第221話 ウェルとザハグリム② 戦場の花
〈ザハグリム、糸の宝石の店内にて、ウェルを待ちながら〉
戦場では見せたことのない不安げな表情と、震えるような呻き声をあげてウェルが貴賓室へと運ばれていった。兵営に在っては闊達でクルケアン、ハドルメの兵とお祭り騒ぎを繰り返し、戦場に在っては恐れを知らず魔獣に対して正面から斬りこんでいく彼女には似つかわしくないが、幼い一面を見れて安心したのも確かだ。
口も悪いが素行も悪い。拳骨と説教を受けたのも数えきれないほどだ。まったく、そんな女性を先輩と呼んで尊敬するとは我ながらどうしたことだ、と自問したくなる。
「平民だと? 我ら貴族の恵みがなければ日々の生活さえままならぬような奴らよ」
「ザハグリムのいう通りだ! 上層に居を構えることもできぬ平民に政治に口を出す権利なし!」
「そうだ、神に選ばれし我ら始まりの八家こそこのクルケアンを支配するのだ!」
酒を飲みながら若い貴族と気炎を上げる日々。何と狭い世界であったことか。それがあの日に一変したのだ。兵営でウェルとぶつかり、下賤の者よ、と罵倒した後に殴り倒されたあの日から。ウェルの拳が自分の顎を撃ちぬく寸前、怒りと生気に満ちたあの緑の目が焼き付いた。屈辱で覚えていないふりをしていたが、これが平民の女性か、まったく獣と変わらぬではないかと歯ぎしりしたものだ。それでも私はバルアダン隊に入り、クルケアンを支配する一族として平民の様子を知るべく観察をしようと思った。或いは、あの緑の目が頭から離れなかったのかもしれない。もっと間近で見たかったのかもしれない。貴族の女性であんな目をした者はいなかったのだから。
「クルケアンに仇なす魔獣、覚悟するがよい!」
魔獣に勇ましく向かったつもりが、馬の首を叩き潰され、砂塵と共にその爪が眼前に迫る。貴族としての全能感など吹き飛び、ただ泣きわめくことしかできない。絶望の中で彼女が私を助けるために魔獣に飛び込んでいった時は感謝というよりも信じられないものを見て呆然としてしまった。そして重傷を負い地に伏した彼女を守るべく、覆いかぶさってこの身を盾にするも、彼女はその緑の目を向けて、私に逃げろといったのだ。
貴族とは強さである、いや彼女には及ばない。
貴族とは勇ましさである、いや、彼女と比較することすらできない。
貴族とは財を持つものである、いや、どんな財も兵営で笑う彼女に釣り合うものはない。
「貴族の務め、か」
私は貴族に生まれてよかったと思う。それと同じくウェルに出会えた奇跡を神に感謝している。クルケアンの政治を担うものとしてどうやら正しい方向に舵をとれそうな気がするからだ。片方でも欠けていればろくでもない人生を送ることになっただろう。いつの日か、自分が成長したと感じたら、ウェルの横に並び立ち、先輩呼びを止めて、その緑の目を見つめてその名を呼ぼう。
「……ザハグリム、お待たせ。どうかな、貴族に見えるかい?」
背後から声がかかり、私は目を閉じて振り返る。結果なぞ分かり切っている。ただ、できるだけ平静さを保って、この瞬間をはっきりと目に焼き付けておきたかったのだ。
ゆっくりと瞼を上げる。
ユディ様が私の背中を軽く叩く。どうやらしばらく自失していたらしい。
「お似合いです。このザハグリム、先輩の美しさに感動しております。これならば上層に……」
「ザハグリムさん、落ち着いて。こういう時は考えずに、ただ思った言葉を言えばいいの」
「……綺麗です、本当に綺麗です、先輩」
珍しく赤面して恥ずかしがるウェルを見て何となく嬉しくなり、ひたすら言葉を繰り返す。平手打ちの音が響いたところで、頬を擦って反省をする。
「さぁ、二人とも指輪を選びなさい。婚約者として上層へ行くのでしょう。ならば二人の絆を示す装飾具が必要よ」
「ごめん、ザハグリム。指輪の良し悪しなんて分かんない。選んでくれない?」
「そうですね、先輩にならこの色も似合いそうですね」
小さな赤い宝石の指輪を二つ選び、自分と彼女の指に嵌める。彼女は知る由もないが、イルモート神を崇めるカフ家の象徴は赤なのだ。せめて彼女を守れる男になりたいという自分勝手な誓いでもある。
「ユディ様、ありがとうございます」
「あら、敬称なんていりませんよ」
「何をおっしゃいますか、バルアダン隊長やその母君であるユディ様はザイン家の出自、カフ家と同じ始まりの八家族ではありませんか。……両家は反目していたとはいえ、私の代からは改めさせていただきます」
「私にはバルアダンと共にクルケアンを背負ってくれればそれでいいのよ。もし後ろめたいのであれば、そうね、頼み事を一つ聞いてくれないかしら」
「何なりと」
「ウェルとうまくいくこと。でないと両家の反目は続くわよ」
私は赤面して一礼し、ウェルの手を引いて急ぎその場を後にした。
