芻し、それが十年も前の過去の記憶であることに思い至った。はっとして自分の姿を確認すれば、手が二重に見えており、若かりし自分の姿が重なっていることに気づいた。
「この世界は記憶を再現するのか? いや、違うな。クルケアンという都市そのものが、その歴史に刻んだ風景を思い出しているのだろう」
故に、自分は席を立ち、過去のべリアとシャムガルの間に立って眺めることができるのだ。もしかしたらクルケアンという都市には魂があるのかもしれない。
「クルケアンよ、私に何を見せようというのだ。この記憶、この風景、お主にとって重要とは思えんが」
クルケアンとその世界は答えず、ただ過去の二人のやり取りを再現していく。
「将軍、私は妻帯できるような男ではない。戦士として戦い、魔獣との戦いで死ぬでしょう。家庭を持てば相手を不幸にするだけだ」
「なぜ不幸にすると決めつける、臆病者め」
「将軍とはいえ、その言葉聞き捨てなりませぬぞ!」
「真実をいっているだけだ。べリア、お主は怖いのだ。家庭を持てば自分が弱くなると思い込んでいる。戦いに臨んで敵前逃亡するのと何の違いがあろう」
「任務でないなら話は終わりだ、私は巡回があるので失礼させてもらう」
「待て、べリア、話はまだ――」
荒っぽい足音と共に部屋から出ていく自分の後ろ姿を見送った後、べリアは視線をシャムガルに戻した。そうだ、クルケアンは全てを見ているのだ。あの後、シャムガルは無礼な自分を罵ったのだろうか、それとも見放したのだろうか。
「べリア、あの馬鹿者め。強くなるためではない。生きて帰るためなのだ」
クルケアン軍の指揮官はそういって肩を落としてうな垂れた。それは怒りではなく、悲しみだと知った時、べリアは思わず手を老将軍に伸ばしたが、その肩を掴むことはできない。
「魔獣を殺すだけの人生に意味はない。強い弱いの差はあれ、戦士であれば誰にでもできる事なのだ。儂のように醜く老いさらばえてもいい、手塩にかけて育てたお前には生きて、自分だけの家族を作り、クルケアンを見守っていて欲しいのだ……」
肩を落としたシャムガルは、許せ、エステルと呟いて部屋を出ていった。
誰もいなくなった騎士館の一室で、べリアはしばし立ち尽くす。やがて窓の外に小さな灯りが、彼を誘うかのよう瞬いていた。覚束ない足取りで外に出たべリアは、その光が上層の貴族の街を照らしている事に気づいた。その南側の外縁部から見る海の景色は、あの女性のお気に入りの場所だったとべリアは思い出す。
「べリア、おじい様があなたとの縁談を勧めてきたわ。私たちは結婚はしないと決めたことも知らずにね。可笑しいやら可哀そうやら」
そういって、かつての想い人は哀しげな目を自分に向けた。
「エステル、すまない。私は剣に生きて剣に死ぬ。クルケアンを守るためには誰かがそうしなければいけない」
「何故、それがあなただというの。それは人身御供よ。あなたの幸せはどうなってもいいの?」
「そうだ。君がいるクルケアンを守るために、私が騎士団長であるこの時に魔獣を滅ぼすと決めたんだ」
「そうすれば私は幸せになれるの?」
「あぁ、そうさ。そのために私は貧民街からここまで這い上がってきた。あの時、貴族に殺されそうになった自分を助けてくれたお姫様を守るために。……君のためにこそ、私は命を懸ける」
クルケアンの不条理が許せない子供の頃、べリアは貴族に喧嘩を吹っかけた。そして素手では長剣に抗しきれず、嘲笑う貴族共に嬲り殺しにされる寸前にエステルが間に入ったのだ。
「卑怯者! 喧嘩なら素手でしなさい。貴族を誇りに思うのであれば相手に合わせて勝てばどうなの!」
「じゃ、邪魔をするな!」
「あなたもよ、殺されると分かってて喧嘩をするなんて。それはあなたの命を懸けてまでする価値があることかしら?」
貴族たちは相手が元老シャムガルの孫であることを知ると、舌打ちをして去っていった。そしてべリアはエステルの差し出した手を取って、よろめきながら立ち上がった。
「俺の生まれ故郷である貧民街を馬鹿にされたんだ。命を懸けて当たり前だろう?」
「貧民街に仲間はいるの?」
「弱い奴らに用はない。仲間なんていないさ」
べリアがそう吐き捨てた瞬間、エステルによる強烈な平手打ちを受けた。殴り返そうとこぶしを握り締めるが、エステルは両手でべリアの頬を包み込み、息遣いが聞こえるほどの距離で怒鳴るのだった。
「馬鹿! ならあなたは自分の為に命を懸けたんじゃない。街でもない、仲間でもない、自分が馬鹿にされたと思ったんでしょう? あなたが一番、故郷を蔑んでいるじゃない!」
「俺が蔑んでいる?」
「お爺ちゃんはこういっていたわ。人のために命を懸ける行為が尊く、最も価値があるのだとね。あなたが悔しいのなら貧民街の為に強くなればいい。そうでしょう?」
思えば相手の正論よりも何よりも、エステルの凛とした魂の美しさに惹かれたのだろう。やがてべリアは貧民街に在って鍛錬を怠らず、また街の人々の為に力を使っていくのだった。いつしか貧民街では、頼れる若者としてその声望が高まっていく。そして彼の横にいて彼を叱咤激励する、薄汚れた街では特に目立つ綺麗な服を着た少女の存在も知られていったのである。
