第26話 桜田への告白

 文化祭の朝、俺は初原の歌を聴いていた。

 イヤホンやヘッドホンで外界の音をかき消すように聴く音楽は、世界の見え方もその音楽の色に染める。

 もし初原が死んでいなかったら、ということを思い浮かべて、俺は初原の音楽に染まった世界を見ようとした。

 起きてから、朝食の間も、俺は初原の曲をリピート再生していた。

 初原の歌は希望を歌っている。

 初原のいない世界はどうやら希望にあふれているらしい。

 だけどその希望の色は俺にしか見えていない。

 初原の最後の歌を聴けるのは、この世に俺と穂村の二人しかいない。

 だけど音楽に興味のない穂村とこの感覚を共有できるようには感じなかった。

 部屋に差し込む朝の陽ざし。

 さっきまで俺が寝ていた名残がシーツや布団のしわに表れているベッドはその優しい日差しを浴び、ほのかな陰影を作り出している。

 肌触りのいい温もりが近くに転がっていることに気付くような気分を、初原の歌は作り上げる。

 初原の世界に照らされたベッドを眺めて、桜田もこんな気分に包まれて生きていてくれたらいいのにということを俺はしばらく考えていた。


 それからもイヤホンを着け続けていた。

 音楽を聴きながら朝食を食べる俺の顔を、姉はじっと見つめ続けていた。

 姉はなにかを言いたそうにしていた。

 言いたそうにするばかりで、顔色でなにかを語ろうとはしない。

 口から出る明確な言葉を必要としているという意味での、なにかを言いたげな顔だった。


「なに?」


 と俺は片耳を姉に明け渡す。

 すると姉は俺に、


「思い詰めてる?」


 と聞いた。


「いや、思い詰めるのはもう終わったつもり」


「最近なにかあったんじゃないの。そんなふうに顔が言ってるよ」


「俺の顔は姉ちゃんほどあれこれ喋らないと思うけど」


「その顔が喋ってるから」


 口数が少ない姉とこんなふうに普通の会話をするのは久し振りだった。

 懐かしさまである。

 思い出すのは姉の子守歌だ。

 小さな声で歌っている時の姉が、一番声を多く発している瞬間の姉だったからだ。


「色々とあった」


 と俺は答えた。


「でもその色々に、俺なりに答えというか結論を見つけて、その結論に従って今日から生きてみようかなと思うようになった。だから大丈夫」


 姉はふっと笑って、安堵を示す。

 そしてコーヒーのマグカップに口を付ける。

 俺はまた両耳で初原の歌に染まる。


「そういえば俺、姉ちゃんの歌ってくれた子守歌、凄く好きだったよ」


 姉の返事を聞くつもりなく俺は言う。

 姉は俺の顔を見て、俺が両耳にイヤホンを着けているのを見て、無言で俺の言葉を受け止めてくれた。

 全てのことに、初原の歌のように、温かい希望があふれる。

 そんな感覚に身を浸す。

 今日を希望の一日にできると思い込む。

 歌のような一日に。

 俺は初原の歌の力を借りて、新しい世界に歩を進めようとしている。



 学校に行くと、教室で桜田がぐったりしていた。


「どうしたんだ?」


「退屈で死にそう」


 これから文化祭だというのに困ったやつだ。

 文化祭の準備が一番楽しくて文化祭が退屈となったら、文化祭が終わった後の学校生活は彼女にとってなんなのだろう。


「今日は合唱コンクールだろ。頑張ろうぜ」


「頑張ったところでどうなるよ。表彰されないぞ」


 確かに俺たちのクラスの合唱の出来では表彰されることがないのは間違いなかった。

 桜田グループが今日になって意気込んだところでそのことに狂いはないだろう。


「でも小平の歌声は隠せるだろ」


 と俺は言った。


「私はむしろ小平だけで歌った方がよっぽどいいと思うけど」


「『アメイジング・グレイス』を?」


「そう。私、聴いてみたいな。なんだか面白いじゃん。クラスメイトに『アメイジング・グレイス』を超上手く歌うやつがいるって」


「俺も、そのことは面白いと思うよ」


 より正しい言い方をすれば、俺はそのことをとても素敵なことだと感じていて、あの歌声が大好きなのだ。


「ただ合唱とは相性悪いもんなあ。それで余計に我がクラスは表彰から遠いってわけだけど」


 と桜田は机の上で頭をごろごろとさせながら言った。


