第16話 女帝 武則天 中国史上唯一の女王

 中国・とうと朝鮮の新羅しらぎの連合軍が、日本と朝鮮の百済くだらの連合軍とぶつかった白村江(はくすきのえ)の戦いで、大活躍した、中国、唐(とう)の劉仁軌(りゅうじんき)将軍。

 彼は若く貧しき日々、警察官として誠実に毎日を送っていた。そんなある日、高名な占い師に劉仁軌は呼び止められ、自分の未来を告げられた。

「あなたは、今は一介の役人じゃが、将軍になる面構え!」

その占い師は、袁天綱(えんてんこう)という有名な面相師(人相占い師)であった。劉仁軌は、その予言どおり出世するのだった。


 そして同じ日に、もう一人、袁天綱から、将来は女王になると予言された幼子、武照(ぶしょう)がいたのです。


 建国けんこくしたての唐の国が落ち着いてくると、劉仁軌は、陳倉という県の軍事・警察の責任者である県尉に任じられたのでした。

 小ぶりの雨が何日も続いた、ある日、劉仁軌は、日々変わらず、陳倉県という地域で、まだ低い身分で、職務を勤めていた時のこと。


 街の見回り中に、当時の有名な面相師(人相占い師)の袁天綱(えんてんこう)という名道士に呼び止められました。


 そして、その袁天綱は、劉仁軌の顔をまじまじと見つめ、目を細めてほほ笑みました。

 袁天綱は、自分は面相師であることを劉仁軌に伝え、続けて、

「あなたは非常によい面相をしていらっしゃる。このまま、努力を怠らずに自分の任務を全うしていけば、将来、あなたの位、立場は、官位でいうと、国の宰相まで上りつめ、寿命は90歳ぐらいまで長生きしますよ」

と劉仁軌に告げました。


 袁天綱は、劉仁軌にそのように告げると、自分の従者と供に、招待された家の迎えの者などと、再び、小雨の中を、ゆっくりとした足取りで、ある大きなお屋敷のほうに歩みを進めました。

 利州(荊州、唐の地方)都督(知事のような位)である武士彠(ぶしかく)の館に向かいます。

 その場に取り残された感のある劉仁軌は、

(まぁ、今の仕事、真面目にやれ、ということか?)

とあまり気にもかけず、鼻歌交じりに街の見回りに戻りました。


 当時の有名な面相師(人相占い師)の袁天綱は、武士彠と後妻である楊夫人の間に女の子が生まれたとのことで、生まれて間もない、その女の子の人相見を頼まれていたのでした。


 袁天綱は従者とともに、屋敷の中の、応接広間とも子供の寝室ともいえる部屋に通されました。

 しばらくは、袁天綱は、窓からの小雨ふる景色と、どんよりとした天を、茶をすすりながら眺めておりました。そこへ籐で編まれた大きな揺り籠に寝かされた幼子がつれてこられたのです。


 袁天綱は、最初は、彼女の顔を薄目でほほ笑むように眺めていましたが、次に、驚いた顔をして、目を見開きカゴの中に安らかに寝かされた幼子の顔をしばらくじっと見つめたのでした。

 そして、彼女の相を占い、人相を見た袁天鋼は、この子と、父親、母親を代わる代わる見つめて、皆に静かに伝えたのです。


「この子は、必ずや天のような高貴なお方になられるであろう!」


 これを聞いた武士彠(ぶしかく)は、幼子、乳児としての武照(ぶしょう)の容姿が親バカではないが、非常に美しかったので、将来は皇后こうごう様になるのではないかと期待しました。そして、その予言を実現しようと、その娘に熱心に様々な教養を与えました。

 武士彠は、彼女にその当時の幼名を媚娘(メイニャン)と命名しました。

 この幼子、後の、中国史上で唯一の女性の皇帝、女帝、武則天(ぶそくてん)となるのです。自分の子供までも殺す、中国史上最悪の女王とも云われております。


 後に武照となる媚娘(メイニャン)(武照の幼名)という少女が幸せな生活を送っていたのは、唐の高官であった父、武士彠(ぶしかく)が死去する8歳までのことだったのです。

