第76話 ただ、子供たちのために

〈シャヘル、施薬院の小屋にて〉


 シャヘルは束の間の意識を取り戻していた。

 人の気配を察し、薄く目を開けて周りの様子を探る。神官二人の後ろ姿を見るに薬草を調合しているのだろう。そして自分が薬草園の小屋で寝かされている状況を悟る。

 どのくらいの時間が経ったのだろう、シャヘルは過ぎ去った時間を推し量ろうとするが、朦朧としている今の意識ではそのすべを持たない。せめて神官が去るのを待って行動をすることにした。


「ナブー神官、シャヘルへの調合はどのようにいたしましょう」

「ザハの実を多めにして元の性質を残すのだ。苦しむくらいの自我を残すように様子を見て調合を変えていけ」

「隣の部屋の二人には?」

「リドの葉を多く調合したものがすでにできている。それを明日から三日ほど飲ませておくのだ。今日はまだ変化が安定していないので飲ませてはならぬぞ」

「は!」


 神官達が作業を終え、小屋から出ていった後、シャヘルは寝台から離れようとした。しかし、彼のその行動は寝台から約八アス(四・八メートル)に制限されていた。彼が逃げ出さないように足に鉄鎖がつなげられていたのだ。


「もはや逃げ場もなしか」


 彼はすでに絶望していたので、この状況を悲しむことはなかった。この上は自死を選んで、トゥグラトの思惑から逃げられればそれでよい、そう思うとこの状況は、理想であったのだ。彼の思い出深い薬草園でその生涯を終えることができるのは、ささやかな幸運といってもいいのかもしれない。この世の名残にと部屋を眺めていると、棚には自分に処方されるであろう薬瓶が置かれている。幸いなことに薬瓶には手が届き、シャヘルはその中身を確認することができた。


神の二つの盃イル=クシール――ザハの実とリドの葉か、貴重な薬を無駄に使いおって」


 彼は棚の横に置かれた鏡に気付き、覚悟を決めて鏡に映った自分の顔を見た。果たして、そこには人ならざる眼、人を容易く切り刻むことのできる爪、そして牙が映し出されていたのだ。


「魔獣化、いや魔人化、か」


 彼が気にしたのは異形のものに変わっていくことではなく、自死ができるかどうか、の点であった。爪を腕に突き立て見るが、その傷は瞬時に癒えてしまう。なれば取る方法は一つ、薬で抑えている他の魂の衝動を解放し、自身が飲み込まれるほかにない。ため息をついて鏡を倒すと、シャヘルは他にも薬瓶が置かれているのに気づいた。


「この薬の量はもしや他の者への投与か……。もしやここに魔人化の犠牲となった人が?」


 鎖が届く範囲まで、シャヘルは這いずっていく。幸い隣室の扉にまでは到達でき、部屋の様子を見ることができた。


「ダレト……!」


 自分のことではもはや動揺を見せなかった神殿長は、衝撃で倒れこんだ。手を伸ばそうとするが鎖に縛られた身では届くことはない。せめて様子だけでもと目を見張るとダレトの左手はおぞましい魔人のものとなっており、異形に近づいていた。


「なぜ、なぜおまえまでもが魔人に! ニーナが、ニーナがせっかく生きていたというのに。あぁ、神よ。なぜ、なぜなのです。あの男は家族のためにすべてを投げ出せる素晴らしい男だった。なぜ救いがないのです……」


 そしてシャヘルはダレトの側で横たわる少女に気づく。魔人化が進んでいる少女も意識はなく、それでもダレトの手を握っていた。ダレトの方も少女の手を放すまいと指を絡めており、最後の瞬間まで二人の絆は強かったことをシャヘルは知った。


 そしてシャヘルは人生最後の行動を決めた。

 それは自死ではなく、若い二人を助けるための行動であった。


 シャヘルは元の部屋によろめきながら戻ると、過去に床下に隠していたザハの実とリドの葉を取り出した。長期間保存していたため実用には不向きだと考えていたが、たとえ副作用が出ようとも神の二つの盃イル=クシールの奇跡に縋ったのだ。


 トゥグラトの歪んだ愉悦から、シャヘルの薬瓶には意識を残すためザハの実が多く処方されていた。シャヘルはそれをダレト達の瓶に移し、床下にあったザハの実を全てすり潰して入れていく。

 この万能薬をこれほどの濃度で処方された者はおらず、常人では命を落とすかもしれない。しかし、シャヘルは魔人の力をも冷静に考察しながら、薬が体に受け入れられるよう様々な薬草を調合していった。何年後になるかはわからない。いつかはこの薬が彼らの意識を戻してくれることを信じて。


 彼は無意識に讃美歌を歌い、薬師としての作業を続けている。


 神よ、守り給え

 幼いわが子を救いたまえ

 このクルケアンの全ての子供を救いたまえ

 そのあふれる愛を

 かわいい幼子に賜りたまえ

 いつか御身のもとへ、皆とたどり着くために


 シャヘルは自身の薬瓶を、彼らに処方されるはずであったリドの実を主体とした薬液と入れ替えた。変化を促すリドの実を取り込むことは、シャヘルの意識が数日のうちに消え去ることを意味していた。


「あぁ、私の命は、私の薬師としての技術は、今このためにあったのだ」


 シャヘルはこの十年を思い出す。

 あの時、妹のニーナを失ったダレトは、誰もいなくなった病室に佇む自分の存在にすら気づかず、妹の遺品にすがり泣いていたのだ。

 それからしばらくの後、特務の神官となったダレトを見た時には、胸が締め付けられる思いをしたものだ。少年は表面上取り繕った態度で神の信仰を告白する。しかし、少年のその目に宿った暗い炎が、神を疑い憎んでいることを自分だけは知っていた。


 自分がニーナを救えていれば、ダレトは幸せな少年時代を過ごせたのだろう。

 だから、せめてもの罪滅ぼしにと目の届くところに置き続けたのだ。


「神殿長! なぜ私に文献調査などをさせるのですか?」


 そうダレトは噛みついてきたが、危険な任務で心と体を摩耗させたくなかったのだ。それにニーナは兄に物事を教わるのが大好きだった。宥めつつ、いずれは神官学校の導師にするつもりだった。

 しかし、その結果が目の前の惨状なのだ。自分も、あの子も、人生とはままならぬものだ。最近はダレトの表情が明るくなり、やっと胸をなでおろしていたというのに。


「どうか、ダレトが幸せになれますように」


 そのくらいはまだ見ぬ神に願ってもいいだろう。

 ゆっくりと意識が薄れる中で、シャヘルは引き出しから紙と筆を取り出した。


 ついぞ神の存在を知ることはできなかったが、まだ失望はしていない。

 死後の世界というものがあればそこでも求め、探し続ければいいのだから。

 もしそこで神に出会ったならば、少しくらい愚痴を言ってもいだろう。

 その愛は、この若者達にも注がれていたのでしょうか、と。 


 シャヘルは絵を描き続ける。

 それはまだ見ぬ神へその絵を渡すためか、もしくはこの絵を見た誰かに二人を救ってもらうためであったろうか。いずれにせよ、彼の願いを形にしたものだった。


 筆が床に落ち、シャヘルはついに力尽きた。

 やがて彼以外の意識が精神に入り込み、侵食をし始める。

 それをシャヘルの魂は他人事のように精神の内で眺めていた。

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