第160話 石柱 re
荒い岩肌が続く横穴を進むと、広い空間が見えてきた。
急な崖になっている横穴の
周囲は不気味なほど静かで、まるで内臓の
「周囲の空気が変化したのが分かる?」
「肌寒くはなったな」と、私は答えた。
「水が流れる音も聞こえる」
「地上で降り続いている雨が、この奇妙な洞窟に影響しなければいいけど」
「そうね。こんな洞窟に閉じ込められるなんて考えたくもない」
「俺が先に降りる。安全が確認できたら合図を送る。そうしたらペパーミントはハクと一緒に来てくれ」
「ハクを先に行かせるのはダメなの?」
ペパーミントはそう言うと、綺麗な眉を八の字にした。
「ハクはまだ子どもで、何が危険なのかちゃんと判断できない。それにハクには大丈夫でも、俺たちにとっては危険なモノが多くある」
ペパーミントは目を
「わかった。気をつけてね」
「ああ、行ってくるよ」
私はそう言うと横穴の
カグヤの偵察ドローンのあとを追うように、鍾乳洞特有の濡れた壁に沿って歩いて
『ねぇ、レイ』とカグヤの声が内耳に聞こえた。
『瞳の能力で敵の存在は感じられる?』
「いや。何も見えないよ」と私は頭を振る。
『どうしてだろ?』
カグヤが操作するドローンは私の周りをぐるりと飛行する。その球体型のドローンを見ながらカグヤに
「どうしてって、どういう意味だ?」
『だってここは半魚人たちにとって大切な場所かもしれないでしょ?』
「大切な場所?」
『たとえば、儀式を行うための重要な場所の可能性がある。その場合、この洞窟は信仰上、特別な意味を持つ聖域になっているかもしれない』
「どうだかな。案外、
『殺すだけなら集落でもできたでしょ? たしかに動物の骨に雑じって人間の頭蓋骨も幾つか見かけたけど……本当にそれだけの場所なのかな?』
「わからない。とにかくこの先に何があるのか調べてみよう。何も見つからないようだったら、無理に探索を続ける必要もないんだ。そのときは
私はそう言うと、左腕に触れて感覚が戻ったか確かめた。
『マリーの捜索は諦めるの?』
「この洞窟も考えていた場所とずいぶんと違うみたいだし、正直、彼女がこの場所に監禁されている可能性は低いと思っている」
私はそう言うと、
『どんな場所を想像していたの?』
「狭い空間に金属の
『なにそれ、レイダーじゃないんだからそんな単純な訳ないでしょ』
「同じようなモノだろ」
『それなら、マリーは半魚人に食べられちゃった?』
「かもしれない。でも、気がかりなことがある」
『教団の
「そうだ」
『集落で見た時は半魚人たちを従えていて、なんだか偉そうだったよね』
「ああ。この洞窟で行われていることは、俺たちが考えるよりもずっと複雑なのかもしれない」
目的の場所が見えてくると、ハンドガンを構えながら明かりに近づいていく。
『レイ、祭壇が見えてきたよ』
岩棚の死角になっていて分からなかったが、先ほどから見えていたぼんやりとした篝火の明かりは、どうやら小さな祭壇を灯すために使用されている明かりだったようだ。祭壇は半魚人たちの集落で見たモノと作りが似ていて、動物や人間の骨で飾られていた。
けれど祭壇については、それ以上のことは分からなかった。祭壇の近くに行って確かめることができなかったのだ。祭壇の周囲には、汚泥の中から顔を出す植物に似た奇妙な生物が群生していて、花弁にも
それは、あのクマにも似た恐ろしい獣に寄生していた生物でもあった。どのような生態をもつ生物なのか分からない以上、その場に迂闊に近づくことはできなかった。
他の道を探すために引き返そうとしたときだった。
『待って、レイ』
カグヤの操作するドローンが目の前に飛んできて私を引き留める。足を止めて周囲に視線を向けながら
「どうした?」
『あの植物みたいなのが生えてない場所があるよ』
「それがどうしたんだ?」
『おかしいと思わない? まるで獣道みたいに、意図的に道がつくられているんだ』
カグヤはそう言うと、奇妙な生物がいない地面にドローンを近づける。
「なにか分かったか?」
『うん。足跡が残っているみたい』
その場にしゃがみ込むと、
「水掻きのある足跡か……それに数が多いな」
『ほとんど半魚人たちのモノだよ』
「間違いないな。この先に何かある」
立ち上がると、深い闇のなかに続く無数の足跡を睨んだ。
『どうするの?』
「行くよ。ここまで来たのは獣に
『それなら、ペパーミントにレイの現在位置と、ここまでの安全な経路を送信しておくね』
「頼む。急いで合流し先に進もう」
洞窟の奥に続く薄闇に視線を向けたときだった。ずっと遠くで青白い光が
「何の光だと思う?」と、カグヤに
『わからない。でも人工的な照明には見えない』
「巨大な生物の発光器官じゃなければいいけど……」と、少々うんざりしながら言う。
『そうだね……』
ハクがペパーミントを
それが楽しかったのか、ハクは何度も脚を伸ばして植物のような生物を
「まるで風に吹かれる
