第17話 タッチ

 朝、目覚めて俺は思った。

 今日は流行り病の風邪にかかって学校をサボろう。

 そして穂村ともう一度会って話をしよう。


 そうと決まれば、学校をサボることを家族に相談しなくてはならない。

 ある種のフェアプレー精神と言うか、非行を働いて家族を困らせることの無かった姉の前例を踏みにじることはしたくない思いがあった。

 俺は姉のことをとても尊敬している。

 子守歌を歌ってくれたことも印象深いが、姉は夢を実現させた人でもある。

 昔から料理が好きだった姉は食べ物に関係する職に就きたいとずっと言っていた。

 その夢を叶えたのである。

 肩書こそ会社員だが、食品メーカーの商品開発部門で働いていることを姉自身誇りに思っていて、充実した日々を送っている。

 そんな姿は眩しい。

 姉が社会人になってから、家族の中でも特に姉をがっかりさせたくない気持ちが俺の中で強くなっていた。


 俺は家族の集うリビングで、


「俺、今日学校をサボろうと思う。いいかな?」


 と尋ねた。

 母と姉は目を丸くして俺の顔を見た。


「いいんじゃないかな」


 なにも考えずに父は寛容な振りをした。

 子供はたまに学校をサボる生き物だとでも思っていて、その想像の中で納得しているのだった。

 そんな父だから、


「いいわけはないでしょう」


 と母がバランサーになって反発する。


「なにかサボりたい事情があるの?」


 母は努めて優しく俺に聞いた。

 息子がいじめられているのではないかとか、様々なことを想像したに違いない。

 俺は姉の方を見た。

 俺が学校をサボりたいだなんて言い出して、姉がどんな反応をしているかといえば、丸くなった目の丸みをまだ少し残したまま、説明してごらんと俺に促していた。

 そんな姉に背中を押された気分になって、俺はゆっくりと説明をした。

 初原の自殺のことを、友達と調べていたこと。

 友達は自殺に追いやった犯人がいるのではないかと疑っていたが、どうもそうではなかったらしいとまでわかったこと。

 だけどまだ残されている謎もあって、たとえば初原は自分が作った最後の歌を彼氏以外に聞かせたくないと言っていたらしいこと。


「最近真っ直ぐ家に帰ってこないと思ったら、そんなことをしていたのね」


 てっきり部活にでも入ったのかと思ったわよ、と母は呆れとも自嘲ともつかない笑い声を上げた。


「この前、夜に出かけたのもそのことだったんだ」


「そうだったのね。学校をサボりたいというのも、そのことが関係しているのね?」


「うん。今日中に、初原の彼氏だったやつともう一度会って、話がしたいんだ」


「それは学校をサボってやらなきゃいけないこと? 今日じゃないとダメなこと?」


 俺は首を横に振った。

 その質問に対して、はっきりとした理屈で答えることはできないと感じた。

 だけど今日やらなきゃいけないと、どうしてだか俺は直感していた。


「俺にもよくわからない。だけど、犯人を見つけようって最初に言った友達は、もう真実を追おうとしていないように見えたんだ。だから今日中になにかしないと初原のことはもう終わりになっちゃうんじゃないかって思うんだよ。俺は、それは嫌だ。初原がどうして自殺をしたのか、最後に作った歌がどんな歌なのか。俺に見せてくれるはずだった好きな歌詞ランキングがどんな感じだったのか? 知りたいことがまだたくさんあるんだ」


