第28話 小平仁奈の歌声

 俺の差し出したイヤホンを小平は遠慮がちに手に取った。

 だけど耳には着けずに、


「本当にいいのかしら、私が聴いてしまって」


 と不安そうに言った。

 俺が初原の遺言に背いて小平にこの歌を聴かせるということは、小平もまた初原の遺言を裏切ることになる。

 そのことへの後ろめたさがある様子だった。


「俺も初原の気持ちを裏切りたくなくて、だから小平には聴かせないでいようと思ってたよ」


「なら、どうして?」


「こんな言い方をすると初原が可哀想かもしれないけれど……、でもこの世は結局、生きている人たちのためにあるものだと思ったんだ。少なくとも、自殺した人の願いを叶えるための世界ではない」


 自殺という行為はいかなる理由があろうとも推奨されるものではない。

 それが俺たちの生きる世界の倫理だ。

 だから、自殺という、やってはいけない行為をしてしまった者の願いをいつまでも大切にすることはできない。

 それほどまでに大切な願い事があるなら、自殺なんてしている場合じゃないのだ。

 生きて、守らなければならないのだ。

 俺たちは初原に生きていてほしかったのだ。


「だから俺は、初原の願いよりも俺自身の願いを優先することにしたんだ。この歌は、小平が聴くべきだと俺は思った。だから聴いてほしい」


 こんな告白は、好きな気持ちを打ち明けるよりも、よっぽど罪深いものがあって言いにくかった。

 だけど言い始めてしまったら、もはや小平が俺と同じ罪を背負ってくれることを願って、最後まで言うしかなかった。


 初原を裏切ることを俺に求められた小平は、


「それはとても怖いことだわ」


 とイヤホンを手中に置いたまま言った。


「晴夏を裏切ることへの恐怖だけじゃないのよ。わかる? 聴いてはいけないはずの晴夏の歌を聴いてしまったら、私と晴夏との関係が私の認識の中で大きく変わってしまうかもしれないのよ。もしかしたら晴夏のことが、ただの悲しい思い出の一つになってしまうかもしれない。そんな変化への恐怖、持山くんは、わかる?」


「わからないこともないよ」


 と俺は曖昧にうなずいた。

 言葉としては理解できる。

 でも言葉としてしか理解できない。

 俺と小平は違う人間で、しかもまだ小平のことは知らないことだらけで、だから小平の個性に魅力を感じていた。

 初原のことを凄く大切に思って悩む小平の繊細さも素敵だと思った。


「怖くても、小平にとっての初原の存在の意味が変わってしまうとしても、俺はこの歌が小平を良い方へ変えてくれると信じている」


 小平は長く悩んだ。

 一分か二分という間、手元のイヤホンに視線を落として、悩み続けた。


「聴くわ」


 と彼女は小さな声で言った。

 その短い言葉だけでは彼女の決意の色はわからなかった。

 どのような覚悟があったのか、あるいは初原の最後の歌を聴きたいという気持ちが勝ってのことなのか、どういった結論での答えなのか俺には聞き取れなかった。

 だけども小平は、聴くことを決めた。

 俺の渡したイヤホンを両耳に着けて、目で合図をする。

 俺は曲を再生する。


 小平は目をつぶり、下を向いて、耳をイヤホンごと手で包み、歌に集中する。

 長い髪の毛が小平の表情を隠す。

 ずっと繰り返し聴いていた初原の歌が、俺の記憶の中でもわずかな音量で流れていた。

 記憶を頼りに流れる歌は、店内BGMなどよりもずっと小さな音量で、俺は静かな五分間を過ごした。


 再生が終わって小平はイヤホンを外したけれど、顔を上げようとしなかった。

 肩で息をすることで、動揺がそれ以上広がらないよう押さえつけていた。

 小平の受けたショックは俺のよりも強かったのだ。

 彼女が気持ちに落ち着きを取り戻すまで待つと、小平はゆっくりと顔を上げた。

 小平は左目から一滴だけ涙を垂らしていた。

 完璧な涙だった。


「なんてものを聴かせてくれたの」


 と小平は恨むように言った。


「これは、私が聴いてはいけない歌だったのね」


「うん。初原はきっとこの歌を自分だけのものにしたかったんだと、俺も思う。小平が歌ったらとてもいい曲になると思うけど、でも、だからこそ、初原は自分だけのものとして守りたくなってしまったんだろうね」


