婚約破棄後の世界から

「浮気したら別れるって言ってあったよね。覚えてるでしょ?」


 わたしは彼の首元のネクタイを掴んで静かに問いかけました。

 忘年会と偽り、浮気の逢瀬から帰ってきた彼に向かって。


「ああ……覚えてる」

「じゃあ、浮気をしたってことは別れたいってことよね? 婚約破棄よ」

「悪かった」


 彼は謝りました。

 でも、謝罪の言葉なんて要りません。

 婚約破棄して慰謝料をもらえば、それでもう終わりの関係です。

 わたしは浮気に気づいて帰宅を待つあいだに、心の整理を終えていました。


「あとは事務的に済ませましょ。弁護士を通すわ」

「ま、待ってくれ! ただの出来心だったんだ。だからどうか許してほしい」

「……弁護士を通すわ」


 わたしはそれだけ伝え、実家に戻るための支度を始めました。


 すると――


「あ……ああ……っ」

「え?」


 彼が、頭を押さえて苦しみだしました。

 のたうちまわるほどの激痛に襲われているように見えます。


 演技?

 でも、鬼気迫る表情……。

 救急車を呼ぼうかと悩みはじめたところで、


「――ッ! も、どった……のかっ? 今は? 今はいつだ?」


 わたしが日時を伝えると、


「ああ、生きてる! きみが生きているのが何よりの証拠じゃないか! うう……戻れた……」


 ぼろぼろと涙を流しています。

 さすがに様子がおかしいとわたしは感じました。


「ちょっと、あなた――」

「信じてもらえないかもしれないが、聞いてくれ。おれは20年後の未来から時をさかのぼってきた。きみを失った苦しみで、20年間ずっと研究しつづけていたんだ。記憶だけだが、戻ることに成功した!」

「……はい?」


 何やら壮大な話を語りはじめました。

 ひとまず聞くだけ聞いてみます。


「きみは婚約破棄のあと、すべての後処理が済んだときに、心を病んでしまう。事務的に動くことで覆い隠していた感情が、一気に心に戻ってきてしまったんだ。きみは……耐えられなかった」

「どうなったの?」

「みずから命を絶ったんだ」


 わたしが自死を選ぶとは思えません。

 現に、さっき彼を待っていたときも、そんなことは一切頭になく、「さてどうするか」という気持ちでした。


 でも、それがつまり、覆い隠しているということなのでしょうか。

 たしかに、もっと感情的になってもいいような気はしますが……。


「おれは、きみを止めるために戻ってきた。婚約破棄してからもずっと愛していたんだ。本当にすまなかった。だからもう一度だけ、チャンスがほしい」

「なるほど」


 なるほど、としか言えません。

 なるほどそう来たか。


 とりあえず質問。


「どうして浮気のまえまでさかのぼらないの? 浮気しなかったことにしたほうが楽じゃない?」

「……それは、20年後の技術レベルでは、まだここまでしか戻れなくて」

「へえ、浮気の始まりってそんな昔だったんだね。出来心レベルじゃないなあ」

「いや、ほんのすこしまえなんだが、ぎりぎり戻れないというか……」


 もうひとつ質問。


「未来で起こること、いろいろ教えて。ひとつでも外れたら、その時点で婚約破棄するから」

「……地震があった」

「そりゃあるでしょう。他には? あ、次の内閣総理大臣の名前、教えて教えて」

「おれは研究に没頭してたから……」


 そっかそっか、大変だったね。


「じゃ、あとは弁護士を通すってことで。未来のことも思いだしたら弁護士さんにお願いします」


 わたしはすっきりした気持ちで実家に戻りました。

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