16 Side 司 01話

 部室棟へ行く途中、見たことのある後ろ姿が目に入った。

 たぶん、御園生さんの妹。これほど髪が長い人間はそういない。

 ただ、話すこともないし声をかけるような間柄でもない。そう思って一度は通り過ぎた。が、通り過ぎるときに見た顔色があまりにも悪くて引き返さずにはいられなかった。

 もともと色白だし、決して血色のいいほうではない。けれど、そんなレベルではなく、目を瞠るくらいに青白かった。明らかに具合が悪いだろう、と一目でわかるほどに。

 正面から近づき声をかけたら身体が傾いだ。咄嗟に支えると、

「……藤宮先輩、ですか?」

 見えているはずなのに不確かな問いかけ。

「そうだけど……」

 まさか、見えてないのか?

「具合悪いの?」

「少しばかり」

 彼女の目を見たものの、彼女と視線が合うことはなかった。

「これで少しばかりっておかしいだろ? 御園生さん、程度問題も言葉で表現できないわけ?」

「これから保健室へ行くところです」

 反抗的な声が返された。

 目の前の人間も見えないやつが、どうやって階段を下りるんだか……。

 さすがに見つけてしまったものは放っていくわけにもいかず、

「それなら保健室まで連れていく」

 言って、横抱きに抱え上げた。

 彼女はそれがいたくお気に召さないようで、自分で歩けるとか言いだす始末。

 無理だろ……。途中で転落したらどうするつもりなんだか……。

 そんな暁には御園生さんの慌てる様が目に浮かぶ。

 有無を言わさず運んだけれど、保健室に着く前には意識がなくなっていた。

 熱があるのかすごく苦しそうに息をしている。

 保健室には姉さんがいる。姉さんはこの学園の校医だ。

 保健室とは名ばかりで、今は診療所という役割を持っている。

 生徒も職員も具合が悪くなると訪れ、必要があれば薬が処方される。

 俺は極力近づかないようにしているけど、今日ばかりは仕方がない。

 ドアの前で姉さんの名前を呼ぶと、「おや?」といった顔で出迎えられた。

「司が来るなんて珍しいわね」

「そういうのあとでいいから。とりあえずこれ」

「あら急患? 奥のベッドに寝かせて」

 指示されたベッドに彼女を下ろす。

 通常、意識のない人間というのは重く感じるものだ。それにしては軽いと思うのは気のせいじゃないだろう。

 いったい何を食べたらここまで細くなるんだか……。

 ベッドから離れ、姉さんに場所を譲る。

 姉さんの顔は医者のそれに変わっていた。

 スイッチが入る瞬間――こういう顔の姉さんには、めったにお目にかかれない。

「ずいぶんかわいい子ね」

「それ、御園生さんの妹」

「……あら、身内目かと思ってたけど、蒼樹の話は本当だったわけか。そっか、蒼樹の妹なら――司、体温計と血圧計持ってきて」

 人使いが粗いのは相変わらず。

 でも、御園生さんの妹なら、というのはどういう意味なのか……。

「脈が弱い……?」

 そんな言葉がカーテンの向こうから聞こえてくる。

 カーテン脇から血圧計と体温計を渡すと、自動血圧計のブウン、という音が聞こえてきた。それはすぐに測りなおしを知らせる音を発した。二回同じことを繰り返すと姉さんが舌打ちをして、

「司、ロッカーから水銀計出して」

 ……自動血圧計じゃ測れないってことか?

 すぐにロッカーから取り出し渡す。

「メモって。血圧、六十の四十。体温三十八度八分」

「六十の四十って何……?」

 紙に数字を書くも、信じられない数値だった。

 熱が高ければ血圧だって多少は上昇するはず。それが正常値をかなり下回っているなんて――ショック状態!?

「司が見つけたとき意識は?」

「あった。かなり朦朧としてたみたいだけど、声で俺のことを判別してた」

「そう……。御園生さんっ、聞こえる? 御園生翠葉さんっ」

 肩を叩きながら強く呼ぶ。

 意識確認だ。大声で呼びかけ身体を揺さぶるも、薄く目を開く程度。

「これだけ熱があるのに血圧が低すぎる。司、蒼樹か秋斗、すぐに来られるほうを呼んで。病院に搬送するっ」

 冷静に指示を出してはいるが、緊急を要していることが声音でわかった。

 すぐにスマホを取り出し、御園生さんの番号にかける。姉さんも子機を取ると短縮ボタンを押し、スピーカーホンの状態にして子機を放った。

「学校医の藤宮湊よ。今から急患を運ぶ。名前は御園生翠葉。カルテ出して処置室空けておいて。体温三十八度八分、血圧六十の四十。輸液と昇圧剤の用意をお願い。モニタリングも必要になる。念のため、除細動機も。今から十分以内には着くからよろしく」

 待てよ、除細動機って……? 心停止の恐れがあるっていうことか!?

