第88話 ガゼル


「お願いだから放してよ! 私はガゼルのところに行かなきゃいけないの!」


 エマに抱えられたイルマは――必死に逃れようと、もがきまくっていた。

 はしばみ色の瞳から、涙が滲んでいる。


「……エマ、放してあげて。とりあえず、もう危険はないでしょうから」


「うん、解った」


 エマが腕を放すと――イルマはいきなり走り出した。


「ごめんなさい……」


 道端に転がる男たちを申し訳なさそうに一瞥して、次の角を曲がる。

 その先には――目的地である廃墟と化した教会があった。


「ガゼル! ガゼル、どこにいるの!」


 外れそうな入口の扉を開けて、中に飛び込む。


 何年も放置された礼拝堂は埃に埋もれていた。物取りに荒らされたのか、壊れた木の椅子が幾つか転がっているだけで、ほとんど何もなかった。


「ガゼル……返事をして!」


 イルマは懸命に走って他の部屋も探すが、どの部屋も同じように荒れ果てているだけで、人の姿など何処にもなかった。


「たぶん……そのガゼルって人の話も、嘘だと思うわよ?」


 いつの間にか、ローズが後ろに立っていた。


 周囲の建物の中から、住人たちが悪意ある視線でイルマを見ているのに気づいていたから、放置する訳にもいかずに後を追い掛けて来たのだ。


「え……でも、ガゼルが馬車に轢かれたって……」


「こんな裏通りに馬車なんか入れないよ。他の場所で轢かれたとしても、わざわざ、ここまで運んで来ると思う?」


 エマが困った顔で説明する。どう考えても騙されていると思うが、必死なイルマを真っ向から否定するのは悪い気がした。


「そんな……だったら、ガゼルは……」


 悪い方向に想像して――イルマの顔が青ざめる。


「え、ちょっと待ってよ。その人が怪我をしたって言うのも……」


 ローズは言い掛けるが――慌ただしい足音が近づいて来ることに気づいて、身構える。


「一人だね……」


 ほとんど同時に気づいたエマも、部屋の奥にいるイルマを庇うように立って、足音の主を待ち構える。


 すると――教会の入口から男が駆け込んできた。


 浅黒い肌のターバンを巻いた若い男は、場違いなワンピースの二人の少女を訝しそうに見るが――その背後にいるイルマに気づいて、怒りの形相になる。


「てめえら……よくも、うちのお嬢を!」


 男はいきなり殴り掛かろうとするが――突然、真横から蹴り飛ばされて、豪快に宙を舞った。


「な……」


 そのまま埃塗れの床に叩きつけられるところを、咄嗟に空中で姿勢を直して足から着地する。

 しかし、不意の一撃のダメージは思った以上に大きく――男は崩れ落ちるように片膝を突いた。


「……ガゼル!」


 そんな男の元に、奥から飛び出して来たイルマが駆け寄った。


「お嬢……」


「……大丈夫なの? 怪我はない?」


「痛っ……お嬢の方は、とりあえずは無事みたいだな?」


 身体を揺さぶられて、男――ガゼルは痛みに顔を顰めながら、蹴り飛ばした相手を睨み付ける。


「おい、勘違いするなよ。その女をさらおうとしたのは、俺たちじゃないからな?」


 蹴り飛ばした当人――カイエは、面白がるように笑っていた。


 当然手加減はしたが、意識くらいは奪うつもりで放った不意の一撃を――ガゼルは反射的に横に跳んで、ダメージを軽減させたのだ。


「おまえも、外に転がっている連中を見ただろう? さらおうとしたのは奴らで、俺たちは助けた方だからさ」


「お嬢……今の話は、本当か?」


 ガゼルはカイエを見据えたまま、イルマに問い掛ける。


「えっと……ごめんなさい、よく解らないわ……怪我をしたガゼルを保護してくれたって言っていた人たちを、あそこにいる赤い髪の人が全部倒しちゃったんだけど……」


 状況が理解できず、イルマが戸惑っていると――


「おい、お嬢……あんたもいい加減に、人を疑うってことを憶えろよな。そいつらが、お嬢のことを騙したんだよ!」


 ガゼルは呆れた顔をする。


「手紙は俺も読んだけどな。そもそも、俺が馬車に轢かれるな間抜けな真似をする筈がないだろうが! それに、もし本当に怪我をしたとしても、お嬢なんかに助けを求めるかよ!」


「え……私、騙されたの……」


 ようやく事態を理解したイルマは――はしばみ色の瞳から、涙を溢れさせる。


「お、おい、お嬢……どうしたんだよ?」


「だって……私が騙されただけだって解ったら……なんだか、安心しちゃって……」


 自分が騙されたことよりも――ガゼルが無事だったことの方が、イルマにとっては重要だった。


「お嬢、あんたはそんなんだから……いつも騙されるんだよ。少しは反省しろよな?」


 そんなことを言いながらも、ガゼルはバツが悪そうに頬を掻く。


「納得したなら――話は終わりで良いよな?」


 黙って二人のやり取りを眺めていたカイエは――苦笑すると、ローズとエマの方を向いた。


「こいつが一緒なら、もう大丈夫だろうし……そろそろ俺たちも引き上げるか?」


 何気ない感じで声を掛けたのだが――


「「……カイエ!」」


 いきなり二人が抱きついて来た。


「カイエ……さっきは私たちのために、怒ってくれたのよね?」


「うん……カイエ! もの凄く嬉しかったよ!」


 カイエが手出しなどしなくても、ガゼルなどに殴られるローズとエマではなかったが――彼女たちに躍り掛かるガゼルにイラッとしたから、思わず蹴り飛ばしてしまったのだ。


 そんな内心を見抜かれて、


「おい、勝手に勘違いするなよ。そうじゃなくて……」


 カイエは適当に誤魔化そうとするが――


「うん……解ってるわ」


「そうだね……だって、カイエだもん!」


 乙女モード全開の二人を、もはや止めることなどできなかった。


「まあ……なんて破廉恥な……」


 イルマは真っ赤になった顔を両手で覆いながら――指の隙間からバッチリと、彼らの様子を眺めていた。


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