『第十二話』

第二章 『第十二話』


 病院の裏手、草地。

 外套と袋を外して身なりを軽くした女神は目の前に並べられた大小様々の樽や桶や瓶といった空の容器を瞑目で捉え、精神を深く沈めて研ぎ澄ます。



「…………」



 飢饉に次ぐ疫病の危難に見舞われた都市で、窮する人々のために協力を約束した青年。

 医師の願いを受けて今の彼女が真っ先に取り組むのは"水の補給"。

 飲用や洗浄用をはじめとした多岐に渡る用途で必要となる"清潔な水の不足"——先ずは差し迫ったその問題を解決しようと、川水の女神は己の権能を振るう。



「…………すぅ」



 人の目に見える形での"水の精製"。

 純なる水神ならば『赤子の手を捻る』かの如き容易の御業なれど、不安定な元人間このものにとっては——やや、難しく。

 水分は兎も角、自然界に存在する糖分の抽出などは以ての外で。



(…………落ち着け)



 水を集めるため、先ずは凄惨な光景を目にして乱れた心を宥めようとする。

 "有する権利と能力を如何様に扱うか"——それは他でもない己自身が決めること。

 心の向かう先にあるものは何か、その激しき流れで何を成すのか——破壊か、再生か——『描く理想はどのようなものか』



(……大丈夫。やれる)


(今の俺なら出来る。自分には出来ることがある)



(——彼らは、"終わってない")



 見据えるのは——人命の保護、救命の未来。

 女神ルティスとしての形を得て数ヶ月の青年はこの一時、己の苦悩を傍に追いやり、嘆くことも止める。

 強く迫る喪失恐怖への震えを原子・分子の振動に変えては熱を生み、その力を以って内なる大海を凪へ——穏やかにして暖かな風で毛羽立つ心を撫で、鎮める。




(——……始めよう)




 そうして、静かなる流れを取り戻した女神——開眼は薄く青に明滅。

 己を起点に"一から水を新造"するよりも、今は質と量・速度と時間の観点から"既に在る物の再利用"を選択。



(——体を、フィルターのようにして)



 手を翳す先——先ずは"慣らし"の樽一つ。

 水の豊富に存在する星の中、循環の一部としての己を意識し——同調。

 空に海に大地に——至る所に"源泉を視る"。



(——そして水を、引き入れて)



 源泉より引き出した溢れんばかりの水たちに流れる方向を指示——己という女神へ引き入れ、通す。

 玉体を境界として扱い、不要の不純物を取り除いては——通過分を凝縮、内側で水分を水に変え——体内循環に乗せる。



(また、外の世界へ——戻す)



 翳した手先は今や——開けられた水道の蛇口のように水を吐き出し、打ち付けられて音の鳴る樽容器。

 数十秒後には満杯となったその中には当然——透き通る水がいっぱいで。



(……大丈夫。やれそうだ)


(体が重くて心配だったけど……水の操作に問題はない)



 水面に映る気色顔きしょくがおは僅かに口元を緩めた。

 昨晩から続く倦怠感はやはり健在であったが、少なくとも水の扱いに関して異常は見られない。

 この調子ならば、水の不足する問題は無事——解決に向かうだろう。



(それなら、休んでもいられない)




(——次だ……!)




————————————————




「——深く感謝を捧げます。これで当面の間、水に困ることはありません」



「貴方が来てくれて本当に助かりました」

「いえ。先ずは一つ、力になれて良かったです」



 漏れなく神の作りし水で満たされた不揃いの容器を前に医師のディクソンが再び頭を下げる。

 協力を誓ってから今は一時間が経過したという所だが、早くも必要最低限の清潔な水を女神は都市にもたらしたのであった。



「また足りなくなったら教えてください。まだまだ余裕はありますので」

「有り難き御言葉、しかと忘れずに記憶させて頂きます」

「いえ。それで次は、他に何か自分に出来ることはありますか?」



 目下最大の危機を一つ乗り越え、緩みかける表情——しかし、疫病の脅威は未だ健在。

 目を黒くした青年、一度は浮かべた柔和な笑みを引き下げ、次の問題への対処方法を問う。



「はい。お疲れの所で大変申し訳ないのですが、やはり貴方には大きな問題の二つ目——『砂糖の不足』についても対処をお願いしたいと思います。……重ね重ねになりますが、宜しいでしょうか?」

