第25話 流れ星

 桜田のお母さんの車で家まで送ってもらって、俺は家で夕飯を食べて、それから喫茶店『どんぐりころころのころ』に行った。

 明日から二日間は文化祭。

 非日常が目の前にあって、なにかが起こりそうという錯覚が胸の内に膨らんでいる。

 文化祭だからってなにかがあるわけじゃない。

 それは桜田の人生哲学だけど、確かに学校行事に過度の期待を抱くというのは学生の習性のかもしれない。

 過度な期待から意識を適度に逸らして、だけど冷静に小平のことを考える時間が欲しかった。

 それで『どんぐりころころのころ』に行くのである。


 また夜に外出するの、と母と姉は咎めるというほどではないけれども心配するような反応を見せた。

 今日は文化祭の前日だからと適当な言い訳をして、だけど行く場所は正確に伝えて、俺は自転車を走らせた。

 夜は冷えて、夏らしさはもうどこにも残っていないように感じた。


『どんぐりころころのころ』には客がいて、カウンター席に座っていた。

 自分たち以外の客というのを初めて見たので、ちゃんと客が来る店なのだと少し驚いた。


「あら、仁奈ちゃんのお友達じゃない。いらっしゃい」


「どうも」


「仁奈ちゃんは今日来てないわよ」


「知ってます。さっきまで一緒にいたので」


 そう挨拶を交わしていると、カウンター席に座っていた人が、


「なになに? 仁奈ちゃんの彼氏?」


 と俺の方を向いた。

 マスターと同じくらいの年齢という以上にマスターと姉妹でもおかしくなさそうな程度には似ている人だった。

 体型や顔の形は違うのだけれども、表情や話し方の雰囲気が似ているのだ。


「いえ、違います。知り合いが骨折したので、お見舞いにいっていたんです」


「あらそうなの。大丈夫なの、その人」


「平気そうでしたよ。一歩間違えれば骨折じゃ済まないような状況だったので、そういう意味ではラッキーだったんです」


 この人は誰なのだろうと思いながらもマスター似の太った女性と話す。

 そして俺が小平のクラスメイトであることを女性に話すと、マスターからこの女性が常連客の橋山さんという人だと教えられる。


「そういえばあの子は元気? この前一緒にうちに来ていた、湯豆腐食べたいって子」


 桜田のことだ。


「まあ、元気ですよ。いつもあの調子ですから」


「それはよかった。でね、あの後、うちで湯豆腐できないか検討してみたのよ」


「したんですか」


「でも、鍋を出すのってちょっと難しいわね。テーブル席一つしかないし。そのテーブルもねえ」


「鍋置くだけで机が埋まっちゃうわね」


 と橋山さんが言った。

 そうなのよ、とマスターは大袈裟な動きで残念がる。


「だからうちでは湯豆腐は無理みたい。代わりに、親戚がやっている豆腐屋を教えてあげるから、また機会があったらあの子を連れてきてくれるかしら」


「それはもちろん」


 仲良く三人で来られたらいいな、ということを俺は思った。

 そうなっていたら、桜田は自殺を思いとどまり、小平とももっと仲良くなっているのだろう。


「それで仁奈ちゃんとはどうなの?」


「どうなの、とは?」


「恋の話に決まっているでしょ。仁奈ちゃんのいないタイミングを見計らって来たんだから、おばさんたちに仁奈ちゃんと上手くいく方法を相談しに来たんじゃないの?」


 ほぼ図星だった。

 そんな直接的な思惑を抱いていたわけじゃない。

 じゃないのだが、それも期待のうちに入っていた。


「まあ……それは聞けたら嬉しいですけど」


 そう答えると、おばさん二人は凄く興奮した。

 私たちに任せなさい、という熱気。

 他人事で面白がる学生のノリとは違うけれど、野次馬をしたがるのは年齢を重ねても同じみたいだ。


「それで、どんなことを相談したいの? どう告白するか、とか?」


 橋山さんもかなりノリノリだ。

 橋山さんは学生時代は本当にモテて、何人もの人と付き合ったのだと言った。

 結婚はできずにいるらしいが、学生の恋愛なら百戦錬磨だと豪語する。


 そして俺は橋山さんの隣に座らされて、しかも橋山さんのおごりでコーヒーをごちそうになる。


