第86話 シャヘルの見た夢

〈神官シャドラパ、施薬院にて〉

 

 神官シャドラパは、三十四層の薬師として市民の診断と施薬を行っている。小市民的な気質を持つ彼は、ゆっくりと朝寝を楽しみ、昼までに薬の調合をして、夕方まで患者の対応をするという、いつもと同じ生活を続けることを至上としていた。以前、サラ導師の依頼で神殿からセトという子供の魔力調査を命じられたが、面倒毎はもう二度としたくはない、と考えている。

 そんな彼は技術職に近い下位神官のため妻帯が認められており、普通の家庭を持っていた。

 しかし、平凡な彼の日常の繰り返しは、星祭りの日の十日ほど前にクルケアンの上空へ飛び去ってしまったらしい。その日、彼はいつもの日常を自ら破ってしまったのだ。

 昼過ぎに知り合いの薬草園へ行こうとして、彼は道を間違えてしまった。どうも考えながら歩いていたことが災いしたようだ。彼はその前日の夕方、妻が言っていたことを気にしてたからである。


「あなた、近所の友人からおすそ分けよ。何でもその人の夫が、わざわざ有名なお店で買ってきたらしいわ」


 友人の夫は出来た人ねぇ、と妻はこれみよがしにシャドラパにいってきたのだ。善良でもこれまで妻に対して気が利かなかったシャドラパは、それならばと美味しいお菓子と花束を買って妻をびっくりさせようと、道中で考えていたのだ。妻の喜ぶ様子を頭に思い描きながら、にやついていた時、ふと自分が知らない場所にいることに気づいた。


「……しまった、ここはどこだ?」


 三十四層の半分を占める神殿の薬草園は広く、また通路は狭い。その上、神官それぞれが分担している薬草園が入り混じっている。薬師の神官も人手不足で中には放棄された薬草園もあるのだ。シャドラパはため息をついて、とにかくも神官に聞こうと、近くの薬草園の小屋に入ろうとした。その薬草園は少々荒れているものの、最近手入れをした様子が見られた。誰か神官が薬草の調合をしているはずだ、と踏んだのだ。彼は作業小屋の古い扉を叩いた。


「失礼します、どなたかおられませんか?」


 返事はなく、手元を見ると扉には小さな外鍵がかかっていた。ため息をついて立ち去ろうとすると、中から呻き声が聞こえる。外鍵がついているはずなのにどういう状況だ、とシャドラパは訝しんだが、薬師として人を救う身である彼は迷いなく鍵を壊すと、小屋の中に飛び込んでいった。


「大丈夫ですか、しっかりして下さい!」


 部屋の中には痩せた男が低い寝台から転げ落ちていた。素早く脈をとって、瞳孔を確認する。命はあるようだが、意識がない。寝台に横たわらせて毛布をかぶせる。病人を隔離していたのだろうか。しかし、彼が聞いた呻き声はもっと若い女性のものだった。奥に扉がある。どうやらもう一つ部屋があるようだ。恐る恐る彼が覗き込むと、そこに少女がその膝に男性の頭をかき抱いていた。彼女は涙を流し、うわごとを言っている。


「いったい何があったのですか? お嬢さん、意識をはっきりもって!」

「ダ、ダレト、ニーナ、ニーナ……」


 ダレトはこの青年の名で、ニーナはこの娘の名前か。シャドラパはそう思い、まずは意識を覚醒させるために最初の部屋にもどり、薬を探した。痩せた男の横にある作業台には様々な薬品や薬草が雑多に置かれている。彼はそこに、ある薬草の切れ端を見つけた。


「ザハの実とリドの葉だと?」


 いったい彼らはどんな身分で何があったというのだろう。神の二つの杯イル=クシールといわれる万能薬をこれほどまでに調合されているとは……。シャドラパは考えつつも、手は薬師の作業を続け、少なくなったその薬を調合し娘に飲ませる。