べリアはそれらの思い出が眼前で弾けるように現れては消えるのを、上層の城壁に座って眺めていた。自分に青春があるとすればこの時なのだろう。べリアは何物にも代えがたい、人生の喜怒哀楽をすべて凝縮したようなその時代を遠い目をして眺めていた。
「なら、仕方ないわね。べリア、あなたが命を懸けて守ってくれるのが私とクルケアンであるのなら。……でも、もし、魔獣が滅んだら、私と結ばれてくれる? たとえ、お爺ちゃんやお婆ちゃんになったとしても」
「あぁ、その時が来れば必ず。なら早く魔獣を倒さないとな。君とクルケアンの為に」
「そうね、頼りにしているわよ。騎士団長様。お爺ちゃんにはうまくいっておくわ」
そしてエステルは自分の頬を掴んでいうのだ。あなたが命を懸けるように私も命を懸ける。貧民街の生活は私が必ず向上させるからと、揺れる瞳を向けてそう誓ってくれた。
やがてべリアはクルケアンが炎の記憶を再現しようとしていることに気づき叫び声をあげる。
「……やめろ、クルケアン。私にあの光景を見せるつもりか、やめてくれクルケアン!」
炎が貧民街を覆っていた。魔獣の襲撃で建物は崩れ落ち、人は血を流し地に倒れている。焼け焦げた煙が運ぶ人脂が唇を湿らせる中、べリアは飛竜を操りながら一人の存在を探していた。
「エステル、どこだ、エステル!」
子供たちの学校を作るため、そのために祖父からお金をせしめたのだと、笑いながら語ってくれたエステルの顔をべリアは思い出す。
「学校の名前はどうしようかしら。べリア騎士団長記念学校とかいいんじゃない? ほら、あなたの住んでいた場所に近いしね」
「……勘弁してくれ」
「勘弁してくれ!」
最愛の女性の亡骸を思い出したくないべリアはそう慟哭する。焼けただれた彼女を発見し、震える手で抱えた時にはその魂は消え去っていたのだ。しかしクルケアンはべリアにその光景は見せず、その少し前の記憶を映し出す。
「みんな、早く逃げて! 小神殿の門まで振り返らずに走るのよ。いいわね」
身を挺して炎と魔獣から子供たちを逃がしたエステルは、短剣を突き出して魔獣の前に立ちはだかる。体中が傷だらけになりながら時間を稼ぎ、子供たちの姿が神殿の中に消えた時、エステルは力尽きて業火の中に座り込んだ。魔獣が彼女の肩と腕を喰らい、そしてそのまま火の向こうへ走り去った。エステルは学校の建設資材に寄りかかり、迫りくる炎を前にして存在するはずもないべリアへ向けて語りかけた。
「べリア、ごめんなさい。あれだけ大きなことをいったのに私は何もできなかった」
べリアはクルケアンが映し出すエステルに駆け寄り、その隻腕で抱きしめた。できるはずもないその行動は、だが、僅かではあるが確かな感触を腕に伝えていた。
「違う、君は子供たちを守った。そして私を助けてくれた。何も成せてなんかいない!」
「ふふっ、可笑しいや。死ぬ前にあなたの幻聴が聞こえるなんて。神様が奇跡を起こしてくれたのかな」
「何も成していないのは私の方だ! 絶望し、ただ力のみを追い求め、部下にもクルケアンにも害をなした。私こそ何も……」
「べリア、あぁ、何も見えない。私の正面にいるの?」
「あぁ、いるとも。私は君のすぐ前にいる」
エステルは残った手でべリアの頬を優しく擦った。
「……べリア、泣いているの? どうせまた失敗したんでしょう。私の大好きなべリア、向こう見ずで、短気で、失敗をしては私に背を叩かれていたべリア。だから今度も応援するね。頑張れ、頑張って、私のべリア。あなたはクルケアンを救う最強の戦士なのだから……」
炎の中で、エステルの手がべリアの背中に回される。そして最後にもう一度、頑張ってと呟くと、力尽きたようにその手は地に落ちた。
気付けばべリアは飛竜騎士団の自室の机に向かっていた。荒い息を机上でついて、汗を手で拭う。クルケアンはなぜ自分に都市の記憶を見せたのだろう。訝しみながら開いたままの引き出しを閉めようとする。しかし先刻とは違い、その中には一枚の紙が入っていたのだ。大きく息を吸ってその紙を開くと、それはエステルが描いた貧民街の学校の図面だった。
「そうだな、エステル。私にはすることが山ほどある。君の代わりに学校を作らねばならんし、魔獣からクルケアンを守らなければいけない。あぁ、フェルネスとバルアダンにもまだ教えたいことがある。まったく、そのためにもう少し生きねばならんようだ」
死に場所を探していた。恐らく早く楽になりたかったのかもしれない。シャムガル将軍が指摘したように私は臆病者だ。しかし、エステル、もう少しだけ応援をしていてくれ。今の私には後事を託す者達がいる。私は彼らのためにこそ命を懸け、君と約束した未来を守ろう。
べリアは大切な思い出を精神の内に留めるかのように目を閉じた。
やがて小さな光点が男の周りをゆっくりと飛び回り、傷ついた魂を埋めるかのように優しく包んでいった。
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