モブとか知らないし婚約破棄も知らない
わたしは幼いころから病弱でした。
人生のほとんどを病室で過ごし、その人生も、そう長くはありませんでした。
窓の外には広い世界があるのに……。
知らないことばかりだったという悔いだけを知り、わたしは二度と開くことのないまぶたを閉じました。
乙女ゲームというものも遊んでみたかった。
わたしのわがままで買ってきてもらった乙女ゲームは、パッケージしか見ることができないまま、サイドテーブルに置かれていました。
***
「いいかい、お嬢さんたち。機会は平等。誰の手にも幸せは訪れうるんだ」
わたしが次に気づいたとき、そこは病室ではありませんでした。
「ここは……教会?」
知識としては知っている教会の建物の外。
塀の内側なので、教会の敷地内の庭だと思います。
そこでわたしは、ひとりの男性を囲んでいる、大勢の女性たちのひとりとなっていました。
「わたし、もしかして生まれかわった?」
わたしの足で大地を踏みしめ、わたしの口で息をしています。
病室のように白くない、彩りに満ちた世界に立ち、わたしは感動していました。
まるで、脇役だったわたしが、物語の主役になったかのような気分。
感動に打ちふるえるわたしをよそに、輪の中の男性が声を張りあげます。
「この薔薇を拾った者と、わたしは婚約する。幸運の女神の名のもとに、平等なる機会を与えよう」
言って、彼は薔薇を空へと投げあげます。
ぱさり。
すぐに地面に落ちました。
「……ん?」
誰も拾おうとしません。
周りを見ると、みなさん、ひとりの女性を眺めていました。
ひときわ目立つ真っ白なドレス。
見るからに他の女性のものとは値段の桁が違うとわかる、高級で優雅なデザイン。
それを身にまとった美しい女性は薔薇を投げた男性を見て、
「あらあら、早く拾わないとあなたと婚約できませんわ」
などと言いながらも、急ごうとはしていません。
周りの女性たちも拾おうとせず、彼女の所作を見守るばかり。
「なんで拾わないの?」
わたしは、自分の足で歩ける感動を噛みしめながら――
さっと薔薇を拾いました。
きれいな赤い薔薇です。
「え、きみ……」
「はあ? あなた何?」
男性と、ドレスの女性がわたしをとがめるような声をあげて近寄ってきました。
「なんできみが拾うんだ?」
「そうよあなた、モブでしょう? ここはわたくしが運命の薔薇を手にする場面なのですから、勝手なことをしないでくださる?」
モブ……?
何を怒られているのか理解できません。
「困ったことになったな」
「わたくしが拾うために彼は投げたの。婚約は決まってたけど、神からの祝福で運命的に出会ったってことにするための正式な婚約の儀式でしょう? モブは邪魔しないで!」
そんな儀式、聞いたことがありません。
ここはどこの世界なのでしょうか。
わたしは、モブという名前?
目立ってはいけなかったのかもしれません。
だとしても……ここにこうやって生まれかわったことには意味があるはず。
わたしは自分の喉で自分の意見が言えることを楽しみながら言いました。
「でもわたし、薔薇拾ったよ。これで婚約は成立。神様がわたしのほうを選んだってことじゃない?」
「あなた――」
ドレスの女性は目を剥いて、
「モブはモブらしく背景のひとつになってなさいよ! 台詞なんてない。あなたは黙ってただ存在していればいいの! 早く薔薇を寄越しなさい」
「いやよ」
わたしは負けません。
「黙るだけの人生を終えて、やっとここに来たんだもん。モブだとしてもわたし、自分で掴んだものは離したくない。わたし婚約する!」
「そんな婚約は無効よ。ほらあなたも黙ってないで、婚約破棄とか何とか言って仕切りなおしなさいな」
すると男性は頭を掻きながら、
「……いや、儀式は絶対とされている。一度成立したら無効にすることは許されないんだ。信仰的なものでね」
「は?」
「だからここは、薔薇を拾ってくれたこの子と婚約するのが正しい。きみには申し訳ないけど、神がそう決めたとしか思えないよ、これは」
「うそ……」
ドレスの女性が膝から崩れ落ちました。
男性は、彼女には見向きもせず、薔薇を持ったわたしのまえにひざまずき、
「モブだなんて言わせて悪かったね。きみは誰よりも意志の強い、きみの人生の主人公だ。ぜひ、ぼくと婚約してほしい。いろいろと立ちはだかる問題はあるけど、きみならぼくと一緒に立ち向かえるだろう?」
立ち向かう。
病室での孤独な戦いではなく、病室の外で、ふたりで幸せになるための戦い。
たとえどんな困難が待っていようと、わたしには輝かしい道に感じられました。
それにこの男性の顔――
よく見ると、病室で見たことがあると思いあたりました。
遊べなかった乙女ゲームのパッケージから、わたしに笑いかけてくれていた優しい顔とそっくり。
ここは乙女ゲームの世界で、わたしはわたしの意志で生きることができるのです。
「ええ、よろしくお願いします」
晴れ渡る青空の下、わたしは世界じゅうの誰よりも晴れやかな気持ちで答えていました。
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