在りし日

 目の前の状況を飲み込めないサラは、変わらず首にぶら下がるリューに問いかける。


「リュー、これはどういうこと?」


 ……リューは答えない。寝ているのだろうか。


 曰く、本来の形ではないものに変化し続けることは多少なりとも体力を使うらしく、こうして身体を休めることに注力することもある。

 何ら不思議なことではない。今はそっとしておくことにした。


 これは幻覚なのか。それとも、寝る前の記憶が夢なのか。だとすればどこから……


「考えていても仕方ない。ひとまず外に出よう」


 カバンは部屋に置いたまま、サラは賑やかな町へと乗り込んだ。


 霧の濃かった冷たげな道路は、荷運びする馬車、その脇を避けて歩くように人々が歩いている。

 閉まっていた家の窓は大きく開き、洗濯物を干す者、植木鉢の花に水をやる者、外の友人らしき人間に大きな声を飛ばす者。


 多くの市場、籠を片手に商品を選ぶ客人、その誰もが明るげな雰囲気を振り撒いていた。


「おや、随分小さな旅人さんだね」


 呆然としていたサラに声をかけたのは、持ちきれないほどの果物を店頭に並べる血色のいい男。

 その顔こそ屈強で恐ろしい印象を抱きそうになってしまうが、その声色と裏のなさそうな笑みは疑いようのないものだ。


 サラが挙動不審にしていると、今度は店の中からエプロンを纏った女性が現れる。


「どうしたの?」

「旅人さんが困ってるみたいなんだ。迷子かな」

「この辺は道も複雑だし、案内しましょうか?」


 店の奥から出てくるなり、女性は満面の笑みでサラへと手を伸ばす。


 形容できない、不思議な温かさがある。それは笑顔だけでなく、彼女の容姿がそうしているように思える。


 小麦色の長い髪を一纏めにして肩に乗せ、空を映したような淡い青色の瞳。すべてとまではいかないが、身に纏う雰囲気はサラの愛した師、アリアによく似ていた。


 アリアとは血の繋がりもない、赤の他人であることは間違いない。それなのに、何故か彼女の影が重なってしまう。


 何もかもが不自然で、でたらめだ。本当にここが現実なのか夢なのか、境界線が曖昧になっていく。


 けれどサラは、今この時間が穏やかに、ゆっくりと流れているような錯覚を覚えている。

 それが心地よくて、今はこの状況に身を任せてもいいのかもしれない。そう思えてきた。


『……ハハ』


 ふと、誰かの笑う声がする。

 街の人たちの声とは違う。はっきりと、しかしどこか遠くから聞こえたような、不思議な声が聞こえてサラはあたりをぐるりと見回す。


「どうしたの?」


 それらしき影はなく、気のせいか、とサラは苦笑する。


「いや、なんでもない。案内、よろしく」


 女性はまた微笑み、サラの手を引いて元気よく町の中へと歩んでいった。


「今いるここが市場、旅人さんも住民も使っているから、特に朝と夕方は人が多いのよ。いろんな珍しいものも売っているわ」

「ここは旅人が多いの?」


 サラがそう尋ねると、女性はうむむっと眉間にしわを寄せ、頭を悩ませているようだった。

 なんとか捻り出すように、彼女は答える。


「どちらかというと、家族で遊びに来る人たちが多いかしら。ああでも、大きなカバンを背負った人もよく見かけるし……」


 何気ない質問に対して真剣に悩む彼女の姿は可笑しくて、サラは微笑する。

 それを見つけた彼女は、不思議そうに問うた。


「なにか可笑しなことを言ったかしら?」

「いや。素敵だなと思って」


 サラの生まれ育った町には、これといった特徴もない。

 否、あったのかもしれないが、それを知らない。

 だからこそ、自分の町をこうして嬉しそうに話す彼女を、もっと見ていたいと感じた。


「ほかにはどこがあるの?」

「ついてきて」


 それから女性は、サラをたくさんの場所に連れて行ってくれた。


「ここが温泉。温泉に入れるだけのところもあれば、温泉と宿が一緒になったところもあるわ。この町の名所ね」


 無数の湯気が立ち、離れたはずのサラたちがいるところにまで、蒸し暑さが漂ってくる。

