ファンディスクの海 5

 遠浅の海で泳いでいたフォルが海より上がってくる。専属執事見習いとして彼女を見守っていたライモンドは、すぐさま彼女の下へと駆け寄ってタオルを手渡した。


「フォルお嬢様、タオルをどうぞ」

「ありがとうライモンド、よく見ているわね。……もしかして、私の水着に見蕩れちゃってたりした? ダメよ、自分のお仕えするお嬢様をそんな目で見ちゃ」

「――なっ!? そ、そのようなことはありません!」


 真っ赤になって否定する。だが、フォルが笑っているところを見て自分がからかわれていると気付いたのだろう。ちょっとむっとした顔をする。


「フォルお嬢様。私はお嬢様の身分をいまだ知りませんが、貴方が私の実力を認めてくださって、家族を救ってくれた恩人である以上、貴方がどこの誰でも誠心誠意お仕えいたします」

「……続けなさい」


 唐突な宣言にもフォルは戸惑うことなく続きを促した。ライモンドは頷き、それからきゅっと拳を握り締めて口を開く。


「ですが、たとえ貴方がどこの誰であろうとも、伯爵家を後ろ盾に持つものとして、相応に気品のある立ち居振る舞いは必要ではないでしょうか? その、水着姿、とか……ですね……」


