第218話 子に託すもの⑧ 母の子守唄

〈ギルアドの城にて〉


「ニーナ、イスカの様態はどうだ」


 日を重ねるごとに衰弱するイスカを見かねて、アナトは妹に問いかけた。


「正直、あまりよくないわ。ヤバル様を失った心痛と、ロトの魔障をその体に受け続けていたため、魂がぼろぼろなの。時間をかけて癒していかなければ……」


 イスカは肉体的には健康であったのだが、しかし、魂とその器である精神に軋みが生じ日々の生活でさえままならない。しかしそれでもロトを抱いたときには不調をおくびにも出さず、少ない乳を与え、子守唄を歌うのである。


 ギルアドの城に優しい母の歌声が響く。荒くれ者達が多いハドルメの兵も、この時ばかりは自分の子供時代と母の声を思い出しながら夜空を見上げ、静かに耳を傾けていた。


 愛しい我が子よ

 カルブ河のように穏やかに

 眠気をもよおした小鹿のようにその瞼を閉じていて


 愛しい我が子よ

 草原の風のように穏やかに

 丘の上でまどろむ小竜のようにその翼を休めていて


 愛しい我が子よ

 夢魔があなたを襲わぬように

 今は私の声だけを聴いていておくれ


 ロトの背を優しく擦りながらいつしか彼女も眠りの国へと落ちていく。そしてロトの泣き声と自分を求める手が髪に触れた時、彼女は色彩が薄い巨大な階段都市の下層に立っていることに気づいた。人の気配はなく、ただ魔道具による虚ろな灯が都市を寒々と照らしている。


「これは夢?」

「それは違うぞ、イスカ」


 二人の女性が目の前に降り立った。


「ヤバルの妻、イスカよ。世界の果てによくぞ来た。魔障による精神と魂の歪がお主をここに呼び寄せたのだ」

「歪?」

「そうだ。お主の精神には大きな穴がたくさん開いておる。故に魂が精神と肉体をすり抜け、常人では来れないこの都市に足を踏み入れることができたのだ。……しかし、その命、長くはないぞ」

「もしや、もしやこの子も精神に傷を負っているのでしょうか!」

「やれやれ自分の事よりも我が子の事か。やはり人は強いのう、タフェレト?」

「はい、そして羨ましゅうございます、ナンナ様」


 太陽の神であるはずのタフェレトは、目の前の母子を眩しく思い目を細めた。そしてイスカを安心させるように子供に笑いかける。


「ロト、あなたは本当にいい子。お母さんを守りたくて一緒にここまでついてきたのね。大丈夫、すぐに元の世界に戻してあげるわ」

「貴女たちは一体……」


 イスカは目の前の女たちの名前を脳裏で反芻する。女神の名と同じではないか、在りうべからざる世界でなければ、同名の女性だろうと自分は思っていただろう。


「神様なのですか? あぁ、ではこの子をお救い下さい! 今は神薬のおかげで魔障が抑えられているのですが、いつかはその効果も消えます。どうか、どうかお助けを……」

「問題はない。この子は本人が望まぬ限り、今後も魔障は抑えられるだろう」


 イスカの膝が崩れ、床にへたり込みながら安堵の息をつく。ヤバル、ヤバル、私たちの子は生きることができる、大人になることができるの、と涙を流して亡き夫に向けて呟いた。しかし女神の言葉に疑問を抱く。本人が望まぬかぎり、とはどういうことだろう。彼が自分の死を望むことがあるのだろうか。


「ロトの魔障を抑えておるのは、その子の精神の内に同居しているメルカルト神の力によるものだ。成長してメルカルトがその精神と肉体を乗っ取るとき、もしくはその魔障の力を己が欲するとき、ロトは自ら死を選ぶだろう」


 イスカは春の草原から冬の海に叩き落されたような衝撃を受けた。なぜ我が子がそのようなおぞましい運命に巻き込まれなければいけないのか、イスカは縋るような眼で女神を見つめた。


「この子は四度、世界の終わりにてその魔障を解き放った。最初は自分と世界に絶望してこの世の全てと心中を図ったのだ」

「四度?」

「しかし、それも時を重ねるにつれて変わってきおった」

「この都市の記憶は私達に物語ったのです。一度目は全てに裏切られた絶望から、二度目は超えるべき存在に負けた挫折から、三度目は仲間を救う為に……」

「そして四度目は仲間と世界を救う為に。しかし失敗して命を落としたのだ」

「ロトは繰り返すたびにその力を前向きに使えるようになりました。きっと最後のこの世界に在って、今度こそ全てを救ってくれると私は信じているのです」

「世界の危機がもうすぐ起きようとしているのですか、それを救うのがこの子だと?」

「然り。しかし危機が起きるのは四百年後よ。この子もまた長い時間に捉われた迷い人になるのだ。薄々は感づいているはずだ、ロトには自分と同じく特別な力があるとな。そうだろう、印の祝福者、イスカよ」


