第4話 姉の言葉

 小平は緑茶をゆっくりと飲み、やがてその一杯を空にすると、


「おごるわ」


 と短く言って、鞄から財布を出そうとする。


「いや、いいよ。自分で払える」


「でもこの喫茶店で落ち合うことにしたのは私」


「だとしても」


 女子に払ってもらうっていうのは気が引ける。

 しかし小平は遠慮することないと言う。


「私は図書室の精霊だから、人におごるくらいできるのよ」


「なんだそれ? もしかして、金品を受け取っているのか?」


 その図書室にいてほしいと言ってきた先生から?


「それって、やって良いことなのか?」


「さあ。良いか悪いか、そういう事実があったのか。それは存じ上げません」


 小平は澄ました顔をして、財布を広げる。


「でも私のお財布の中にはこのように一万円札が一枚」


「すっ、すげえ!」


 結局、おごってもらった。

 家に帰ると、姉がキッチンに立っていた。


「ただいま」


 俺が声をかけると姉は得意そうに菜箸を振った。

 たぶん「今日は私が作っているんだぜ」の意味だ。

 姉は会社員で、普段なら俺より帰ってくるのは遅いけれど、休日やたまに有休を取った日には母を押しのけて料理をしていた。

 今日は姉ちゃん、仕事休んだんだな。

 昔から料理と言うか、人の世話をするのが好きな人だった。


「さんま」


 と姉は言った。


「へえ。もう秋だねえ」


 すると姉は小さく笑いながら短い溜め息を漏らした。

 低い温度に設定されているダイニングのクーラーが涼しい空気をキッチンまで送っていた。

 俺もさっきまで外に出ていたから知っている。

 今日も暑い一日だった。

 全然秋じゃないよな。


 小平いわく、夏はまだ終わっていないのだから。


「俺がすぐに秋を連れてくるよ」


「クリスマスに?」


「そのサンタはもう少し慌ててプレゼント持ってきた方がいいな」


 そして姉は目線だけで、もうすぐ出来るから待ってな、と指示する。

 俺はダイニングの席に座って夕飯が出来るのを待つ間、スマホで曲を探す。

 俺の人生には音楽が常に共にあった。

 いつだってポップやロックの歌詞に自分や誰かの人生を重ねて、自分たちの送る人生が音楽のような物語なんだとイメージを膨らませてきた。

 失恋したって悲しいラブソングを聞けば、人生のあらゆる瞬間が肯定されているような気持ちになった。


 俺は、人の死に関する音楽を探した。

 初原の死をより深刻に実感するために。

 それによって小平の気持ちに寄り添おうとして、俺は相応しい歌を聴こうとした。

『日曜日の太陽』は陽気そうにも聞こえるハーモニカの演奏が特徴的な曲だった。


 日曜日に待ち合わせをしている。

 君が来るのをずっと待っている。


 そういう歌だった。

 ネットの噂では、自殺した友人のことを描いた歌ということになっていた。

 真偽はわからないけれど、そういうつもりで聴いてみれば、待っているその人とはもう一生会えないと悟った悲痛さの強い歌だった。

 小平も、二度と会えない初原を待ち続けているのだろうか。

 そんなことはあり得ないと知りながらも、初原が新しい歌を作って聞かせてくれることを小平は待っているのだろうか。

 初原を失った小平の気持ちを想像しながら、俺自身もとても大切な友人を失ったような気分に染まっていく。

 本当は特別に仲が良かったわけでもないのに、音楽の雰囲気に合わせて思い出がどんどん改ざんされる。

 そんなものだ。

 昔よりも音楽がずっと身近な今の時代。

 携帯電話にイヤホン着けて、自分の耳の内にだけ流れるメロディーに心身を浸して俺たちは生きている。

 つまみ一つでボリュームを調整するみたく、思い出のありようだって簡単に変えてしまえる。


 悲しい歌に聞き入っている俺の目の前に、味噌汁の注がれた茶碗が置かれる。

 そして姉の顔が視界に入ってくる。


「ご飯前に泣くのはやめてよ」


 と無言の姉は表情だけで語っていた。

 俺は指で目元をぬぐってみたけれど涙なんて出ていなかった。


 けれど姉の指摘はある意味当たっていて、俺は涙を流す想像をしていたのだった。

 小平は人知れず泣いたんじゃないか、とか。

 大切な友達を失ったのなら俺も初原の死に涙するはずなんじゃないか、とか。

 涙のことを考えていた。


「別に泣いてないし」


 俺はイヤホンを外しながら言い返した。

 あっそ、と言いたげに姉はキッチンに戻って、出来た夕飯を次々に運ぶ。

 大した涙じゃないと姉は見透かしているのだろう。

 それで対応もドライだ。


 姉は口数が少ない。

 付き合いの長い俺たち家族は、顔を見れば姉の言いたいことは大体わかる。

 俺たちの察しの良さのせいもあって家の中では姉はほとんど喋らなかった。

 今日だって姉の肉声は、さんまとクリスマスの二言しか聞いていない。

 もちろん外に出れば多少は口数が増えるらしい。

 ちゃんと普通に会話することもあるよ、とかつて姉は表情だけで家族に言っていた。