「勿論です……!」



「有難うございます。では、先程説明した通り、外部での砂糖の調達を貴方にお任せしたいと思います」

「……どの辺りに向かえば宜しいでしょうか?」



 未だ辺境から大きく離れた遠方を知らぬ青年は不安げな語調で尋ね、蓑と袋を拾い上げて出立の準備を進めながらに話す。

 積載量については袋に特殊な仕掛けが施されているため配慮は要らず、残る心配は砂糖の調達可能は場所とそこまでの距離だ。



「ルティシアからですと……やはり港を有する都市『ポート』が一番近く、尚且つ砂糖がある可能性が高いかと思われます」

「あっ、その都市なら見たことがあります」

「でしたら、ポートを第一目標としてもらい、そこに砂糖がなかった場合は……」

「場合は……?」

「……一度、この場所に戻り報告をして頂いた後、山を越えて都市を目指してもらうことになってしまいますが……構わない、でしょうか?」



 無茶な願いを口にし、憚る様子の医師。

 不躾な要求に応えられるだけの力を女神が待つかを不安視していた人間の彼ではあるが。



「——構いません。分かりました。最初の所が駄目だった場合は、一度戻って来てから遠くですね」

「はい。それで、お願いを。詳細な場所についてはその時にお伝えします」

「了解です」



 二つ返事で了承する女神によって心配はまた一つ、杞憂に終わる。

 未熟な女神とて短時間の山越えは可能。

 小中規模の山ならば文字通りにひとっ飛びで通過点とするだろう。



「でしたら後は、取引の代金の方なんですが……」

「?」



 そうして、出立前の確認は佳境に入り。

 既に蓑の上で袋を背負っては全身に殺菌処理を施す女神へ掛ける医師の言葉、突如として歯切れが悪くなる。



「正直に言わせてもらいますと今はあまり……私共の方で"持ち合わせがなく"……」


(それは……)



 それも当然、話の主題は資金さえも不足している事実を明かすもの。

 平時ならばまだしも飢饉とその復興で既に大きく消耗した都市に富の余裕などある筈もなく。



「なので……取引相手の方に私の名前と所属を伝えて頂いて、どうにか後払いに——」


(……砂糖。なら、なんとか……)