 初原の歌い方と、小平の歌い方とでは、歌のニュアンスが変わってしまう。

 そのニュアンスすらも初原は守りたくて、だから小平が万が一にも歌うことのないようにこの歌を表に出そうとしなかったのだろう、というのが俺の感じたことだった。


「私も全く同じことを感じたわ」


 と小平は言った。


「そして、とてもいい歌だった。これ以上ないくらい」


「そうだね。これ以上ないくらいに、いい歌だよ」


 俺が感じたのと同じように小平も感じている。

 だから初原の自殺の真相にも気が付いた様子だった。


「それでも作り続ければいいじゃない。これ以上のものができないと思っても、それでも作ればいいじゃない」


 と小平は泣きそうな声で言った。

 だけど小平の激しい悲しみは一粒の完璧な涙に凝縮されていて、もう一滴も涙は流れてこない様子だった。


「この歌、小平が歌うべきだ」


 と俺は言った。

 好きだという告白よりももっと俺が言いたいことだった。

 小平の完璧な涙を流した左目が大きく開かれた。


「それは、晴夏が一番してほしくないと思っていることよ」


「でもこの歌はよく出来ていると俺は思う。それを小平が歌ったら、きっとみんなも気に入るんじゃないかな。もしかしたら、将来の中学生や高校生が合唱で歌うかもしれない。せっかくの初原の最高傑作なのに、世の中に出ないままなのは、作られた歌が可哀想じゃないかな。封じ込めたままにするにはもったいない曲だよ」


「もったいないとは、私も思うわよ。でも……」


「初原以外に歌うなら、小平しかいないと思う。と言うか、俺が聴いてみたいんだ。この歌を小平が歌うのを。他の誰でもなくて、小平が歌うところを」


 桜田が冗談みたいに『アメイジング・グレイス』を歌う人として生きていけだなんて言っていたけれど、俺はその案に賛成だった。

『アメイジング・グレイス』と、そしてこの初原の歌の歌手として小平が生きていったら、とても素晴らしいことだと思うのだ。

 それは小平の求めている、適切な将来の夢になり得ると思った。


「小平に歌ってほしい。それが俺の一番告白したかったことなんだ」


 小平は俺の言葉を、俺を見つめることで反芻した。

 俺も何度も告白を繰り返すように小平を見つめ返す。

 美しい小平の顔に俺の言葉が照射される。

 小平を本当に照らせるかわからない頼りない光だ。

 やがて小平は目を伏せて、


「もう一度、聴かせて。歌詞を覚えるから」


 とイヤホンを着けた。

 俺が再び音楽をかけると、小平は声を出さずに口ずさんで歌詞をなぞる。

 さらにもう一周聴いて確かめると、


「オッケー。歌えると思う」


 と小さくうなずきながら言った。


 そして小平は深呼吸をして背筋を伸ばしてから、合唱の時のような大きな声で初原の歌を歌い始めた。

 小平の祈る歌声は、初原の歌を人々の人生の応援歌として歌う。

『今日までの思い出が明日、夢を追う翼に変わるよ』というフレーズにはひたすらに祈る気持ちが込められる。

 希望に満ちた明日を指し示すのではなく、明日に希望があってほしいと小平は歌う。

 希望があると断定しない歌い方は、かえって俺たちの不安に寄り添ってくれているように聞こえる。

 歌詞のフレーズが一つまた一つと小平の歌声を経て新たなニュアンスに染められ、自分を励ますように歌った初原とは別の歌に生まれ変わっていく。


「素晴らしい歌だったよ」


 小平が歌い終わるなり、俺は彼女に拍手を送った。

 そして俺は桜田に目をやった。

 小平が歌い始めてから、一体何事かと驚いた様子で桜田は姿勢を低くして階段を途中まで上ってきていたのだった。


「桜田もそう思うだろ?」


 と俺は聞いた。


「なに? 一体なにが起きてるの?」


「なにって、私が持山くんに告白をされたのよ」


 小平はそう笑って答えた。

 答えになってない、と桜田は怒った。


「愛の告白だけが告白ではないということよ。ついさっき、色々なものを私は持山くんから渡されて、だから歌ったの」


「もうちょっと上手く説明してくれないかな」


「無理ね。ありのままを説明しているんだもの」


 桜田は俺たちの話が全く理解できないようで、苛々と頭をかいた。


「じゃあ、告白の返事はどうだったの? 付き合うの、付き合わないの?」


「そうね、持山くんの告白の返事なんだけども……、私も桜田さんに告白しないといけないことがあるって気が付いたの。だからまずは桜田さんに告白するわね」


「待って、話をややこしくしないで?」


 動揺する桜田に少しの気づかいもないままに、小平は告白をする。


「桜田さんに直接言ったことなかったけど、私も桜田さんに自殺してほしくないって思っているのよ。私もあなたのことはとても好きなの、一人の友人として」


 告白とは、愛の告白とは限らない。

 だけども愛の告白じゃなくたって、とても大切なことを言うこともある。

 小平も自分の大切な気持ちを桜田に打ち明ける。


「だからね、もしも自殺しないでずっと生きていてくれたら、あなたのお葬式で『アメイジング・グレイス』を歌ってあげるわ」


 だから桜田さん、死なないで。

 そう小平は桜田にお願いする。

 その告白に桜田は苦笑した。


「私は死ぬまで小平の『アメイジング・グレイス』を聴けないんだ?」


「そうなるわね」


「それに私、一応仏教徒だよ」


「私もそうよ。気になるのなら、改宗したら?」


 小平に楽しそうにそう返されて、桜田の表情は苦笑の色が深まった。

 困惑と喜びが桜田の中で膨れ上がっていくのを俺たちは見ていた。

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