 媚娘(メイニャン)は、何不自由ない裕福な生活の中に在り、琴や楽器の演奏、舞、詩の詠みかた、等、色々な習い事をさせてもらっていました。

 その父の亡き後、媚娘は異母兄弟にしいたげられ、かなり暗く、つらい生活を送ることとなったのでした。


 武照は、亡くなった父の後妻の娘でした。

 父の先妻には、二人の息子、兄である武元慶(ぶげんけい)と、次男の武元爽(ぶげんそう)がおりました。そして武照は、兄たちに虐められ、辛くあたられたと云います。


 まだ日が昇り始めたばかりの寒い冬の早朝、広い屋敷には、下僕、召使、等、沢山いるはずなのですが、少女、媚娘(メイニャン)は、セッセと屋敷中の掃除をしております。

 そこに、兄、元慶の声。

「媚娘(メイニャン)、俺に茶を持って来い!それと、洗濯物も頼む!」

と言って、部屋の扉を少し開け、洗濯物を廊下に投げ出します。

 媚娘(メイニャン)は、急いで茶を入れた急須、茶器をお盆にならべて急いで兄の部屋に届ける。そして、廊下に放り出された長兄の洗濯物を拾い集め去って行くのでした。そこで、隣の部屋の戸が開けられ、そこから元爽が、眠そうに顔を出し、

「媚娘(メイニャン)、俺にも茶を持って来てくれ」

と命令する。

「はい、畏(かしこ)まりました。お兄様」

と媚娘(メイニャン)は、急ぎ、また、厨房に向かうのでした。

 媚娘は、再度、茶を入れた急須、茶器をお盆にならべて兄、元爽の部屋に届ける。   そして、部屋に入り急須、茶器を載せたお盆を机に置いたとたんに、後ろから抱きつかれたり、身体を触られたり、寝具に倒されたりしたのだった。媚娘が反抗せず耐えているのは、母親の為。抵抗したり、反抗などした場合、母親が何時も酷い目に会うからだ。

 しかし、元爽のそれは、鬼畜な道徳無しのDV、肉親の性暴力というようなものではなかったのです。元爽は、本当に武照が大好きで、妹として愛おしかったのだと思われます。ただ、武照の母、父の後妻については、かなり酷くあたっていたと云われております。

どんな事にもめげない聡明な武照は、二人の陰湿な性格の兄達に密かに反発していました。

 彼女は、

(いつかきっと仕返して、復讐をしてやる!)

と、思っていたのでした。


 少女期から、媚娘は、見る者、皆を魅了する美女となっていました。艶やかな美女であり、聡明な頭脳を備えていたと、史書に記録されています。

 武照の亡くなった父の武士彠、その先妻の二人の息子のうち、次男の武元爽(ぶげんそう)は、父、武士彠が没して後、名門、武一族のなかで、いち早く政治的に頭角を現したとされます。

 彼は、安州という地方の戸曹という官僚となり、それを経て、少府少監(しょうふしょうかん)に昇進したとされ、兄である元慶(げんけい)よりもその将来を一族の皆に期待されて育ったと言われております。

 その次男の武元爽は、父が寵愛した異母妹の武照の養育を一手に引き受けたのでした。元爽は、兄や一族の手前、武照に辛くあたっておりますが、実は、内心、武照がかわいくて仕方なかったのです。しかし、父の後妻として入った武照の実母の楊夫人に対しては好意的ではなかったとされます。特に父の死後は従兄弟いとこである武懐亮・武懐道・武懐運と結託して、一族で後妻である楊夫人を冷遇するよう仕向けたのでした。そのため、楊夫人の深~い恨みを買うこととなり禍根を残してしまったのです。


