第276話 時間的概念〈ブレイン〉re


 水槽のなかにいた生物と――脳クラゲとしか形容できない不思議な生物に質問する。

「俺たちが施設にいることを、どうやって調べたんですか?」


 かれらは水槽の中から出ることはできない。なのに、我々を〈サーバルーム〉に案内するように隔壁を開放して見せた。


 質問のあと、ブレインは触手を伸ばして水槽のガラスに触れる。すると無数の数字と図形であらわされた震度計が表示される。


「施設内で検知した微小な振動を頼りに、〈サーバルーム〉を開放したと?」

『それだけではない』薄暗い部屋の何処からか渋い老人の声が聞こえた。

『我々は施設の外から伝わる微かな振動も調べていた』


 かれの言葉で建物屋上に設置されていた非常灯が点滅していたことを思い出す。あれがなければ、施設の存在にすら気づかなかったのかもしれない。どうやら、ことの始めから我々はブレインに誘導されていたようだ。エレベーターが簡単に起動したのも、かれらの手助けがあったからなのかもしれない。


 ちらりと水槽に視線を向ける。その生物は、脊髄神経のように脳から伸びている複数の触手を使って、まるで頭を掻くように、巨大な脳の一部に触れてみせた。正直、自分が何を見ているのか理解できなかったが、〈ブレイン〉と自称する生物は、たしかに脳クラゲとしか表現できない形態をしていた。


 薄暗い水槽の奥に視線を向けると、脳の一部を青藍色に発光させているブレインが数え切れないほど漂っているのが見えた。それはどこか幻想的な光景だったが、素直に綺麗だとは言えない不気味さも同時に共存していた。


『ブレインたちはどうしてそんな回りくどいことをしていたの?』と、当然の疑問を口にするカグヤの声が内耳に響いた。『水槽の中から管理システムが操作できるなら、それを使って外部の人間を呼ぶこともできたはず』


 カグヤの疑問について訊(たず)ねることにした。脳クラゲは無数の触手を揺らしながら漂ったあと、こちらに向かってゆっくり泳いでくる。


『我々は〈データベース〉を使い、施設外部の人間と連絡を取ることを禁じられているのです』と、老人の声を発する脳クラゲが言う。『しかし何とかして我々の存在を認知してもらいたかった。そのために施設の照明制御システムに侵入し、微弱な振動を感じるたびに非常灯とホログラムを投影していたというわけです』


「禁じられていた……?この施設で働いていた人間たちによって、ブレインの存在が秘匿されていた。ということですか?」


『ある意味ではそうなのかもしれない。けれど人間に悪気はなかったのです』

 それから脳クラゲは奇妙な触手を伸ばして、ハクの周囲に集まっていたブレインたちを指した。


 視線を動かすと、複数のブレインがハクの姿を見ようとして、脳のように見える身体の一部をガラスに押し付けているのが見えた。熱心にハクを見つめているブレインたちの姿は、モデルを囲んでデッサンしている群衆のようでもあった。


『ご覧のように我々は外部から得る刺激に対して、まったく耐性がないのです』

 申し訳なさそうな老人の声が聞こえる。

『だから人間たちに保護されていた。という考え方もできます』


 かれが何を言おうとしていたのか考えて、それから口を開いた。

「耐性がないと言っていたけれど、それは光や音に過剰に反応してしまう感覚過敏のようなものなのでしょうか?」


『いや、我々は強い光に傷つくこともなければ、騒がしい音に苛立つようなこともない』

「それなら、何が?」


『人間が我々の本質について理解することは難しい。もちろん、人類を見下しているというわけではない。我々の相互理解を隔てる壁は、種としての存在そのものなのです。しかし噛砕いて簡単に説明することは可能だ』


「教えてくれますか?」

『我々は好奇心旺盛なのです』


 脳クラゲの外見を絡めた皮肉を言いそうになったが、真剣な口調に思わず口を噤んだ。

『我々は元々、果てのない広大で穏やかな海で生きていた。そこは外的刺激がなく、また生きるための労力を必要としない環境でもあったのです』


「刺激がない?」

『深い海を想像してくれるか? 建築物が存在しなければ陸地もなく、自分自身の居場所を特定できる地形が一切存在しない。そんな場所を想像してくれ』


 薄暗い海の中を漂っている自分自身の姿を想像して、それから私は言った。

「あまり想像したくない状況ですね」


『我々は人間がもつ時間感覚を持ち合わせていないが、生身の人間をその環境に置いた場合、数週間も耐えられずに気が狂うと予想できる』


 変化のない海面を見つめながら、徐々に気が狂い、死に向かって着実に進んでいく自分の姿を想像して私は嫌な汗を掻いた。おそろしい考えを振り払おうと視線を動かすと、水槽の入り口を探しているハクとマシロの姿が目に入る。すると何かを感じ取ったのか、ハクはマシロと一緒に水槽の上部に向かい、薄闇の中に消えていった。