 イスカはその言葉を受けて、震える手で我が子を抱きしめた。神と魔人の大戦を引き起こした、呪われしイルモートの力。その破壊の力をイスカは体の内で封じ続けてきたのだ。神そのものを軽視するヤバルは馬鹿な事よ、と一蹴していたが、ロトの魔障も自らの祝福の由来かと疑っていた。


「この子の祝福はお主よりも強い。恐らく誕生の時にイルモートの力に強く影響されたのであろう。イスカよ、選択するがよい。このまま破滅まで静かに子供と暮らすのか、我が子を地獄に放り投げてでも、世界を救う道に立たせるのかをな」


 母として子に健やかに育ってほしいのは当たり前だ、しかし女神はなぜこのような選択を迫るのか。イスカはヤバルがその死の前に発した光を思い出す。あの光を受けてこの子の魔障は抑えられたのだ。これはヤバルの意思だったのだろうか。


「ナンナ様、なぜメルカルト神はロトを憑代としたのですか?」

「ヤバルが望んだからだ。我が子であれば神如きに乗っ取られるはずがないと」


 イスカは恥じた。夫は死の淵にあって息子に希望を託したのだ。どんな状況にあっても生き抜いてくれるはずだと。ならば数年の平穏よりも、子の成長のためにいばらの道を用意するべきだ。


「ならば、母として、そしてヤバルの妻としてここに選択をします。ハドルメの男は父を越えなければなりませぬ。そして我が子の背を押すことこそハドルメの女の矜持。あの人が目指した道はハドルメを救う道でした。世界を救うという我が子であれば、私は母としてロトには父を超える道を残しましょう」


 私の命が尽きる前にできることはありますか、とのイスカの問いに、ナンナは印の祝福により今の事情を知るものを四百年後に戻し、ロトを導くのだ、と宣告した。その者達は過去を知り、未来を変えるために動いてくれるのだという。


「それはバルアダン王でございましょうか」


 ナンナは首を左右に振る。王は父と同じく越えるべき存在、遠くに光る鬼火のようにロトを誘うが、足元を照らし導くものではないのだ。


「アスタルトの民で一番ヤバルを理解している者がいる。その者に未来のロトを託すがよい」



 赤子の泣き声が大きくなり、イスカは寝台の上で目を覚ました。

 ロトを安心させるようにあやし、また時を惜しむかのように抱きしめた。


 あなた、私たちはだめな父と母でした。この子の成長を見ずに死んでしまうのだから。でもきっと大丈夫。あなたの希望も、強さもちゃんと受け継いで未来を切り開いていくでしょう。


 扉が遠慮のない音を立てて豪快に開いた。二人の子供が元気よくイスカに抱き着いてきて、ロトの顔を覗き込む。


「オシール、シャマール、相変わらず元気いっぱいね。ロトがもう少し大きくなったら立派な戦士に鍛えてあげて」

「勿論さ。イスカ様、見ていてね。俺はあの勇敢なハドルメ騎士団を率いて悪い奴らをやっつけるんだ。その時にはロトが俺の相棒として一緒にいるはずさ!」

「あらあらオシール、弟のシャマールは一緒ではないの?」

「それがね、イスカ様、シャマールの奴、戦士にはならないっていうんだ。さっきまでそれで喧嘩してた!」

「僕は文官となってハドルメを豊かにしたいんだ。そして兄さんの騎士団を作ってあげるといったのに、拳骨をして怒るんだ」

「ふん、一緒についてくれないのならロトが俺の弟だ! シャマールなんか知らないや」

「ならロトは僕の弟にする! 一度お兄ちゃんになってみたかったんだ」

「お、おいおい、俺はどうなる?」

「えーと、無関係?」

「わかった、わかった。シャマールもロトも俺の弟! でもって好きなやり方で俺を助けるんだ。いいな」

「うん」


 子供たちの声が賑やかに部屋を飾り立てていく。そして扉が、今度は遠慮がちに開き、イスカは一人の青年とその妹を部屋に招き入れたのだ。イスカはオシールにロトを乳母のところへ連れて行くように頼み、青年らを露台に誘った。


「イスカ、今日は貴女に謝りに来たのだ。俺がヤバル殿を敵視しなければ、バルアダンと手を取り、この世界の平和を共に築けたかもしれない。俺の狭い料簡であたら英雄を失ってしまった」


 イスカは真摯ではあるが、融通の利かない子供のような正義感を持つこの男の態度に苦笑を浮かべ、懐かしい感覚を覚えていた。この不器用さは若い頃のヤバルそのものではないか。それでいて戦場における強さと立ち回りも。恐らくヤバルとアナトの違いは僅かでしかない。アナトはバルアダンという友を得ているのに対し、ヤバルには部下しかいなかった。ヤバルに足りないものを目の前の青年は持っていたのだ。この青年こそ、ロトを導くものだと彼女は直感した。彼女の体から赤い光が漏れ出し、アナトを包む。ニーナは迷わず兄の腕を掴み、共にその光を受け入れた。