 すると、度重なる不幸を哀れに思っていた青年。

 諸々の不足が仕方のないことだとしても女神は医師と人々の先を見据え、彼らが借金という更なる苦を背負う将来を憂い——『もっと力になりたいと』

 "純粋な善意"で、よりにもよって"価値判断"の関わるこのタイミングで——"色気を出してしまう"。




「……でしたら、?」

「——!」




「——い、いやいや……! そんなことまで貴方にしてもらうわけには……」

「遠慮しないで下さい、先生。困った時はお互い様です」

「で、ですが……」



 提案したのは『資金の供出』——"砂糖の購入に必要となる代金を女神である己が払おう"と言うもの。

 一仕事を終え、協力に確かな達成感を覚えていた彼女は、浮ついた気分そのままに大きな物言いを口にしてしまった。

 普段は物の価値についても様々な視点から教えてくれる者の——"師の不在"を混乱と高揚の中で忘れ掛けてしまっている影響もあっただろうか。



「大丈夫です。あまり使わない分、お金は結構貯まってますので」

「しかし……」



「先生は先生で、都市は都市で他にもお金を使わないとでしょうし……任せてはくれませんか?」



 けれどそれは、何も根拠のない自信という訳でもなく。

 貴重な食材を卸しての取引を数ヶ月続け、そして殆ど飲まず食わずで出費という出費の機会がなかった青年の懐は確かに"ゆとり"があった。

 貯めた硬貨の数も重みもそれなりで、人間はその一枚二枚で日を暮らせることも知っていた。



「……確かに。ご指摘の通り、私にとっても魅力的な提案です。……ですが、本当に?」

「はい」

「本当に……宜しいのですか?」

「勿論です」




『それだけあれば調を買うには十分』だと考えていた——だが其処に——そのに予想もしてない『落とし穴』があったのだ。




「……分かりました。であれば此度の慈悲に厚意、至上の恩恵として受け取り、後世に語り継がせて頂きます」

「いえ、何もそこまでは……」



 しかし。

 押し切ってしまった今、手筈の決定してしまった今では——"時すでに遅く"。



「そ、それより。先生も患者さん達を診る時間が必要で、自分も準備は出来たので早速、行ってこようと思います」


「先ずは海辺の都市ポートで砂糖の調達。駄目だったら一度、此処に戻る——それで大丈夫ですよね?」

「はい。今はそれでお願いします。量については多いに越したことはないので、なるだけ多くを見つけて来て貰えると助かります」



 合意の頷きを交わす両者。



「……多くですね。分かりました」



「そしたら、行ってきます」

「お願いします。どうか、お気をつけて」

「はい……!」



 意気良く医師に別れを告げた青年は走り、都市を出ては周囲に人気のないことを確認。



(……なるべく早く——)



(——急いで向かおう!)



 致命の見落としに気付かぬそのまま。

 神としての力を存分に発揮し、海辺の都市を目指して高速で移動を開始。

 ただの一度も振り返らず、脇目も振らずに都市を離れる水の軌跡、必死に"青年を追う者"を——。





 を——置き去りにして行くのであった。





————————————————





 そうして青年、まもなくに至るのはルティシアから最も近い港湾都市の『ポート』。

 海を眺めるこの都市は大都市には遠く及ばないまでも山脈に囲まれた一帯の重要な交易拠点として栄え、現に昼下がりの今も海産品や輸入品を求める多種多様な人間たちで賑わいを見せている。



(市場いちばはこの辺りか……?)



 その中、露店や道端で話し込む人々の間を抜けて進む青年——人間が移動に二日三日を要する距離を一時間と掛けずに走り抜けた女神。

 初めて訪れるルティシアよりも栄えた都市の活気に慣れず緊張しつつ、目当ての物を探して歩く。



(砂糖……調味料の類い……)



 背景には停泊して並ぶ木造船舶、獲物を狙う褐色の磯鴫いそしぎたち。

 波の音は群衆の声に掻き消され、塩臭い潮風を浴びながらに青年は砂糖を見つけようと首を右往左往——頭巾の中で暴れる黒の総髪。



(どこだ……)



 しかし、目に入るのは魚に魚、偶に貝類ばかりで。

 ポートの市場が付近で採れた海産物と遠方よりの輸入物で区画が分かれていることを知らぬ青年、焦りの色を濃くしながら早める足取り。

 魚の横を過ぎて、貝を過ぎて、海藻を過ぎて——漸くに変わりはじめる品揃え。



(この辺は果物で、調味料は……)



 輸入物の区画に差し掛かり、周囲には色取り取り大小様々の果実・野菜たち。

 糖を持つ物体の登場に予感する——目当てが近付いてきたこと。

 "それ"は、緩めた歩行速度で見回す店の一つ一つ、商品の並びの何処にあるのだろうか。

 頼りとする目印、"粉末状の物体"は。



「…………」



 見て、歩いて、見て、歩いて。

 そうやって数分の間を彷徨い、急ぐ青年は誰かに聞いた方が早いと思い当たる頃。



(聞けば、教えてくれるかな——)


(あるかないかが分かれば、早いんだけど……)



 視覚で捉えるのは子ども程の大きさを備えた壺。



(——……!!)