大塔で上層に向かい、二百三十層にある若い貴族の遊戯場へと向かう。そこは上質の食事と酒、そして競技を楽しむための広場、三層吹き抜けの大広間など、人や魔獣の血で汚れることなぞない、選ばれし者の社交場だった。
「ザハグリム殿、お連れの女性は何処の家のお方か?」
警備兵を率いる下級貴族の
「ほ、ほほほっ。あた、私はザハグリムの婚約者ですのよ。通ってもよろしいかしら」
「……失礼ながら貴族のお嬢様にしては歩き方がおかしいのですが。普通の女性は身をかがめて手を腰に当てて歩きません。下賤な兵士ならともかく」
「そ、そうかしら。実は神殿へ行く途中にこけてしまいまして、それで腰を痛めてしまいました。婚約者が支えてくれて何とか帰ってこれましたわ」
そういってわざとらしく私に寄りかかってくる。演技がうまいとはいっていたのは何だったのだろう。鈍い痛みを感じてこめかみを抑える。
「それにその靴ですが、軍靴では?」
びくっ、と組まれた腕が固くなる。確かに踵を高くした靴を嫌がっていたが、まさかこっそり履き替えているとは……。
「あ、足も挫いてしまいまして、百九十層の飛竜騎士団の知り合いに足首を支えてくれる軍靴を借り受けたのです。お恥ずかしい事ゆえ、あまり大声で追及しないで下さいませ」
「そうだ、私の婚約者のいう通りだ。何もやましいことはない。貴様、我がカフ家に楯突くつもりか!」
「いえ、ザハグリム様がそうおっしゃるのなら……。せめてそちらの家の名前だけでもお教えください」
「くどい! 我らのこの指輪を見よ。この女性とは正式に婚姻を上げるのだ。邪魔立てすれば只ではおかぬ」
「……カフ家の象徴たる赤指輪ですか。これは失礼を。ではお二人ともお入りください」
射貫くような貴族の目に背を向けて、急ぎその場を通り過ぎた。隣で大きく安堵の息を吐くウェルに内心で苦笑する。大理石でできた大広間に辿り着くと華やかな音楽が身に降り注ぎ、中では身を着飾った男女が踊り、また美食に舌鼓を打っている。数人が私に気づき、名前を叫びながらよってきた。旧友たちとの久しぶりの再会に、しかし心は弾まない。彼らが変わったのではなく、私が変わったからだ。
「ザハグリム、我らが盟主! 久しぶりじゃないか」
「そうだぞ、俺達を放っておいて魔獣と戦っていたんだって? 勇ましい事じゃないか。流石は始まりの八家だな。さぁ、新たな元老院の設立を祝って乾杯だ!」
「‥‥‥」
「我らの時代に乾杯!」
「クルケアンを支配するのは神殿でもなく我ら貴族だ!」
「そうだ! そしてあのハドルメとも開戦するという。我らの力を見せてやれ!」
「な、なぁ、みんな聞いてほしい。恐らくハドルメとの開戦の決議が、元老院での最初の評議になろう。その決議に反対して欲しいのだ」
瞬間、談話室の動きがとまり、異変を察した演奏家が音楽さえも止めてしまった。
「何をいっているんだ、ザハグリム?」
「クルケアンを救う為だ。神殿がハドルメの事を貶めているが、実際はそうではない。私は彼らと共に魔人と戦った! 気持ちのいい素晴らしい奴らだ。いいか、これは神殿の罠だ。やつらの勢力を拡大するための生贄がハドルメなのだ」
「……そんなこと分かりきったことじゃぁないか」
「何だと!」
「神殿はハドルメを利用する、ならば我ら貴族も神殿を利用すればいい。奴らが共倒れになれば貴族として重畳この上ない、そうだろう?」
「しかし、そのために多くの兵が死ぬのだぞ? クルケアンの市民が、ハドルメの民が!」
静けさはやがて疑問の声へ、そして怒りの声となり替わり、音楽の代わりに私に降り注いだ。
「兵に交わり、貴族の矜持を捨てたのか、ザハグリム!」
「平民の命だと? そんな屑に我らが配慮する必要が何処に在る!」
「そうだ、貧民街の奴らは我らが落とすごみで生活しているのだ。その命を我らのために捨てることに感謝こそあれ、疑問に思う奴らはいないだろうよ!」
「見損なったぞ、ザハグリム、お前は俺達の盟主ではない。俺が変わってやるからここから出ていけ!」
「おいおい、ならば次の盟主は私だ。なぁ、みんないいだろう?」
私がこれまで培ってきた友情の結果がこのざまだ。悔しくて、情けなくて動けなくなったその時に、ウェルは皿を蹴散らして円卓の上に腕を組んで立ち上がり、傲然と周りを一喝したのだ。まるで魔獣から私を守った時のように。
「その臭い口を閉じろ、馬鹿貴族共!」
準備も説得も周旋も貧民街に投げ落として、ウェルが貴族を見下ろしている。計画を反対方向に修正する必要があるが、まぁそれも良しとしよう。これこそが私たちの戦場なのだ。なぜなら彼女の緑の目は敵を前にして怒りと生気に満ちている。後輩としてはその美しい瞳に従わざるを得ないではないか。
「そうだ、馬鹿貴族共、私はお前たちとは袂を分かつぞ!」
やれやれ、口調まで先輩に染まったらしい。笑顔でため息をついて私も豪華な円卓に飛び乗った。
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