 武元爽の主催で、武懐亮・武懐道・武懐運なども参加して、一族で酒宴を催した折、楊夫人と武照は使用人の給仕のように扱われます。

「おい!酒を持って来い!」

「早くしないか!」

「皿を下げろヨ」

 楊夫人は、一族の男から、次々、使用人のように扱われます。一同を睨みながらも必死に耐えております。同席して食事も出来ません。それを懸命に手伝う武照でした。

 武元爽が、

「武照!こちらに椅子を持って来て坐れ。酌でもせい」

と、誘います。

「母も宜しいですか?」

と聞いたところ

「何⁉だめだ!」

 従兄弟たちも、

「気分悪いわ」

とか、口々に言うのでした。

 武照が、母を気遣って、なかなか来ないのをみた武元爽、

「武照!舞でも楽器を奏でるでも、何でも良い。客人を楽しませろ」

と、酔って呂律が回らないながらも命令した。

 武照が、奏者に演奏させて、舞をお披露目する。その艶やかさに、酔っている客人たちが、大きな喝采を浴びせる。嬉しそうに応える武照の笑顔に、憎しみに満ちた鋭い眼差しが垣間見られるのであった。



 武照は、義兄、武元爽の計らいで、14歳で唐の二代皇帝、太宗の後宮(日本では、徳川時代の大奥のようなもの)に入り、そして太宗の最もお気に入りとなりました。当初は太宗の寵愛をおおいに受けていたのでした。

 義兄、武元爽は、皇帝がいる時分を見計らい、武照を自分の妹ということで、皇帝宮に遊びに来させては、琴や踊りなどを披露させていたのです。武照が皇帝の目に留まるように!

 武元爽の思惑通り、太宗皇帝は、武照に溺れて行きます。武照が、望むもの全てを叶えてやるようになりました。そこで、義兄、武元爽は、武照を通して、自分の政治的権力を高めて行きました。


 ある日、後宮の自分の部屋で書を読んでいる武照のもとに、従事者がやって来ます。

「武元爽様、母君からの御用とのことで、お出でになられました」

 武照の、対応は如何するか?の返事を待つ間もなく、義兄、武元爽が部屋に入ってきました。こういう場合、従事者は、

「無礼者!」

と言って、来訪者を追い返し、武照の返事を待たせるのだが、武照の義兄であり、武照の後ろ盾で、今やある程度の権力者でもあるので、素早く引き下がった。

 武元爽は、

「失礼するヨ?」

と言って、ずかずかと部屋に入って来ました。

「いらっしゃいまし。武元爽様」

と、席を薦める武照。

 従事者が、武元爽の前に茶を置いて、部屋を出たのを確認した武元爽は、

「ちょっと、俺の官職の位を上げてくれるように、皇帝に頼んでみてくれよ。それと、周囲に配る金が必要だ。少し、都合してくれないか?」

と、ウィンクをして武照に頼み込んだのだった。

「私、それに、此処にはお金等ございませんわ。なので、そちらに置いてある金細工の品々、お好きなだけお持ち下さいませ」

と、静かに答えた。しかし、武照が横をそっと向いた顔色には、メラメラと怒りが込み上げていたように見える。

 武元爽は、鏡台の前の机に置いてある金飾りを、片手一杯に掴み取り、懐に入れた。

「じゃ、また!お邪魔しました」

と武照の部屋を出る。

(後、一押しで、宰相にでもなれるかも・・・・・・)

 と、ほくそ笑む武元爽。


 しかしここで、武照へのやっかみが入ります。

「武照女王」とか、「李(*1)に代わり武が栄える」というような、武照に溺れる太宗への陰口、流言が広まっていったのでした。


(*1)混乱し、衰退した中国、隋の最後、山西の地方長官であった李淵りえんは、隋の煬帝ようていの歿後、中国を統一し、都は長安のまま、高祖と名のり、とうを建国した。唐の皇帝は、李一族で世襲される。