(あれはっ、もしかして——!)




 その壺を満たす"白色の粉末"を目にし——青年は飛び付く。



「す、すいません! これ、この中にあるのってもしかして——」




「——"砂糖"ですか……!?」




 その"正体"を、飛び込んだ先の店主へ問う。



「な、なんだい、ねえちゃん。いきなり……」

「砂糖なんですか……!?」

「お、おう。。こいつは確かに"砂糖"だが……」

「——!」



 漆黒で身を包んだ怪しい女、その表情は一転して目を見開く歓喜の色へ。



「では、ここにあるので全部ですか?」



 そして間を置かず、砂糖の在庫を確認する。



「ここにある一つと裏の壺三つで全部だな。でも……どうしてそんなことを聞くんだい?」

「ちょっと急ぎの用事で砂糖が必要で……を貰うことは出来ますか?」



 都市ルティシアを襲うのは未だ名前の定まらぬ未知の病であり、この先で更に予期せぬ事態に陥ることも十分に考えられる。

 故に、治療に用いる物資は不測の事態への対応幅を広く持つために余剰が出る方が望ましく、青年は『なるだけ多く』という医師の指示通りに買い付けを行おうとする。

 その周囲で他に砂糖を取り扱う店は見当たらず、浪費する時間を考慮すればやはり、今ここでまとまった量を入手して即座に帰還出来るのが望ましいが——"独特の価値感覚"を持つ青年は果たして、商談を無事に終えられるのだろうか。



「ぜ、全部とは……大きく出たな、姉ちゃん」

「どうしても必要なので。それで、購入は可能でしょうか?」

「あぁ、まあ。こっちとしては貰える物さえ貰えれば構わないんだが……」

「……?」



 店主は"やたらと砂糖を欲しがる客"の頭から爪先までの身なり——"足元"を薄目で見ては"密やか"に話を持ちかける。



「……この砂糖は特に純度の高い"高級品"。それなりの値段がするが、姉ちゃん——ホントに払えるのか?」

「……大丈夫だと、思います」



 対して青年は受け答えをしつつ、硬貨を取り出すために袋を漁る。

 彼女が所持しているのは大陸で広く利用可能な『大都市グラウピア』発行の硬貨『グピー』——その銅貨三十枚ほど。

 この銅貨は大体人間が一日働けば一枚貰える代物であり、それが三十ともなれば一か二ヶ月は人として最低限必要な物資が手に入れられるだろう中々の大金であった。



(だから、それが見た感じ一つの壺に百入ってるとして……"数万円")


(四つでも"十万"を超えて……だから、十グピーも超える……大丈夫。払える筈)



 "数ヶ月分の資金"——確かにそれだけあれば以前の彼、の大量購入も可能であり、今の彼女はこの取引で必要となるのは精々が『十から二十グピー程度だろう』と皮算用。

 元高校生の女神は個人としての大きな買い物に緊張しながらも——"庶民的金銭感覚"を基本として計算を終え——つける購入の算段。

 袋の中から直ぐに硬貨を取り出せるよう握っては、最後に値段を訪ねようとする。




「全部で……おいくらになりますか?」




 だが、かくして遂にここで——かつての現代を生きた青年は"今の神代の落とし穴"にはまる。

 落とし穴、転じて——気付けなかったと言い換えた方が分かり易いかもしれない。

 不運にも緊急時こういったときに備え、不要な物の購入を控えていたことも仇となってしまい——次の瞬間。




 硬貨を掴んだその手は開き、そこからは何枚もの硬貨が滑り落ちる。

 店主の言葉を耳にして驚愕。

 青年は目を見開き——青ざめることになる。




「壺四つ。全部で締めて——」




 つまり、青年の"見落としていた事実"——。

 状況が平穏の平時であれば責めるのも酷な、しかし今は"致命的な失敗となり得る誤解"とは——に起因するもの。





 それ即ち、要約して——。





「——だ!」





 よりも遥かに——であったということだ。





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