「けれど、好奇心を持つことは悪いことではないはずです」


『我々の場合、少しばかり度が過ぎるのです。それまで置かれていた環境の所為(せい)なのか、我々は興味のあることを見つけると、それがどんなものであれ、そのものに囚われてしまう。それがどうして存在しているのか、何のために使用されるのか、そしてどんな法則に基づいて動作するのか気になってしまう。ときに数百年もの間、ひとつの遺物に夢中になってしまうほどに』


「この施設にブレインたちを匿い、その存在を隠すことが、外部からもたらされる膨大な情報から貴方たちを守るための処置だったと?」


『そう言うことです』

「それなら、ブレインたちはこの施設で何をしていたんでしょうか?」


『我々は人類に与えられる装置や遺物の解析など、彼らの研究の手助けをして生きてきたのです』


「人間はブレインたちの持つ性質を利用して、ブレインを都合のいい研究員に仕立て上げていたのですか?」


『そうなのかも知れない。しかし我々は永遠とも呼べる時間の中を漂う生き物だ。安心して生きられる環境を与えられ、そこで好奇心を満たす研究を行う。それは少しも苦にならないことです』


『人間に利用されているって分かっていながら、それを受け入れたのか……』

 カグヤの言葉に私も複雑な心境になる。けれど彼が言うように、ブレインたちは人間とはまったく異なる種なのだ。人間である私には彼らの思考を理解することは不可能なのだ。


「先ほど貴方は、生きるために苦労することのない環境で生きていたと言っていましたが、それはどういうことなのでしょうか? と言うより、そんなことが可能だったのですか?」


 質問のあと、老人の声を発するブレインが痙攣するように身体を震わせるのが見えた。

『海水が特別だったのですよ』


「海中を漂っているだけで、生きていられるほどに特別だった?」

『そうだ。我々は海水があれば生きていけるのだ。しかし厳密には海水ではなく、水に限りなく近い微生物の集まりの中で我々は生きていたのです』


「不思議ですね。もしかして水槽もその微生物で満たされているのですか?」

『うむ。人間の科学者たちが生物の群れを培養し、我々の母星と同等以上の水質を再現してくれたのだ』


「ちなみに」と私は訊ねる。

「その液体を人間が摂取しても、人体に影響はないのですか?」


『問題ない。しかし味がないとも言っていたな。それに高カロリーだから、摂取し過ぎるのも良くないと』


「不躾な質問になりますが、もうひとつ訊ねても?」

『もちろん』


「どれくらいの間、ブレインたちは生きられるのですか?」

『人間の時間的感覚だと、数百年から数千年かもしれない。しかしハッキリとしたことは分からない』


「分からない?」

『そう、まったく分からないんだよね』と女性の陽気な声が聞こえると、もう一体のブレインが近づいてきた。『私たちはさ、人間や他の生物が持つ時間の感覚を持っていないの』


「さっきも聞いたけど、時間の感覚がないっていうのは?」


『私たちはさ、今までずっと海の中を漂って生きてきただけだもん。人間みたいに眠ることもなければ、食事を味わうこともない、もちろん用事なんてなかった。時々、すごい偶然が重なって隕石の欠片を見つけて、それがどういう物質なのか考えて生きているだけ。そんな生活にさ、時間を気にする必要があると思う?』


「いや」と頭を横に振る。


『つまりそう言うことなんだよね』女性は得意げに言う。『私たちの種は、宇宙に存在する時間でいえば、何万年もの間、時間に対する概念を持たずに生きてきた。人類の言葉を習って、文化を学んで、研究して、それで初めて時間的概念についてぼんやりと理解できるようになった』


「人類の文化か……ブレインたちは、みんな人間の言葉を学んだのか?」

『いいえ』と、別の女性の声が聞こえる。『私たちのように、特別な個体だけ。極少数のグループが人間の存在を受け入れて、研究の手伝いをしているの』


「その特別じゃない個体との差はなんだ?」


『普通の個体は、すでに他のことで頭がいっぱいで、人間になんて構っていられないの。だけど私たちは彼らのように〝閉ざされた意識〟を持っていなかった。これはある種の遺伝子疾患なのかもしれない。でもそのおかげで私たちはひとつのことだけじゃなくて、周りにある多くのものに興味が持てるようになった』


 水槽の奥に視線を向けると、ぼんやりと漂う無数のブレインが見えた。たしかに彼らはハクやマシロに対しても興味を示さなかった。己の世界に閉じこもって、なにかの思考に没頭しているようだった。