 さっきから御園生さんのスマホにコールするも、なかなかつながらない。切ろうとした瞬間に御園生さんの声が聞こえた。

「妹さん倒れて今保健室です。すぐに来られますか?」

 確実に伝わるように話すと、

『今、第七実験室にいるから十分はかかるっ』

 すでに走り出しているのだろう。ところどころ聞き取りにくい。それに第七実験室と言えば大学の最奥だ。

「すぐに折り返します」

 通話を切ると秋兄にかけた。

「秋兄、御園生さんの妹が倒れた。今すぐ保健室に来てほしい」

『車は?』

「必要」

『了解。三分で行く』

 こういうとき、皆まで話さなくて済む相手で助かる。

 通話を切ってすぐに御園生さんにかけた。

「秋兄のほうが速いので先に病院へ行きます」

『助かるっ』

 言うと携帯は切れた。

「捕まったっ!?」

 姉の問いかけに、わずかだが焦りが見えた。

「秋兄が来る。三分以内に表に車回すって」

「わかった」

 たぶん、早急に昇圧剤を投与しないと危ないのだろう。

 熱も高いし、そのうえ脈が微弱ともなれば、血液循環量不足により脳や心臓が酸素不足になりかねない。

 背中にじわりと嫌な汗が伝う。

 一分一秒が長く感じるってこういうことを言うのだろうか。

 バンッ――外で大きな音がし、秋兄が到着したことを知らせた。

「翠葉ちゃんはっ!?」

「良くない。すぐに出して」

「わかった」

 秋兄は彼女を抱えて車へ運び、姉さんと保健室をあとにした。


 人がいなくなると一気に力が抜けた。

 近くにあった椅子を引き寄せて座り、手元に残ったメモ帳を見る。

 メモ帳は白く何も書かれていない。けど、筆圧でさっき書いた数字が読み取れる。

「……なんだよ、この数値」

 こんな数値は見たことがなかった。

 血圧がこんな数値なら、通常あっさり意識を手放すし、意識があったとしても朦朧としていておかしくない。

 彼女の視線が定まっていなかった理由がわかった。

 ……努力は認める。でも、自力で保健室まで行くなんて無理だろ。なんで人に言わなかった?

 ふと、横を通り過ぎたときのことを思い出す。

 とても助けを求めているようには見えなかった。

 どちらかと言うと、気に留められないようにしていた気がする。どうしてそんなことをする必要がある? なんで助けを求めなかった?

 俺たちが通り過ぎるとき、髪で顔を隠して壁際に寄ったのはなぜなのか……。

 知られたくなかった? 気づかれたくなかった?

 ――冗談じゃない。

 抱き上げたときに言われた言葉を思い出すと腹が立った。

「自分で歩ける」って、ふざけるなっ。

 具体的には知らないとはいえ、俺は知っているのに……。体調に不安があること、俺は知っているのに。

 どれだけ強がりなんだよっ。

 ――違う。強がりとかそんな域じゃない。下手したら死ぬだろ……?

 だいたいにして、こんなになるまで我慢するなよっ。我慢していいことはないし、自分がつらいだけだろっ!?

 今までに感じたこともないような憤りがこみ上げてくる。

 とにかく腹立たしくて腹立たしくて、胃のあたりがきゅっと締め付けられるくらいの――不安?

 俺、心配なのか……?

 いや、心配する必要なんてない。

 姉さんがついているし、病院の受け入れ態勢も整っている。

 手遅れになることはない。……なのに、この焦りともとれる感情はなんなんだ。

 昨日会ったばかりで親しくもなんともない相手。

 親しくなるどころか、彼女にはすごく警戒されていたと思う。

 でも困ったことに、こっちは会ったばかりという感覚が完全に欠如していた。

 この一年、ずっと御園生さんの話を聞かされていたからか、初めて会ったのに初めてという感じがしなかった。

「くそ……」

 帰ってきたら秋兄は詳細を教えてくれるだろうか――否、きっと教えてはもらえない。理由は、彼女がいやがるから。

 あのとき、俺じゃなくて秋兄や御園生さんだったら、彼女は素直に具合が悪いと言ったのだろうか……。

 ――それはそれで面白くない。

 なんか俺、変だ……。いつもの俺らしくない。

 きっと、非日常なことに出くわして少し混乱しているだけ。

 目を閉じて冷静さを取り戻そうとした。でも、目を閉じれば彼女の蒼白な顔ばかりが浮かんでくる。

 ……図書棟で待っていれば秋兄は戻ってくる。そしたら無事かどうかくらいは教えてもらえるはず。

 詳しく知ることができなくてもいい。ただ、無事かどうかがわかれば――

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