「もしかしたら、この奇妙な生物は地中で互いにつながっているのかもしれない」
「これ全部が、一個の生命体ってことか?」
「そう」
ペパーミントが言うように、その奇妙な生物はハクに反応して
粘液質の不快な
ガスマスクの機能を使用しても視認できない暗闇の奥に、発光する巨大な
洞窟の奥に進むごとに暗闇が
巨大なイカの死骸の近くで立ち止まると、何度か深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした。しかし動悸は収まらない。ふとダイオウイカにも似た生物の死骸に目を向けると、その巨体に
「大丈夫、レイ?」
私のことを心配してくれているペパーミントは、何も感じていないように見えた。
「ああ、平気だ。少し気分が悪いだけだ」
心臓を締め付けられるような胸苦しさを感じて、
「どこかで休んだほうがいいわ」と、ペパーミントは周囲を見渡した。
私も暗闇に目を向けた。けれど、そこまで行ってもこの暗く広大な空間には生物の死骸しかないように思えた。そもそも私には、深海に生息する生物の死骸がこんな場所に放置されている理由すら分からなかった。この洞窟のどこかに海とつながっている場所があるのかもしれないが、たしかなことは分からない。
「大丈夫だ。先に進もう、ここに留まるのは危険だ」
十メートルを超える甲殻類の側を通り過ぎたときだった。
「……マズいな」
私はそう言うと、暗い天井に視線を向けた。滝のように流れ出した水と一緒に、落石が起きているのが確認できた。
「急いで岩棚の陰に隠れよう」
ひょいとペパーミントの
「大丈夫か、ハク!」
振り返ることなく
『んっ、だいじょうぶ!』
ハクは私の前に跳躍してみせると、我々の進路上に落下してきていた岩を蹴り飛ばしていった。その巨大な
岩棚の陰に入ると落石が落ち着くのを待った。
「ハク、さっきの落石で怪我してないか?」
ペパーミントを岩陰に降ろすと、ハクの脚に触れながら
『けが、ない』
ハクはそう言うと、
「大丈夫、俺は怪我してないよ」
私がそう言うと、ハクは腹部を揺らして答える。
「ねぇ、レイ」ペパーミントも私の左腕を取ると、傷の具合を確かめる。
「先に進むにしても、地上に引き返すにしても、急がなければいけないと思う」
「雨の
「うん。多分、水没が始まっている」
彼女はそう言うと、ライトで足元を照らした。
先ほどまで水溜まりと変わらない
我々は暗闇の中、半魚人たちの足跡を追って進んでいた。その間にも、確実に足元の水嵩は増していった。今ではもう膝のあたりまで水に浸かっていて、水に体温を奪われ始めていた。このままでは
「ハクは寒くないか?」と、ペパーミントに手を貸しながら
『さむい、ないよ』と、ハクはいつもの調子でバシャバシャと水を叩いた。
ハクの濡れた体毛を撫でたあと、ペパーミントの腰に手を置いて、一気に彼女の身体を持ち上げてハクの背に乗せた。
『もう少し進んだら横穴があるよ』
しばらく進むと、カグヤが操作するドローンが姿を見せた。
「危険な生物はいなかったか?」
『ううん、グロテスクな死骸ばかりで、動いているものは見かけなかった』
「そうか……」
私はそう言うと、震える左腕を見つめた。左手の指先に感覚が戻ってきていたが、ひどく
「大丈夫なの、レイ」と、ペパーミントがハクの背から身を乗り出す。
「いや。なんだか嫌な気分がする」
「嫌な気分?」
「さっきから視線を感じるんだ。それから耳元で
「いいえ」と彼女は頭を横に振る。「私には何も聞こえないわ」
「精神的に参っているだけなのかもしれないな……」
「そんなにひどいようには見えないけど……きっと気の
「だといいけどな」
横穴は上りの
「ありがとう、ハク」
ハクに感謝すると、ペパーミントが降りるのを手伝った。
横穴は天井も床もヌラヌラと濡れていて、ひどく歩きにくかった。まるで沼地を歩いているようだった。
「足元が
ペパーミントはバックパックを背負い直すと、不満を口にしながらハクに
ハクは転げ落ちそうになっていたペパーミントのバックパックに爪を引っ掻けて、彼女の身体を持ち上げて一緒に勾配を進んだ。
どれくらいの間、歩いていたのかも分からない。十分か、三十分か、一時間かも知れなかった。視覚から得られる刺激が極端に少ないからか、暗闇のなかで時間は曖昧になっていく。それでも我々は何とか横穴を抜けることができた。
そこは地底湖がある広大な空間につながっていた。我々が出てきた横穴の近くには
「見て、レイ。明かりが見えるわ」と、ペパーミントは地底湖の奥を
「半魚人たちがいるのかもしれないな」
「それに」と、彼女は地底湖の側に建っている石の柱に注目した。
「あの巨大な柱……自然にできたモノにしては綺麗に整い過ぎている。おそらく人工物よ」
私は嫌な胸騒ぎを感じながら、オベリスクのようにも見える柱を眺めた。
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