 ライモンドは途中で赤くなって視線を逸らしてしまった。


「つまり貴方は、私のことを心配してくれているのね?」

「……はい。差し出口、でしょうか?」


 ライモンドは不安そうな顔をしている。

 シリルであれば、たとえ差し出口だろうとも主のために踏み込むだろう。そう考えての判断ではあるが、一介の執事の口にすることでないのもまた事実。

 だが、フォルは満足気に笑った。


「いいえ、差し出口なんかじゃないわ。貴方はこれからも私が間違ったと思ったら忠告なさい。それが貴方という執事に私が求める役割よ」

「はっ、かしこまりました」


 言葉通りに頭を下げ――フォルが水着姿をなんとかするとは言っていないことに気付く。ライモンドは、改めて忠告するべきだろうかと考えを巡らせた。

 そんなライモンドの内心を知っているかのように、フォルが「ただし――」と付け加える。


「私には私の考えがあるの。だから、必ずしも貴方の意見に従うとは限らないわ。この水着姿についても、ね」

「……かしこまりました。フォルお嬢様にお考えがあるのなら口を挟みません」

「よろしい」


 フォルは笑って、そろそろ頃合いねと付け加えた。


「頃合い……? なんのことでしょう?」

「貴方に私の素性を明かす、よ」


 ライモンドはその言葉に身を震わせた。

 フォルが意図的に身分を伏せていることについては当然気付いていた。おそらく、自分に対する試験。身分を知った自分が態度を変えないか見定めていたのだろう。

 ――と、ライモンドは考えていた。


 だからライモンドは、フォルが何者でも態度を変えないという意思を示してきた。

 ライモンドは決して、身分が高い者に仕えたかった訳ではない。父を不幸な事故で失って、路頭に迷いそうになった家族、それを救ってくれる相手を求めていただけだ。


 ゆえに、自分を拾い上げ、家族を保護してくれたフォルに忠誠を誓った。たとえ彼女が貴族ですらなく、裕福な商人の娘などでも、その忠誠が揺らぐことはない。

 そんなライモンドの意思を受け取ったのか、フォルが静かに口を開いた。


「実は私は貴族ではなく――」


 やはり貴族ではなかったと思ったのは一瞬。


「――王族なのです」


 続けられた言葉が理解できない。


「……えっと、すみません。オー族とはどこの部族でしょうか? 寡聞にして聞いたことがないのですが……いえ、もちろん、どこへなりともついていく所存ですが!」

「オー族ではなく、王族です。私はフォルシーニア・エフェニア。王弟の娘に当たります」

「あぁ、なるほど。王族……王族? 王族ですか!?」


 辛うじて声を荒らげるのだけは耐え、それでも内心の混乱をかくしきれない。ライモンドは、フォルが貴族でない可能性は考えていた。

 考えていたが、貴族よりも上の身分だとは考えてもいなかった。


「驚いているようですね」

「それは、もちろんです。……その、思ってもいませんでしたから」

「では、私に仕えることが怖くなりましたか?」


 人の多くは出世を望むものだが、それでも限度というものがある。不相応な出世はその身を滅ぼすことになると、過分な出世を嫌う者も珍しくはない。

 フォルは自分が身分を明かすことで、ライモンドが怖じ気づくことを危惧していたのだが、そんな彼女の不安をよそに、ライモンドはにやっと笑ってみせた。


「私を見くびらないでください。私はたとえ貴方が商人の娘だったとしても、貴方に一生仕えるつもりでいました。貴方が王族だったとしても、その気持ちは変わりません」

「……よい覚悟ね。貴方が卒業して、私の正式な執事になるのを楽しみにしているわ」

「はい、フォルシーニア王女殿下」

「フォルでいいわ。いまはまだ、ね」


 こうして、ライモンドはフォルの正体を知った。

 まあ……格好いいことを言っているが、内心はかなりびびっている。それでもグッと堪えたのは、シリルに負けたくないという思いがあったからだろう。

 ライモンドもまた、シリルの背中を追って大きく成長していた。



「すみません。シリルさんやソフィア様がどこへ行ったか知りませんか?」


 二人の話が終わるのを見計らっていたのか、アリシアが歩み寄って来た。


「あの二人? あぁ……あの二人なら、丘の上に行ったみたいよ?」

「丘の上……なにかあるのですか?」

「有名な観光スポットよ。とてもとても綺麗な景色が見渡せる丘で、この地を管理する王族の姫君が、仲睦まじいご友人を招待したという逸話があるそうよ」

「も、もしかして、一緒に眺めた二人は将来結ばれるとか、そういう……?」


 目に見えて動揺するアリシアに、フォルは小さく笑った。


「そこまで露骨な逸話じゃないわ。一緒に眺めた人達が幸せになるという、ささやかな逸話ね。いまなら、二人に追いつけると思うけど……どうする?」


 冗談めいた口調。だが、その言葉が指している意味は明確だ。

 フォルはこう言っているのだ。

 アリシア、貴方は二人の仲に割って入る覚悟はあるのかしら? と。


「……私、一杯考えました。お父様がシリルさんのことを認めてくれて、私とシリルさんの婚約を打診してくれた。でも、シリルさんはソフィア様の婚約者候補に挙がっていて……」

「友情と恋、どちらを取るか、難しいわね。でも、貴族の娘なら答えは決まっているでしょう?」


 本来であれば、友情や恋よりも家の都合が優先される。

 他ならぬアリシアの父親が、ローゼンベルク公爵家の使用人である執事と娘の婚約を望んでいる以上、アリシアが迷うことなどどこにもないはずだ。

 だけど、アリシアは首を横に振った。


「ソフィア様は、誰がなんと言おうと、私にとっては大切な友人です。だから、いますぐ二人を追い掛けて、二人の幸せな時間を邪魔するような真似はしません」

「……そう。貴方が諦めるのはちょっと意外だけど、私は貴方の決断を評価するわ」


 それもまた貴族令嬢としての正しい決断である。いずれ負けるのだとしても、最後まで諦めないのが貴方だと思っていたけれど――と、フォルは少しだけ目を細めた。

 だけど――


「え、私……諦めるとは言ってませんよ?」


 アリシアがこてりと首を傾げる。すぐには追い掛けないという、その言葉の意味を正しく理解したフォルは声を上げて笑い始めた。


     ◆◆◆


「ソフィアお嬢様、ご覧ください」


 丘へと続く坂道を登り切ると、防風林より上に出て視界が一気に開けた。プライベートビーチの砂浜から続く青い海と空。王都にいては決して見ることの出来ない景色が広がっていた。