「うん。だから、そんな不完全な歌声を人に聞かせたくはないんだよな」


「なんだそりゃ」


「俺、小平のことが好きだ。だから小平には、もっと小平に合っている完璧な歌を歌ってほしい。もっと美しい小平を見たいと思うんだ」


 桜田はごろごろとするのをやめて少し止まった後に顔を上げ、あまり厳しくない目で俺を睨んだ。


「告白なら本人を相手にやれば?」


「これは桜田への告白だよ」


 と俺は言った。

 桜田の取り巻きたちが無言でどよめき、アイコンタクトで激しく情報をやり取りし始める。

 それをよそに俺と桜田は視線をぴったり合わせている。


「昨日小平がバラしちゃったけど、俺、お前に告白するように頼まれていたんだ。だけど俺は桜田に告白しようとはしなかった。だって俺が好きなのは小平で、桜田じゃない。それなのに……、好きでもないのに告白されても、お前は嬉しくないんじゃないかって思ったんだ」


 俺に依頼をした花園を中心に、違うどよめきが周りで広がっている。

 計画が自分たちの知らないところでダメになっていたことに困惑している様子が伝わってくる。

 周りのことは、もはや目を合わせるまでもなく、わかりやすいほどに見えてくるのだけど、桜田の表情は読み取れなかった。

 ただ俺の言葉を待って俺を見つめている。


「なあ桜田、俺の考えていることは合っていたかな? 俺は桜田のことを尊重できていたか?」


 と俺は尋ねた。

 そうしたら桜田に鼻で笑われた。


「なんだ、そんなことか」


「そんなことって……、これは大事なことだ」


「持山にとっては、でしょ」


 桜田はつまらなそうに頭をかき、そしてすぐに面白そうに感じている表情に変わって、


「つまり私に励まされてから小平に告白したいんでしょ?」


 と俺の心の底にある繊細な部分を指し示された。

 桜田は鋭い。


「そうだよ」


 俺は桜田に励ましてもらうつもりでいる。

 もちろん、昨日桜田の知らないところであった動きについて明かすことで、桜田と対等な関係を築きたい思いもあった。

 それはそれとして、俺は小平と向き合うためのステップとしてまず桜田とのことにけじめをつけたかったのだ。

 桜田の自殺を止める方法はまるで思い付かないけれども、無理なら無理で、そう決着するべきだと俺は感じていた。

 やはり宙ぶらりんのままにしておくのでは落ち着かないのだ。

 だから桜田に、俺が小平のことを好いていることを打ち明けたのだった。


 そういった俺の気持ちを桜田は汲んでくれた。

 持山は正しいことをしているよ、と桜田は言う。


「だから本人への告白頑張りな」


「ああ。ありがとう」


「もし告白がオッケーでさ……」


 と桜田は肘をついた手の上に顔を乗せ、目を細めて語った。

 彼女は楽しそうに笑いながら話す。


「交際が続いて結婚までするなら、なるべく早く結婚してよ。早めに結婚式を挙げてくれないと、私は生きてないかもしれないんだから」


「だったら結婚式まで生きててくれればいいじゃないか」


「少しは待ってあげてもいいけど、でもほんの少しだよ。気長には待てないね」


 ほんの少しというのが、はたして一年もあるのか、そうでもないのか。

 桜田の考えはさっぱり見通せないけれども、それでも数日だけでも待ってくれるのなら、それは嬉しいことだった。

 俺と小平のことが桜田にとって、それなりに大きな存在になってくれているのだと感じられて、まるで桜田の自殺を止めようと思い悩んだことも報われたみたいで、俺はなんだかほっとした。


「そもそもまずは告白が上手くいくかどうかでしょ。まさかオッケーしてもらえるとでも思っているの? あの小平に?」


「結婚式までいくにはオッケーしてもらわないといけないけど。でも、それはいいんだ。告白というのはなにも好きなことを伝えるだけじゃなくて。桜田に今告白したみたいに、好き以外のことでも大事なことを言うのは告白だろ。俺は小平に、大切なことを全部話すつもりなんだ」


 大切なこと。

 それはたとえば、初原の最後の歌を俺が穂村から受け取って聴いたことだ。

 俺は小平に告白したい、大切な言葉をたくさん抱えていた。

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