『第十七話』

第一章 『第十七話』




「——駄目だっ、やめ——待て——!」




「待っ————」




 必死に声を張り上げても、転倒。

 泥が色を失った女神の顔を汚して。




「————……ぅ、ぅ……」




 既に視界で遠く小さいのは獣の後ろ姿。

 その背で散らす矢の光へ向け、手を伸ばす。




「……だめ、だ……」




 しかし、変わらず無情にも遠去かる叫び。

 深林を突き進んでは、遂に女神の視界より消える獣。



(……直ぐに、追わないと)



 玲玲れいれいと、淡淡と。

 取り残された青年を打つ雨だけが騒がしく。



(このまま、じゃ……都市の人々が……)



 どれだけ冷やされようと死なずに満ちる体力。

 その力任せに青年は悪夢を忌避する思い一心で立ち上がらんとして。




「……う"、っ————」




 しかし、痛みに弱った己で意気は足りず。

 泥濘む大地に打ち立てた細腕は崩れ、再びに"身を打つ岩盤の痛み"。




「……っっ……(前にも、こんなことがあったような……——)」




 痛みによって想起される記憶。

 青年の体感した時間では凡そ一週間前、『転落』の情景。



(——あの時、俺は階段から落ちてそのまま、意識を失って……)



 虚ろな表情、か細い吐息。

 高熱に苦しむかの如き青年の瞼が閉じ始める。

 消耗した心身が休息を、"自己の安寧"を求め始めているのだ。



(……恐怖や痛みを感じる暇——時間なんて、全然……なかった)



 しかし、そうこうしていても"蝕むのは痛み"。

 青年を朧げな過去の記憶から今へと引き戻す苦痛。



(だけど、今は——今は——! 痛くて、怖くて……っ!)


(……なんで俺がっ、あんなに大きな獣に立ち向かわないといけないんだ……!)


(どうして、どうして俺がこんな痛い思いを……しないと……いけ、ないんだ——)




「ぅ、っ……っ……、…っっ——」




 身を襲った恐怖に蹲る体が小刻みに震え、悲嘆で振り落とす涙。

 英雄どころか戦士ですらない女神の——内なる人間性の表出は孤独のまま悪夢を彷徨い、覚めぬそれに抗おうと努めて。

 しかし——にも堪え兼ねる思考。



(……少し休んだって、諦めたって——……やらないといけない確かな責任も、俺にはないんだ)


(……だから、流れに身を任せても問題は……"ない")



 遂には閉じられようとする瞼。



(問題も、責められる謂れも、ありは……)



 だがそれでも。

 今の青年かのじょには譲れない——『譲りたくない』と"願ったもの"が存在するから。



(……でも——)



 その、脳裏に浮かぶ"一つの疑問"。

 瞼が閉じるのを既の所で押し留める。



(——仮に今、もし、)


()




(……?)




 歳は離れていてもどこか"妹"を思い出させる少女の姿を——を想い、ちから



(このままなら、都市は壊滅的被害を受けて……彼女たちは故郷を失う)



 去り際に見た獣の走行速度から考えて、そう長くの時間は残されていない。

 直ちに追い、何らかの対処をしなければ都市の命運はそこまで。

 人々も殺されるか、野垂れ死ぬか——いずれにせよ待つのは遠からずの『死』だろう。



(そして……例え、生き延びられても家族を——大切な人を喪う苦しみ・悲しみが彼女たちを襲うかもしれない)



 ならば——『やはり立ち止まることは許されない』とふり絞る力で青年の持ち上げる頭。

 眺める先にはなぎ倒された木々で都市への道筋も見えている。



(苦痛それ悲痛それは……)




(そんな経験も、思いも——)




 泥を巻き込んで握る拳。

 大地を支えに膝を立て、腰を上げる青年——女神の玉体で黒の髪に瞳が、薄い光を帯びよう。



(……そうだ。その方がきっと……いい)



 痛みさえ力に変えようと——苦しみから逃れるためにももがき、震える体を起こす。



(俺が今、諦めて——彼女たちが酷い目に遭うぐらいなら、俺は——)



 細けれど健やかなる二本の脚で立つ。




("同じような苦しみを味わって欲しくはない"——だから……! 俺、は——!)




 そうして、空を染める光。

 全身を汚した泥を取り払うのは豪雨。

 轟く雷鳴を背に——女神は踏み出す。




(——"諦めたくない"……! ————!)




 循環させる神気を足に、走るべき獣道にも添うよう展開。

 更には内部で圧縮、下腿かたいの後面より——放出の力。




————!!」





「""——ぁぁぁぁっ!!!」





 思い描く理想のため。

 未来に向けては激流を以っての推進力、獣を追う水平線が走り行く。




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