 武照へのやっかみが、唐の王朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていったのです。

 太宗は、武照がいかに魅惑的であろうとも武照とは距離を置き続けたのでした。

 後宮の宴席で、数多くの女性に囲まれ、酒を酌み交わしながら武照の舞を楽しむ太宗。そこで、舞いながら武照は、太宗に近づく。そして、小声で囁く。

「陛下、今宵は、私の部屋に来てくださいまし」

 太宗皇帝は、にこやかに片手を横に振り、

「今宵は、早めに床に就く。疲れが溜まっておる」

と、やんわりと断られた。一瞬、鋭い眼差しで皇帝を睨む武照。しかし、直ぐに皇帝の元を離れ、にこやかに舞続ける。皇帝を妖艶に誘う様に舞い、床にひれ伏し、音楽とともに舞を終わる。皇帝は、にこやかに拍手をして席を立ち、その場から去られた。顔を上げ、皇帝の背中をまたも、武照は上目遣いに睨みつけている。

太宗に殺害されることを恐れた武照は、皇太子の李治を誘惑します。


 武元爽は、太宗に武照が遠ざけられ始めた時に、太宗の息子の李治(その後、即位し高宗)に接近して寵愛を受けるよう、武照に指示しました。


 太宗は52歳になったころから体調をくずしはじめ、床に伏せることが多くなっておりました。武照はまだ20代、父 太宗の看病のために詰めている皇太子の李治の心を射止めることに、いとも簡単に成功したのです。


 老齢になって、床に臥せがちになった太宗皇帝。床に臥せたまま、主治医の診察、治療をうけ、数名の女従者に色々世話を受けてはいるが、そこに武照の姿は無い。

 皇帝の床の蚊帳の外に静かに控えているのは、皇太子の李治。そこへ、武照が茶を運んでくる。それも、背後から李治に体をくっつけるように。

「皇太子さま、毎日、ご苦労様です。私、武照と申します」

「あ~、有難う。そなたが武照か?」

と、皇太子の李治は、武照の妖艶さに少し戸惑った。


李治は妄目的に武照に溺れていったのでした。


 次期皇帝である高宗李治の寵愛を受けるようになった武照は、皇后となり、短い間での皇太后という身分を経て、自らが皇帝の地位につくことになります。2000年以上にわたる中華帝国のなかで唯一の女帝(武則天ぶそくてん)です。



 武照は、太宗の死、崩御によって慣例通りであると後宮の女性は、出家することになるのですが、自ら、自分の額に(牛ともフクロウとも見える不吉な焼印)を付けて、仏尼になれないようにし、出家を免れました。

そして女性の道士(坤道)となり道教(*2)の寺院(道観)で修行することとなるのでした。


(*2)<道教> 不老長寿の仙人になることを主な目的とする中国発祥の宗教。唐王朝で重んじられ、玄宗皇帝は最大の信奉者として知られている。



 武照は、仏尼になって出家するのを逃れただけで、道教の寺院で修行に勤めていたわけではないようです。義兄の武元爽が、逐次、後宮内の状況を報告に来ておりました。また、報告としながら、寺院から自分の別邸に武照の部屋も用意し、頻繁に連れ出しておりました。

 武元爽は、武照が高宗李治の後宮に入れるよう画策していたのでした。

 今日も武元爽は、武照を別邸の部屋に連れ込んでおりました。

 武元爽は、武照を後ろから抱き締めながら、武照の額の焼印を優しく指で撫でます。

「この焼印もお前の魅力の一つだが、後宮に入るには消さねばな」

と、小さな声で囁いた後、

「医者に消させるか?化粧で消すか?どちらでも可能だ。調べてある。お前の良い方にしろ。私は、お前には、本当は後宮などに入って欲しくはないのだ。だが、後、少し、皇帝の後押しがあれば私は、宰相まで登りつめることが出来る」

と、続けました。

 武元爽は、武照を抱きしめながら、その様なことを呟いたのでした。そこで、武照は、

「あら、嫌だわ。お兄様、言っておりませんでしたか?」

と言いながら、自分の額の焼印を指で剥がして見せた。シールの様なものだったのである。武元爽は、驚き武照を見つめていたが、次には大笑いをし始めたのだった。


 宮中では、太宗の後を継いだ高宗の皇后の王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃(しょうしゅくひ)が激しく対立しておりました。

