第75話 死臭と世間話
〈薬草園にて〉
二人の老人が薬草園の小屋の中で世間話をしている。しかしそれは小春日和の日に、花園を見ながら話される類のものではない。彼らの世間とは、人血と獣脂の匂いが漂うおぞましいものであった。
「ラメドが飛竜騎士団長に就任し、造反者を追い出し始めたぞ。厄介なことになる前にトゥグラトという名を捨て、元の名を名乗ったらどうだ。市民はその名を聞けば恐怖で服従するだろうに」
「王に、そして王妃に勝てる力を得るまでは軽々にあの名は名乗れぬ。これはヒトに敗北した戒めでもあるのだからな。ふん、名と言うのなら、天界を裏切ったお主こそ名を変えればいいのではないか」
「ヤムという名は復讐をするための呪いであり力の源泉よ。この名がある限り儂は何百年でも歩むことができるのだ」
両者ともその名にこだわることは別の意味があるのだが、互いに本心は見せない。いずれ殺し合う相手に手札を見せないためでもあるが、何かを知られて汚されたくないとの想いもあるのだった。
「ヤムよ、
「よかろう、フェルネスを貸してやろう。ただし、最終的な命令権は儂にあるということを忘れるな」
トゥグラトは内心で嘲笑する。あの不羈奔逸な男が老人の思惑通りに利用されるはずがない。神殿に取り込み、いずれはヤムに造反させればこちらの懐は痛まないだろう。
「では見返りに何を望む?」
「儂の望みは知っていよう。そのためにも力がいるのだ。北伐の後、魔獣を百体ほど寄越せ。復元ではあるが災厄をもたらす原始の獣を生み出し、クルケアンを血に染めてくれる」
「強欲な奴だ。だが、フェルネスの対価としては釣り合う。よろしい、必ず送り届けよう」
「では本題に入るとするか」
その部屋には老人以外に生者が二人ほどいた。一人は片腕を失った男であり、一人は少女である。正確には生者というより死者に近い者であると言い換えることができるだろう。
「……生きる機会をくれてやったというのに、本当に愚かな娘だ」
「ほう、お主でも育てたヒトに執着があるのか。もしかして名を捨てないのは、この娘との縁を切りたくないためかな」
「勘違いをするな。月の祝福に目覚めるかと思い、儂の近くに置いていただけよ。だが捨てた今となってその祝福者を連れてくるとは、ふむ、孝行娘とも言えなくはない」
「ヤムよ、この男に関しては以前の約定通りだ。北伐が終わるまでは我に所有権があることを忘れるな」
「分かっておる。魔獣を討伐し、力が用済みとなれば全ての祝福者を殺す――それまでは好きに使うがよい」
ヤムは月の祝福者の顔を思い浮かべる。サラ、そして目の前の男……おそらくこの男の妹もそうだろう。彼らを殺し尽くせば月の祝福は自分だけのものとなるのだ。在るべき世界へと変える、その瞬間が近づいていることを老人は確信し、歓喜の震えを隠し切れない。だが、トゥグラトは気付いているのだろうか? それはトゥグラトが育てた、この男の妹をも殺すということを……。
「では、男を魔人化する作業に移る。術後は何人か薬師の神官を寄越し、変事があれば呼ぶがいい」
「あぁ。しかし、奴は左腕をなくしておるぞ。術に耐えうるか」
「問題ない。代わりの腕は、ほれそこに転がっておるではないか」
ヤムは床に転がっていた大きな腕を指し示す。それはバルアダンに切り落とされたベリアの片腕だった。
「最強だった男の腕に宿る祝福と血だ。どれほどの化け物が誕生するか我ながら恐ろしく思うぞ」
ヤムが権能杖を掲げると、月光が男の体を包んでいく。月の祝福の力が魂を流し込んでいるのだ。複数の魂を融合し魔人となれば、常人以上の力を発揮することができる。だがその体の主導権を持てるのはたった一つの魂だけなのだ。さて、この男は自我を保つことができるだろうか。
「多くの実験体がこれまで発狂しおった。喰らい合いの果てに欠損した自分と他人の思い出が、体験なき知識として魂に記銘されるのだ。むしろ当然というべき結果かもしれん。しかしそれを乗り越えた強者こそが魔人となるにふさわしい」
ヤムは男の側に横たわっている少女に視線を移す。その眼差しは、老人にしては珍しく哀れみを含んでいた。
「さて、我が娘だった者よ。縁により機会を与えよう。儂の魂の力を分け与える故、魔人として生まれ変わるのだ。もっとも未熟なその力では耐えられまいが、死ねばそこまでよ」
老人は自分の腕を切り、血を少女の口に含ませる。そして口元と頬に着いた血をゆっくりと拭った後、再び権能杖を掲げたのである。
魔人化の術が終わり、トゥグラトは去ろうとするヤムの背中に向けて言葉を投げかける。
「北伐が終われば袂を分かつ。それでよいな」
「それでよい。我らの偽りの同盟もあと少しだ。だが、最後に勝つのは我ら
「ではせいぜい力を磨くがよい。神殿は敬意をもってお主たちを葬ろう」
ヤムの姿は闇に掻き消え、代わりに薬師の神官たちが到着した。
「隣で意識を失っているシャヘルともども、容体が悪化しないように処置をせよ。娘の方は適当で構わん」
「仰せのままに」
「それで、我が弟とベリアの様子はどうだ?」
「……神殿で治療をしておりますが、正直、危うい状況です」
「弟だけは死なせてはならぬ。奥の院の石室に入れ、新鮮なヒトの血を注ぐのだ」
「し、しかしその血が足りません。血を抜いていたザババの実の中毒者達も数を減らしております」
「何を言う、アヌーシャ隊がいるではないか。造反しても倒れた弟を探し出して連れてくるほどの忠義者よ。喜んで死んでくれるだろう」
平然と言い放つトゥグラトに、薬師の神官達は根源的な恐怖を感じて立ち竦んだ。それは古い時代、武器を持たないヒトの前に巨大な獅子が現れた時と同じ感情である。捕食者と被捕食者との関係は千年、万年経っても変わるものではないのだ。
「ベ、ベリア殿はいかがいたしましょう」
「死体置き場にでも放り込んで置け、あそこなら腐肉と腐血だけは十分にある。運が良ければ生きながらえるだろうよ」
老人は無感動に言い放った。
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