「告白そのもので悩んでいるわけじゃないんですよね。その……、実際に告白しようと思っているわけでもないですし」


「えー、好きなんじゃないの?」


「好きですよ。恋愛的な意味でも好きですけど、そうでない意味でも大好きです。だから、小平と付き合おうが付き合わなかろうが俺としては特に変わらないというか」


 そう、大して変わらない。

 小平のあの歌声がどうにかなるわけじゃない。

 小平とどういう関係になろうと、それはたとえ高校時代だけの友人という関係で終わったとしても、彼女の『アメイジング・グレイス』の思い出の意味が変化するわけじゃない。

 俺はあの歌声を大切な記憶として持ち続けることだろう。

 そう考えれば、付き合ったところでなんになるのかとも思えた。


 だけどマスターと橋山さんは、


「変わるに決まっているじゃない」


 と即座に俺の考えを否定した。

 そして橋山さんは言った。


「まるで変わるわよ。付き合うとね、傍から見れば正気を失ったみたいに、そのくらいに相手のことが好きになったり憎くなったりするものよ」


「変わらないって言ったけどさ、もしかしたら変わることが怖いんじゃないかしら? 告白したら結果がどうあれ、関係が変化しちゃうもの。私もそれが怖かったわ。たとえ付き合えることになっても、それでもなにかを失ってしまいそうな気がして」


 とマスターは言った。

 その感覚に橋山さんは首を傾げたのだけれども、俺はわかると思った。

 俺が危惧しているのは小平との関係じゃなくて、桜田のことだった。


「俺の友達が、大きな問題に直面しているんです」


 と俺は二人に言った。


 俺たちの学校の生徒が二人、自殺と自殺未遂をした。

 さらにもう一人の友達までもが自殺する道を選ぼうとしている、というふうに俺は説明する。


「俺が小平の方を見ているうちに、その友達が自殺に踏み切ってしまうんじゃないか……、そんなのなんの関係もないんですけど、でも小平のことを考えている場合じゃないような気がするんですよね。それよりももっと優先しなきゃいけないことがあると言うか」


 恋愛なんていつでもできる。

 それよりも他にやらなきゃいけないことがあるような気がしていて、それが桜田のことなのだった。

 俺が恐れているのは、本当に桜田が自殺してしまってその知らせを受けた時、俺にももっとなにかできたのではないかと、もしかして彼女の自殺を防ぐなにかができたんじゃないかと感じてしまうことだ。

 そうならないようになにかをするべきだと、そう思わずにはいられないのだ。

 逃したらもう戻ってくることのない、大切ななにかがこの学生生活にはあるのだと。


「そんなに心配しなくても大丈夫よ」


 その優しさはいいことだと思うけどね、とマスターは微笑んだ。


「なにかしてあげたいと思っても、思ったよりなにもできないのが人間よ。それに人の気持ちなんて、流れ星みたいに前触れもなく変わるものだから。本人も周りも予期しない、突然のタイミングでその星は流れるの。流れ星を私たちの手で流すことはできないでしょう?」


「そういうものでしょうか」


「たとえそうじゃなくても、そういうふうに思えばいいのよ。そうすれば、自分のせいで誰かが取り返しのつかないことになっただなんて責任を感じなくても済むでしょう? 自分の手に負えない悪いことは全部星のせいにすればいいのよ」


「責任を押し付けられる星は大変ですね」


「大丈夫よ。星なんて数えきれないほどあるんだから。いくらでも押し付けられるわよ」


 桜田のことは俺にはもうどうにもできない。

 流れ星に祈るしかない。

 祈るしかないなら、ただ祈ればいい。

 なにかしたいと思うのなら、せめて祈ることだけはやめずにいればいい。


 マスターの言うとおりに考えてみたら、気持ちは軽くなった。

 やるべきことはなくて、俺はもっと小平のことを考えてもいいんだと思うと、胸のざわつきは治まってきて、明日からの文化祭のことが楽しみな気持ちがほのかに温まってくるようだった。

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