「私は……?」

「気が付きましたか。いったいここで何があったんだい?」


 病人を気遣い、抑えた口調で問いかける。


「わから、ない……」

「君はダレト、ニーナと呟いていた。君たちの名前ではないのかい?」

「ダレト……」


 その少女は男の頭を両手で優しく包み込み、ダレト、ダレト、と呟く。シャドラパは確認を諦め、彼女に水を飲ませるべく部屋を移った時、見知らぬ神官二人がそこに立っていた。


 背筋に冷たいものが走った。彼の記憶は、薬草園での魔獣襲撃と死者が出た事件を引き出していた。何かある。何かがあったのだ。


「おや、あなたはここで何をしていたのですか?」

「……はい、私は神殿の薬師をしておりますシャドラパと申します。ここを通りかかった時、呻き声が聞こえまして、病人がいるものと考え、先程中で少女に治療を施していました」


 嘘は言っていない。シャドラパは自分にそう言い聞かせた。


「おぉ、一人、目を覚ましたか。いやシャドラパ神官、心配をおかけした。実は高貴な方の治療を引き受けていてね。あとはこちらで対応しよう」


 そう言って二人の神官は奥の部屋へと入っていった。そのとき、もう一人の神官が、ナブー神官、と小さい声でいっていたのが聞こえてきた。

 安堵の息をついて小屋を出ようとしたとき、横たわる男の服から一枚の絵が出てきた。何か予感めいたものがあり、彼はそれを手に取った。


「そういえばシャドラパ神官、以前、サラ導師の頼みでセトという子供を診てくれましたね。思い出しましたよ」

「は、はい!」


 慌てて絵を自分の服の中にしまい込む。


「また診てもらうことがあるのでその時はよろしくお願いします。あぁ、ついでに、この小屋を撤去しておいてくれたまえ。取り壊しはこちらでしておくが、その後の処理は君に任せる。なに、更地になったあとは君の薬草園にでもするがいい」

「あ、ありがとうございます。では失礼します!」


 シャドラパは小屋を飛び出して、方向がわからぬまま走っていった。やがてやっと見知った場所へと出たとき、安堵のため息をついて薬草園の壁に腰を掛けた。そして懐にいれた絵に気づき、それを取り出した。


 美しい絵が描かれていた。

 そこは図書館だろうか、学校だろうか。

 先程見た青年がまるで先生のように本を少女達に読み聞かせている絵であった。

 光が差し込む一室で、少女たちは青年の話に耳を傾けている。

 そのうちの一人は先ほど見た少女であった。


 どこにでも見られるような、普通の、そして幸せなその光景を、彼は静かな感動をもって受け止めていた。青年は何と優しい顔をしているのだろう。そして青年を慕い、安心しきっている少女たちの美しい笑顔をどう表現すればいいのだろう。

 ……これは家族への愛だ、彼はそう考えたのだ。そしてふと、これが絵師の視点で描かれたものだと気付く。このような絵を描けるのは、その対象を愛している者だけだ。あの痩せた男は、青年たちの家族だったのだろうか。幸せな家族の絵を描いて、自分の近くに置いて死病と戦っていたのか。返した方がいいのだろうか、そう彼が思った時、絵に言葉が書かれていることに気づく。


 私の友、エラムへ、

 未来を、そしてこの薬草園を君に託す。

 この絵を見ることができたら、大切な者が幸せになれるよう、願うことしかできなかった愚かな男を思い出してほしい。


 そして、この絵を拾ってくれた人はどうか彼まで届けてほしい、と書かれてあったのだ。

 拾った者に託すということは、先の二人の神官はそれができないということだ。もしくはそれをしないということだ。シャドラパは絵を大切にしまい込み、エラムという少年を探す出すことにした。彼には関係のないことだが、そうすべきだと思ったのだ。


 家に戻ると、彼の妻は何かを期待していたらしい。シャドラパはすっかりお菓子のことを忘れていたのだ。彼はすこし不機嫌になった妻を優しく抱きしめ、家族でいてくれてありがとう、と呟いた。訳が分からない妻は、苦笑した後、なにか辛いことがあったに違いない夫の肩に手を添えて、食卓へ連れていくのだった。


 彼がエラムを探し出せたのは、星祭りで彼の名がクルケアン中に広まってから後のことである。

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