「ふわぁ……素敵ですね。まるで、海と空が繋がっているかのようです」


 腕の中にいるソフィアお嬢様が目を輝かせる。


「……そういえば、この大地が球体だというのは本当ですか?」

「ええ、本当ですよ」


 ゲームの世界の中だから、トンデモ理論が働いていて――なんて可能性も考えはしたが、地平線や水平線の見え方からしても球体であるとの結論に至っている。


「では……下ろしていただけますか?」

「かしこまりました」


 ソフィアお嬢様を下ろし、鼻緒の取れたビーチサンダルに応急修理を施す。丘を登ったり降りたりは不可能だが、少し歩くくらいなら大丈夫だろう。


「ありがとうシリル。それでは私の隣に座ってくれますか?」


 お嬢様が海を向いて、芝の上に座ろうとする。俺は即座にハンドタオルを取り出して、お嬢様が座ろうとしている芝の上に置く。

 お嬢様が座るのを確認して、俺はその横に腰を下ろした。


「ありがとう、シリル」


 トンと肩を押し当ててくる。水平線に目を向けた彼女が小さく微笑んだ。


「ふふっ、これでシリルとわたくしはいま、同じ水平線を見ているのですね」

「ええ、そうなりますね」


 水平線までの距離は高さによって変わる。

 ソフィアお嬢様と俺の身長の差はわずかだが、立っていれば見えている水平線の位置はそれなりに変わってしまうだろう。それを調整したかったようだ。


「ありがとう、シリル。……次は自分の力で、シリルと同じ景色を眺めて見せますね」

「お嬢様はとっくに、自分の力で私と同じ景色を眺めていらっしゃいますよ」


 もちろん、ここから見える景色の話じゃない。

 権謀術数にまみれた社交界にその身を投じ、他国の王族とすら対等に渡り合って見せた。ソフィアお嬢様はとっくに俺よりも高みへと上り詰めた。

 そう思ったけれど、ソフィアお嬢様はフルフルと首を横に振った。


「まだまだです。貴方を婚約者候補とすることは出来たけれど、アリシアさんやパメラさんの件は見ないフリをすることしか出来ていません。公爵家の跡継ぎの件だって……」


 俺の持つ様々な知識。それを俺から学んだソフィアお嬢様をローゼンベルク公爵家から出すことは大きな損失となる。ゆえに次期当主に――という声も上がっている。


 次期当主になれば、俺との婚姻が容易になる、という思惑もあるのだろう。だが、次期当主になるには兄と対決する必要も生まれるはずだ。

 決して、なると決めればハッピーエンド、という訳ではない。

 いくつもの問題に目を瞑っているのもまた事実だ。

 ソフィアお嬢様の望みを叶えるには、いずれは向き合わなくてはならない問題だろう。


 また、アリシアやパメラの婚約の申し出は既に断っている。

 だが、アリシアの婚約打診は政略的な理由だけではなかった。それを知っているから、ソフィアお嬢様もその問題について踏み込めないでいる。

 アリシアとの友情を壊したくないから、だろう。


「大丈夫ですよ」

「……シリル?」


 なにがとは告げない。

 あえて言うのなら全部。俺はソフィアお嬢様がどのような将来を選ぼうとも付いていくつもりだし、アリシアは失恋したからといって友情を壊してしまうような女の子ではない。

 そんな想いを込めて笑いかけると、ソフィアお嬢様は愛らしく微笑んだ。


「シリルは……これからもわたくしと共に歩んでくれるのですか?」

「あの日の約束はいまも、そしてこれからもずっと有効ですよ」

「……ありがとう、シリル。実は最近、不安だったんです」

「不安、ですか?」

「はい。わたくしはここまで全力で駆け抜けました。でも貴方を婚約者候補にするという目標を達成して、だけど気付いたら周囲とギクシャクしていて……これからどうしようって」

「そう、でしたか……」


 お嬢様はしっかりしているけれど、まだまだ成人前の幼い女の子だ。目標までがむしゃらに駆け抜けて、次の目標が見えなくなってしまったのだろう。


 正直に言えば、俺はとても嬉しい。

 原作の彼女であれば、愛する人以外はどうでも良い、みたいな考え方をしていたはずだ。もしくは、ライバルを蹴落とすことに執念を燃やしたかもしれない。


 でもいまのソフィアお嬢様は違う。

 アリシア達との友情も大切にしようとして、だからこそ恋と友情の板挟みで戸惑っている。それはきっと、ソフィアお嬢様が、原作の悪役令嬢とはまったく違う人間になった証拠だろう。


 もちろん、今度はそれが理由で闇堕ち、なんて可能性がない訳ではないが……なるほどね。トリスタン先生が俺をここに来させた本当の理由はそれか。


 おそらく、ファンディスクのイベントというのは嘘だろう。

 いや、もしかしたらファンディスクのイベント自体はあるのかもしれないが、ソフィアお嬢様とは無関係。おそらく、アリシアと他の攻略対象とのイベントなのではないだろうか?


 メイドが言っていたという言葉から考えて、ここは名所なのだろう。ソフィアお嬢様の反応から考えると、恋人同士が訪れるような名所なのかもしれない。

 その名所に、俺がソフィアお嬢様を連れてくることこそが、トリスタン先生の目的。不安を抱えているお嬢様をなんとかしてやれ――と、そういう意図。


 本来なら俺が気付かなくちゃいけないのに、姉に指摘されるとか……なんか悔しいな。だけど、嘆くよりも、いまはソフィアお嬢様を元気づけることの方が重要だ。


「大丈夫ですよ、きっと」

「……シリル?」

「私とお嬢様ならば、どんな困難でも乗り越えられます」


 遠くから聞こえてくる足音。

 ソフィアお嬢様は俺に肩をぶつけ、それから満面の笑みを浮かべた。


「それじゃ二人で一緒に、この修羅場を乗り越えましょう」

 


   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 お読みいただきありがとうございます。

 今回の投稿はここまでとなります。今後も投稿する予定ですが、投稿内容や時期は未定です。後日改めてTwitterなどで連絡させていただきます。


 よろしければ、本日中に一章が完結する新作『社畜の姫(JK)が変態です。今日も彼女に勝てません』をご覧いただけると嬉しいです。

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