「イスカ? どうしたのだ、この光は……」

「アナトさん、貴方にしか託せない。こんな状況で選択を迫る私をお許しください。ロトを導いてくれますか?」

「勿論です」

「それも貴方の時代にいる、大人になったロトをです。ヤバルにそっくりな意地っ張りで、それでいて優しく強い大人になっているでしょう」

「イスカ?」

「……弱い私の祝福ではすぐ時を超えることにはならないでしょう。しかしあと数日のうちにあなたに預けた私の魂が未来に導くはずです。全員は無理ですが、ご容赦ください」

「イスカ!」

「私の記憶を、そして思いを、未来へ持って行ってくださいますか。そして伝えて欲しいのです。ヤバルとイスカは、ロトを愛していると」


 イスカの体から強い赤光が放たれ、アナトの身に全て吸い込まれた。魂の力をすべて失ったイスカは露台の椅子に座ったまま、虚脱したようにティムガの草原を眺める。



 あの草原で父と子は共に馬を駆け巡らしていたのだろうか。

 きっと親子で狩りに夢中になって帰宅が遅くなるに違いない。

 馬を繋いで恐る恐る玄関に立つ彼らを、私は鬼の形相で出迎えよう。

 せっかく作った料理が冷めてしまったのだから仕方のないことだ。

 父が息子と目を合わせて、同時に頭を下げる。

 まったく、戦場の勇者が子供を使って和平を願うとはどういうことかしら。

 それでも子供が差し出したシロツメグサの花冠を受け取ると私は陥落せざるを得ない。

 そして笑顔でこういうのだ。


「お帰りなさい、ヤバル、ロト」


 さぁ、早く食事にしましょう。そして今日の武勇伝を聞かせて頂戴……。


 草原から一陣の優しい風が吹き、それに撫でられるようにしてイスカは静かに目を閉じた。


 翌日、ヤバルとイスカの葬儀が行われ、悲しみに包まれるギルアドの城でバルアダンはロトを養子とすることを発表したのである。



 その日から十一年が経過した。


 王も大神官もいなくなったギルアドの城壁から二人の青年と二人の少年がクルケアンを眺めている。


「王は世界を救う為に帰還された。……そしてクルケアンは我らにその本性を現し、牙を我らに向けた。シャマール、戦いが始まるぞ。覚悟はいいな」

「はい、兄さん」


 オシールとシャマールは傍らのロトと、王の子であるアドニバルの肩を抱いてその目を見据えた。


「ロト、そしてアドニバル、お前たちは王の子としてトゥグラトから命を狙われている。クルケアンに対抗できるハドルメ飛竜騎士団の編成が終わるまで、乳母を母としてカルブ河の村落に身を隠すのだ。決戦の時には王妃が目を覚まされるはずだ。その時には共に戦うぞ」

「きっとオシール兄さんと必ず迎えに行く。騎士団さえ揃えられれば君たちを守ることもできるし、共に戦うこともできるだろう。体を鍛え、合流する日に備えておいてくれ」


 ロトは寂しそうに兄たちに向けて頷いた。ロトの手を握りしめて立つアドニバルからその震えが伝わってくる。弟を安心させるように抱き寄せ、自らに誓うように約束する。


「アドニバル、俺たちは強くなるぞ。そして数年もすれば飛竜に乗って勇ましく戦うんだ」


 オシールは満足げに頷き、竜の鞍上に飛び乗った。そしてロトに安全のため、偽名を名乗るように勧めたのである。王の名前に由来するアドニバルは、今やありふれた名となっている。だがロトはハドルメにおいて彼だけが持つ名であった。


「オシール、なら俺は何と名乗ればいい?」

「フェルネスを名乗れ。勇猛なる戦士という意味だ」


 そういい残すとオシールとシャマールは落日で朱色に染まるティムガの草原へと竜を駆っていったのである。過日とは違い、魔獣が跋扈するその草原において彼らは民を守るために戦っていた。オシールとシャマールが次々に魔獣を屠っていく様を、フェルネスは城壁から見守っている。自分はまだあの背中に追いつけない、そして何故か記憶に残っている父の背中にもだ。強くなる、強くなって証明しなければならない。しかしその理由が思いつかず、フェルネスは苛立ちの声をあげた。


 二人の兄弟の活躍に人々の目が奪われている中、フェルネスとアドニバルはひっそりとギルアドの城を離れていた。カルブ河を遡り、小さな集落で乳母と合流し、素朴な温かい歓迎を受けた後、城とは違うみすぼらしい家で床につく。

 窓から差し込む月光を受けながらフェルネスは目を瞑る。

 どこからか懐かしい歌声が聞こえたような気がして、やがて彼は眠りについた。



 神殺しの階段 完

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