 そんな感じだから、いざ姉が普通に会話をする時に、どんな声をしているのか俺は知らない。

 いつも姉は表情だけで語りかけてくる。


 だけど俺は、姉が歌を口ずさむのを聞いたことがある。

 幼稚園生とか小学校低学年だった頃の話だ。

 俺は家のリビングで横になって昼寝をするのが好きだった。

 あの時期の姉はよく俺の傍で子守歌らしきものを口ずさんでくれた。

 当時から姉は口数が少なかった。

 けれども、俺が昼寝をしようとするととても小さな声で歌ってくれたのだった。

 歌詞が聞き取れないほどに小さな声だったし、歌も上手なわけじゃなかったけど、お姉ちゃんの声をじっくり聴ける機会なんて他に無いんだから俺は凄く特別なことをしてもらっているんだと感じていた。

 そして姉の歌に耳を澄ませながら夢の世界に落ちていったのだった。

 姉の歌が聴けるかもしれないことは、いっそう俺を昼寝好きにさせた。

 そのことを、子供時代の幸せな記憶の一つとして、とてもよく記憶している。

 他人の歌声を聴くのが好きになったのは、口数の少ない姉の子守歌が多分に影響しているのだと思う。



 結局今日のところは二言しか姉の言葉は聞けなかった。

 風呂も済ませた俺は自分の部屋でベッドに横になり再び『日曜日の太陽』を聴いていた。

 そして今日あったこと、小平と話したことを振り返る。

 小平に話しかけられたこと、そして彼女の馴染みの喫茶店に案内されたことは、凄く大きな出来事に思えた。

 小平の見た目が良いってだけで、それだけのことが重大事になってしまう。

 思い出すだけで、どきどきとしてくる。

 もしもこれが恋だって言うのなら、恋愛がもの凄く浅はかなものに失墜してしまうであろうほどに、俺は単純で小平の容姿に目を奪われていた。


 その小平が俺に言ったこと。


 持山くんの歌って魂が無いみたい。

 晴夏の自殺の原因を明らかにしたいの。

 晴夏の事件の終わりを、この夏の終わりにする。


 そう、初原だ。

 俺は小平の容姿を思い浮かべるのではなくて、初原の死のことを考えないといけない。

 小平は、初原の死の真相を明らかにしたがっている。

 何者かの罪を暴くために。

 俺は、小平が墓場の地面を掘り返し、埋まっていた白骨の初原を掘り起こす場面をイメージした。

 勝手に骸骨姿にしてごめん初原。

 だけど明日からは、俺も大きいシャベルを地面に突き立ててお前を掘り起こしてやるからな。

 初原、なかなか面白い子だった。

 背は低かった。

 と言っても男子の俺と比べたらの話で、たぶん女子の中では普通くらい。

 髪は肩よりもちょっと長くしていた。

 けれどもあんまり長く伸ばすことも短く切ることもしないで、外見はほとんど一定だった。

 初原はその髪の長さを自分のキャラクターとしていたのかもしれない。

 そしてメタルフレームの細い眼鏡を掛けていた。

 彼女とは音楽の趣味が合ったもんだから、CDを貸すこともあった。

 俺自身は歌なんてダウンロードするばかりだけど、姉や両親にはまだCDを買う文化があって、家にはそこそこの数のCDがあった。

 俺はよくそのCDを拝借して、パソコン経由で音楽データをスマホに入れている。

 だから古い曲なんかもよく聴くのだけれども、そういったCDを初原に貸していたのだ。

 姉や両親に無断で持っていて人に貸すのだから、俺にとってはなかなかの冒険だった。

 もしなにかあれば家族から怒られるだろうし、CDは俺が弁償しなくちゃならない。

 だけども弁償と言ったって、どうせ千円強で済むはずだ。

 そのくらいならどうとでもなるさ、と計算ずくで俺は勝手に家のCDを持ち出したものだった。


 初原はCDを返す時に、入っていた曲の中で気に入った歌詞のフレーズについて語った。


「この歌詞のキレがえげつないんだよねえ」


「この歌詞のセンスは人類の財産だと思う」


 そんな言い回しで初原は歌詞を褒めていた。

 そしてどこが気に入ったのかメモした紙までよこしてきた。

 彼女の話す感想はいつも歌詞についてだった。

 まるで国語の授業のように、時には俳句の添削みたいに、助詞の一文字まで褒めちぎるのだった。

 学校で初原の授業を受けた後に、初原の好きなフレーズだけが書いてある歌詞カードを見ながらCDを聞き直すのは楽しかった。


 思い出してみると初原はとても素敵な女子だったように思えてくる。

 当時は異性として全然意識していなかったのに。

 別れを悲しむ歌を聴きながら初原との些細な思い出を振り返っていると、その日々がとんでもなく輝いていたように見えてしまう。


 そして初原との思い出は、最終的には、一度だけ聞いたことのある彼女の即興ソングに行きつく。

 その歌を思い出そうとして、俺は音楽の再生を止める。

 初原が俺に歌った即興ソング。

 タイトルは『USB缶コーヒーが欲しい』。

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