 武元爽は、王皇后側に付きます。機会があるごとに、蕭淑妃が皇后の悪口を言いふらし、皇帝にも讒言していると伝えます。王皇后の蕭淑妃への怒りを煽っておりました。そして、王皇后に進言したのです。

「皇后さま、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らすには、私の義妹の武照を後宮にお入れになっては如何でしょうか?妹には、皇后さまに尽くすよう、良~く言い聞かせておきますので」

 王皇后は、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らそうと、高宗に武照の入宮を提案、勧めたのでした。そして、武照が入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたのですが、ご自分、王皇后も疎遠になってしまったのでした。

 武照は、高宗の側室のような立場で、高宗の子供を宿し、生みます。

 王皇后が、武照の生んだ子供を見に部屋に寄りました。王皇后は後宮をおさめる立場の者として、後宮の女官の出産を祝うために来たのですが、武照はその時、不在でした。

 王皇后は、その子を抱き上げ、子供を一瞥して、そして直ぐにお帰りになったのでした。

 その後に皇帝が武照の部屋を訪れたのでした。

 皇帝は我子を抱き上げようとしますが、その子の死んでいることに気がつきます。

「おい!誰か!武照を呼んで来い、この子は、死んでおるぞ!」

 後宮中が騒がしくなりました。

「この部屋に最後に来たものを探せ!世の前に連れてこい!」

 高宗皇帝は、周囲の者に、大声で命じます。 


 後宮に詰めていた者達は、王皇后が、その部屋に出入りしたことを高宗皇帝に告げ、武照は先ほどから部屋に姿は無かったことを口々に伝えます。

 少し前に、高宗は、幼子を連れてくるよう武照に使いを出しましたが、その者も武照の姿が見当たらないと言っていたことを思い出しました。

 高宗は、その子を王皇后が殺したとし、王皇后は、刑を受けることになったと云います。


そして、武照は、皇后となるのでした。


 王皇后が武照の子を見に来てお帰りになった後に、武照は、部屋の陰から誰にも見られないように、そっと現れ、自分の子の首を絞め、殺したのです。そして、また、武照は、その場から姿を消します。

 武照は、殺した我子をそのまま寝かしたままにしました。そこへ、皇帝が、子供を見に来られたのです。


 武元爽は、武照が高宗の皇后となった後も影で暗躍し、高宗が武照の姪(長姉の娘)の魏国夫人を溺愛し、これが武照の逆鱗に触れたことに端を発した政争では、従兄弟いとこの武懐亮らと武照を繋ぐ役割を担い、陰謀に加担しました。

 高宗皇帝が泰山での封禅を終え長安に戻ったことを利用し、武懐亮は魏国夫人を密かに毒殺したのでした。

 その後、武元爽は、武照に武懐亮および武懐運らに罪状を着せて、処刑させたのでした。


 高宗皇帝は武照(武則天)をご自分の妻として新しく皇后に立てたいと思い、側近たちに相談しました。このときの主な官僚、王の側近である人物は、李勣(りせき)・長孫無忌(ちょうそんむき)・褚遂良(ちょすいりょう)・于志寧(うしねい)であった。

 長孫無忌と褚遂良は武照が皇后になることに反対し、于志寧は何も意見せず沈黙を守り、最高幹部の李勣はこの会議に出ておりません。欠席しました。今日でも国際政治の場でよく見かける棄権と言うやつですね。反対2.5、賛成0、棄権1、です。

高官たちに反対の決議をされた高宗は、どうしてもあきらめ切れずに、自ら最高幹部の李勣に対して意見を問うたのです。

 李勣は、

「これは陛下の自身の問題です。なぜ、赤の他人である私に聞くのですか?ご自分で好きになさるがよい」

と答えたとされます。

 大幹部の権力者の李勣にとっては、先帝の愛人を、息子が正妻にしたいなど、どうでもいいことだったのでしょう。ただ、年齢的に、保身を図り始めていたのでした。

 この李勣の言葉を、武照が皇后になることに賛同を得たとした高宗は、ご自分の思い通りに武照を皇后に立てたのです。

 この後、武照による 専横の時代 が始まり、李勣は(この暗黒時代を自分の保身のために招いてしまった)と後世から批判を受けることになります。

 李勣からすれば、長年粉骨砕身ふんこつさいしんして仕えてきた先帝の太宗から左遷という扱いを受けたことが微妙な恨みとして残っていたようです。皇帝に対し(そちらがそのように疑うのならば、私の方とて、保身に走るしかない)と感じていたようです。