 すぐにでもそのお湯に浸かりたいと思ったが、それは夜の楽しみに取っておくことにした。


「あそこでは源泉を売っているわ。住民はここで買って、家でも温泉に入れるの。素敵でしょ?」

「温泉を……買う?」


 この町では、買ったお湯を溜める場所を作り、毎日それに浸かって身体を洗い流すらしい。

 いつも川の水で拭いたり、いい宿でシャワーを浴びる程度だったサラには、新鮮な文化だと感じた。


「やっぱり外せないのは温泉卵ね。とても熱い源泉でさっと茹でると、中身がとろっとして美味しいのよ。それから、それからね」


 嬉しそうにあちらこちらへ指を差す女性を横目に、サラは町を眺める。


 大都市のような喧噪もなく、静かな町並みは好感を抱く。

 夕暮れに差し掛かった町のあちこちから、街灯がついていく。儚くも、温かみのある光たちは、暗くなり始めた町を照らす。


「羨ましいな」


 ふと心から漏れた声にまず自分が驚き、手のひらで口を覆う。それが聞こえていたのか、数歩前を歩いていた女性が振り返る。


「どうしたの?」

「……ここには争いや憎しみのない平和な町に見える。私は今まで、人に憎まれて生きてきた。私の見てきた世界とは違って、素直に羨ましい。そう思っただけ」


 悲痛に表情を歪ませる少女を見て、女性は歩み寄る。すると柔らかな手で頭を撫でる。当然、サラは驚き飛び上がる。


「な、なに。いきなり」

「辛かったのね。でも大丈夫、ずっとここにいれば、もう苦しまなくて済むのよ」


 どういうことだと、サラは問おうとした。

 何かを忘れているような気がした。

 何故ここにいるのか。何故来ようとしたのか。最初に見た光景は、なんだったのか――


 思い出せない。もやがかった何かが喉に残っているような、しかして吐き出せない。

 この気持ちは、なんだ?


「うぜぇな。どけよ」


 どこかで聞いた少年の声。

 はっきり聴こえたかと思えば、それは目の前に立っていた。

 赤いマントを身につけた、背丈の高い彼は、フードを深く被っていた。そして隙間から跳ねた銀色の髪を見て、サラははっとした。


「君は――」


 瞬間、サラの頭に置かれていた手が、落ちる。

 べしゃりと、力なく崩れ落ちた女性から、おぞましいほどの血が、溢れている。

 

 思考が追いつかなかった。

 目の前で何が起きたのか、まったく理解に至らない。

 真っ白な思考のまま、サラは震えた声で問うた。


「なにを、したの」

「あ? お前、どこから見てやがる。まあいいさ。そこで見てろよ」


 フードから見えた少年の顔は、笑っていた。

 無邪気に、無垢に、ただ遊んでいる子どものように。

 少年は次々と、通りかかる人間たちを、血で濡らしていった。


 目の前で、いくつもの生命が奪われている。それなのに、サラは動けない。

 悲鳴が町を埋め尽くした。

 いくつも重なったそれは、足が地に張り付いたように動けないサラの耳に、反響した。


「助けて」

「イタイ、いたい」

「やめてくれ」

「死ぬのは、嫌……」


 サラの前に倒れる女性を、サラは見下ろした。

 白かった肌は土色に染まっていき、やがて地面と一体化していく。


「待って!」


 掴もうとした手は、既に土となってサラの手をすり抜けた。

 壊れたサラの思考に流れ込んでくるのは、漠然とした恐怖。殺戮をする魔法使いの姿が、瞼に焼きつけられる。


「どうして、こんな……」


 おぞましい吐き気に襲われ、視界が歪む。

 やがて空が、建物が、地面がぐにゃりと曲がり、サラは自分が立っているかも、わからなくなる。

 耳に入るのは、助けて、助けてと頻りに呼ぶ声。そして高らかな少年の笑い声。


「クハハハハハハハッ! ギャッハハハハハハハハハハ!」


 意識が切り離されていく。そこで初めて、サラは理解した。

 夢は、こちら側だったのだと。

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