「大切なことだと思う」


 俺の話を聞いた姉が、そう言ってくれた。

 そして姉は目で母に訴えた。

 学校をサボらせてあげて、と俺の味方になってくれた。


「そうね」


 と母は溜め息をついた。


「そんな立派な理由があるなら、学校行きなさいとは言いにくいわよね」


「ありがとう」


 俺は二人に感謝した。

 父は俺たちのやり取りに感動したかのように、うむうむと重くうなずいていた。

 良い家族を持ったという気持ちは、俺も父と同じだった。


「休んだ分の勉強はちゃんとしなさいね。友達にノート見せてもらったりして」


 と母は言った。

 必ずそうするよ、と俺は力強く答えた。



 昨日穂村と会った公園。

 とりあえずはここを探す。

 公園の木々は紅葉が始まっていて、どんどん秋の雰囲気が深まっていくことを感じた。

 しかし毎日ここにいるものだろうか。

 それに今日はまだ午前で、これまでとは時間帯も大きく違う。

 空振りのつもりで、その後に色々な場所を回ろうと考えていたのに、穂村は昨日のようにランニングをしていた。


「あっ」


 と俺は声を上げていた。

 その声が届いたのかどうか、イヤホンをしていた穂村も俺に気が付いて声を上げた。

 そして彼の方から近寄ってくる。

 もちろんその前に音楽を止めることは欠かさなかった。


「また来たのか。と言うか、学校あるだろ。学校行けよ」


「それは穂村も同じことだと思うけど」


 そもそも不登校になっている生徒が公園でランニングしているなんて、とても妙なことだった。

 だから俺は、


「なんで学校来ないで走ってるんだよ」


 と率直に聞いた。


「トレーニングだよ。学校行って授業聞いてたら、走るどころか筋トレもろくにできないだろ。穂村くん授業中に筋トレはしないように、とか先生が絶対言ってくるぞ」


「だから、なんでトレーニングなんかしているんだよ」


「んー、それはだな……。俺さ、もう一度野球をやってみようかなと思ったんだよな。お前、野球漫画って読むか?」


「『タッチ』なら読んだことある。親が持ってたから」


 と俺は答えた。

 俺は自分で漫画や雑誌を買うことがあんまりなくて、両親や姉の読んだ物を後から読むことがほとんどなのだった。

 姉は野球漫画とかは読まないし、両親が持っていたのも『タッチ』だけだった。


「あー。あれも面白いよな。でも俺が話したいのは『タッチ』じゃなくて……、うん、ほら、野球漫画ってさ時々あるんだよ、ピッチャーの主人公が肩とか肘とか故障して投げられなくなる展開がさ」


 自分をそういう漫画の主人公と重ねているわけだ。

 穂村は熱く語る。


「でも主人公は再びマウンドに立つんだ。たとえば、右投げから左投げに転向するとかな。そうやって一時は選手生命が危ぶまれた主人公は見事に復活して、活躍する。そしてチームを勝利に導くんだよ。俺もそういうふうに、復活しようと思ってな。しかもただの復活じゃないぞ。これまでよりもパワーアップしての復活だ。そのために日々自主練を重ねて、左投げへの転向を目指しているのだ」


「今まで右で投げていたのに、左で投げれるようになるものなのか?」


「見てみるか?」


 穂村は、歯を見せてにやりと笑った。

 精悍な顔立ちの穂村がそういう顔をすると、攻撃的な笑いにも見えて、少し怖く感じた。

 だけど俺は臆したことを隠しながらも、ああ、とうなずく。


「ならちょっと待ってろ。近くに停めた自転車に荷物を積んであるから、取ってくる」


 と言って、穂村はダッシュしていってしまう。

 そしてボストンバッグと共にすぐに戻って来る。

 バッグの中には野球のボールと、そしてグローブが二つ入っていた。


「これ使え。ぼろぼろだけどな。俺が故障する前に使っていたグローブなんだ」


 と左手に着けるグローブを渡される。

 傷などがあって、かなり使い込まれているのがうかがえる。

 もう片方のグローブは左投げ用の、右手に着けるグローブだったが、そちらはまだ綺麗だった。


「最初はアップも兼ねて、軽いキャッチボールから始めるぞ」


 あまり離れることもなく、割と近い距離でボールを投げ合う。

 穂村の投げ方は自然に見えた。

 投げられたボールも俺に向かって綺麗に山なりの放物線を描いて、俺のグローブに納まる。

 少なくとも、利き腕じゃない方を扱っているぎこちなさは見られなかった。

 ボールが何度か俺たちの間を往復すると、穂村が数歩離れる。

 そうやって徐々に距離を開けていく。

 俺がどう頑張ってもノーバウンドで球を投げられない距離になっても、まだ穂村は余裕な感じでボールを山なりに投げる。


 いつまで続くんだよこれ、と思い始めたところで、


「そろそろ本気で投げるけど、いいか?」


 と穂村は言ってきた。


「ああ、いいけど」


 そう答えると、しゃがんでグローブを構えろとか、色々と指示を出してきた。


「少し球が外れるかもしれないけど、その時はごめんな!」


 明るく謝ってくるのだが、ごめんで済む話なんだろうかと俺は恐々とする。

 俺はキャッチャーの体勢をさせられているようなのだが、キャッチャーっていうのは防具を着けるものではないのか。

 そしてキャッチャーは普通のグローブとは違うやつを使っていた気がする。

 だから素人がこんな無防備な状態でキャッチャーをやるのって、だいぶ危険な行為なんじゃないか。

 そう思うのだけど、俺よりも専門的な知識のあるはずの穂村は気にした様子じゃない。

 本当に大丈夫かよ。

 俺の疑いは晴れないまま、穂村は投球フォームに入る。

 そして彼の左腕からボールが放たれる。

 速い。

 だけど俺がグローブを構えた地点よりも左に球が逸れていた。


「危ねっ!」


 咄嗟に上半身は球から逃れるように動き、そして唯一防具らしきものが着いている左手は逸れた球を受けようと左に動く。

 偶然にもグローブに球が当たった。

 捕球はできず、ボールはぽろりとグローブから落ちた。


「すまん、大丈夫だったか?」


 穂村が走り寄ってくる。


「なんとか。でも、ちゃんと投げられるじゃないか」


 と俺は言った。

 穂村の投げた球は速かった。

 それを受け止めようとしたグローブの左手はじんと痛みを感じていた。

 なのに穂村は、


「いや、全然ダメなんだ。こんな球じゃあ甲子園には行けない」


 と笑顔で言った。

 さっきの怖そうな笑みとは全く違った笑顔だった。

 とても柔和で、『タッチ』に出てきそうな人の好さそうに見える笑みだった。

 だけど凄く寂しそうな笑顔で、まるで彼の周りには大きな空白が広がっているみたいだった。

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