 李勣の左遷という扱を図ったのは、高宗皇帝の父、先帝の太宗。それは李勣を畳州都督へと左遷するということした。

 先帝の太宗も晩年になると李勣の才能と力を恐れ、皇太子である李治(高宗)に対して李勣が忠誠を誓うか否か心配になってきたのでした。そして、ある策を考えたのでした。

左遷!

 先帝の太宗は、息子、皇太子の李治(高宗)に、

「李勣が、もし左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷させた者を再登用する事は大恩であり、それにより彼は恩に感じてお前に対し、忠誠を尽くしてくれるだろう」と言い残して、死去したのでした。李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。

 李勣も太宗の思惑を見通していたので、この詔勅が出た後に、家にも帰らずにその足で任地へと赴いたのだった。

 李治が即位して高宗になると、太宗の遺言通り、すぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品(宰相)とされ、一躍朝廷の重鎮のひとりとなったのである。


 高宗が、武照を皇后としたその後、武照が皇帝(武則天)となったのでした。そのおりに、武照が皇后になることに反対した長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり、病死したりしたとされます。

 李勣はもちろん、更に武則天に信頼されるようになるのでした。

667年~668年の高句麗遠征(唐の高句麗出兵、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功しております。


『日本書紀』天智天皇紀には「大唐の大将軍英公(英国公李勣)が高麗(こま)を打ち滅ぼした」と記されている。



 武照は、皇后となるために、我が子をも殺してしまいました。武照の策略で、武照と高宗の間にできた子を王皇后が殺したことになり、皇帝より、王皇后は、刑を受けることになったのでした。

 高宗は「『陰謀下毒』の罪により王皇后と蕭淑妃を廃し、一般の庶民として投獄しました。そして、彼女らの父母兄弟なども官位を剥奪し嶺南に流すという詔書を発布しました。しかも、武照によって、王氏と蕭氏は廃位の1年以上前から後宮の暗い奥の部屋に幽閉されていたのでした。

 武照は、高貴な彼女たちを徹底的に辱め、おとしめて狂い死にさせてやろうと考えていたのです。

 彼女らの身を案じた皇帝が幽閉場所まで出向いていったことに腹を立てた武照は、とうとう彼女らを処刑するよう命じます。

 王氏と蕭氏を鞭打ちの刑に処したあと、その腕と足を切断させ、酒のカメのなかに首だけ出したまま放り込んだのです。


 武照は王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした後、生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませたと云われます。

 二人の高貴な女性、王氏と蕭氏は、武照のおそろしい復讐の業火に、酒壷の中で数日間泣き叫んだ後、絶命したのでした。

 蕭氏は死の間際に、天に願います。

「武照が生まれ変わったら鼠になり、自身は猫に生まれ変わって武照を食い殺してやる!」と。

 二人は、武照を呪いながら死んだと云われ、後年の武則天は宮中で猫を飼うことを禁じたと云われています。

武照は、王皇后と蕭淑妃を追い落とし、皇后となったあとも体の弱い高宗に代わって政治を執るのでした。

 どんなチャンスも見逃さず、自分の地位向上のためにはどんな手も使う、そうした執念とバイタリティ。

 皇后になるためには、お腹を痛めて産んだ我が子ですら手に掛ける、武照の成り上がることへのすさまじい執念。


 面相師(人相占い師)の袁天綱(えんてんこう)はここまで、幼子の将来が見えていたのでしょうか?

 義兄、武元爽は、どんな状況でも武照を密かに愛し続けたと云われます。


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