「ブレインたちはいつからこの施設に?」

『それも分からない、考えたこともないし』


「でも施設のシステムを操作できたんだから、時間くらい確認できたんじゃないか?」


『どうなんだろう。〈データベース〉は私たちに余計な情報を一切与えてくれないし、それにね、私たちもそのことについて関心がなかった』


 ブレインたちの言葉をどこまで信じていいのか分からなくなっていた。

「それなら」と私は質問を変えた。

「この施設の人間が何処に行ったのか知っているか?」


『いいや』と、今度は青年の声を発するブレインが微かに発光しながら近づいてくる。『研究員を含め、この施設で働いていた人間は、ある日を境にして忽然と姿を消したんだ。だから久しぶりに会った人類に、その理由を聞こうと思っていたんだよ』


『地球の文明がすでに滅んでいることを知らないのかな?』

 カグヤの質問に対して、声に出さずに返事をする。

『わからないけど、とにかく胡散臭い連中だ』


 ハクがマシロと一緒に戻ってくると、くっ付いて泳いでいたブレインの群れも一緒に戻ってきた。


「人類に何が起きたのか、本当に知らないのか?」

『知らないね……大規模な災害が発生していたのは知っているけれど』


「それはいつのことだ?」

『さぁね。さっきも話したと思うけど、僕たちは時間を気にしないから』


「でも人間がいなくなったことは知っていた。好奇心旺盛な種族なのに、人間の不在は気にならなかったのか?」


『気になるよ』と、適当に返事をする青年の声が聞こえる。

『僕にとって人間は新しい玩具を与えてくれる存在だったから、もちろん気になった』


「おもちゃ?」

『研究さ。異界の遺物の調査も任されていたしね。だから――』


『ところで』と、我々の会話を遮るように老人の声が聞こえた。

『レイラはこの施設で何か探しものをしていたようだが』


「どうしてそれを知っているのですか?」


『あのね』と幼い子どもの声が聞こえた。

『監視カメラの映像でね、レイラたちが展示室にいるのを見ていたんだ。それでね――あの蜘蛛さんは何ていう名前なの?』


「ハクだよ」

『ハクかぁ……ハクはいい子だね』


 そう言って幼い子どもの声を発するブレインはハクのそばに泳いでいった。


「ブレインたちは〈データベース〉に締め出されていたのでは?」

『もちろん、締め出されている』と女性の声が聞こえた。

『でも施設の警備システムは別よ。そもそも警備システムの操作ができなければ、建物の非常灯を操作することなんて、普通はできないでしょ?』


「そうなのかもしれない」

『それで、レイラはこの施設で何を探していたの』


「貴重な遺物だ」

『どうして遺物なんてほしかったの? レイラは軍人なんでしょ?』


「支給されていた装備を失くしたんだ」と私は嘘をついた。

『失くした?』と驚く声が聞こえた。

『だからそんな旧式の装備だったんだね』


「ああ、そんな感じだ」

『何がほしいの?』


「とりあえず〈バイオジェル〉だ」

『やっぱり異界を探索していたのね』感激する女性の声が聞こえた。

『軍の中でも特別な部隊にしか〈バイオジェル〉は支給されていないはずだもの』


 足元のガラスにつなぎ目があらわれて、横にスライドするように開いていくと、長方形の低い柱が出現する。


『その端末に接続してくれる? 保管室までの経路を送信してあげるから』


 彼女の言葉にうなずいたあと、カグヤのドローンに目配せした。

『了解、私にまかせて』


『何か罠が仕掛けられているかもしれない、気をつけてくれ』

『分かってる』


 カグヤのドローンがケーブルを挿し込んだときだった。

『あれ?』

 疑問を浮かべるような、しゃがれ声が聞こえた。

『何かに妨害された?』


『大丈夫か、カグヤ?』

『うん。ドローンのシステムに何かが不正に侵入しようとしていたけど、〈データベース〉のセキュリティによって接続が遮断されたみたい』


『問題はないんだな?』

『うん、地図もちゃんと入手した』


『やつら、何を企んでいるんだ……?』

『わからないけど、レイの記憶についてブレインたちに話さなかったのは正しかったみたいだね』


『そうだな、弱みにつけ込まれていたのかもしれない……』

 それから困惑していたブレインに訊ねてみた。

「どうしたんだ?」と。


『いえ』しゃがれ声のブレインが言う。

『……何でもないわ』


「そうか」

 すぐにハクとマシロをそばに呼んだ。


『もう行くの?』と女性の声が聞こえた。

『人間の時間的感覚からしても早すぎない?』


「ああ。でも近いうちにまた戻って来るよ」

『そのときは』と青年の声がした。

『何か研究できるようなものを持って来てくれないか?』


 青藍色にぼんやりと発光するブレインを見ながら訊ねた。

「どんなものが研究したいんだ?」


『何でもいいんだ。研究そのものが目的だからね』

「わかった。次に来るときまで用意しておく」


 それから出入口に向かって歩き出した。何故だか分からないが、嫌な予感がずっとしていた。ふと振り返ると、薄闇の中、老人の声を発する大きなブレインだけがガラスのそばに残っているのが見えた。

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