スワロウテイル - ②

 その日は突然訪れた。


 深夜ニ時をとうに回った時間。

 アパートのベランダから、悠一は階下を見下ろしていた。

 悠一と彼の父が住む部屋は、最上階である五階。ここから世界を覗き込めば、大抵のものは虫や埃のように小さく見える。


 だから、仰向けになったまま空を仰ぎ、瞬きなく一心不乱に悠一を見つめる父の姿もまた、そこらを飛ぶ蝿と大差ない。


 ――生きているわけがない。


「……痛い」


 悠一は先程、顔に出来たばかりの生傷に軽く触れて、部屋に戻った。

 それから玄関でスリッパを履き、階下へ降る。


 大変大きな音が鳴り響いた。

 真夜中だったから、誰も気づいていないのだろうか。


 それとも、その前段階があったから……「ああ、いつものやつか」と思って、不干渉を決め込んで出てこないのだろうか。


 悠一にとってみればどちらでも良かった。

 いや、どちらの方が好ましい事態であるか、天秤にかけて計る程の余裕がなかった。


 駐車場に降り立ち、ベランダから見つめていた時と同じ体制で、ひたすらに天を仰ぐ父。


 悠一は、恐る恐るといった様子で、身体に触れた。

 その瞬間に目を見開き、仕返しをされる未来が恐ろしかったけれど……ついぞ、そんな世界線にはたどり着く事なく、事実を理解した。


 悠一の父は死んでいた。


 人間の死について、何を持って定義するのか、どういった状態が「死」であるのかを一ミリとして把握するための材料を持っていなかった悠一でも、「ああ、死んじゃった」と分かる程……その遺体は惨憺たる見栄えをしていた。


「…………」


 ぺたりと地面に臀部をつけて座りこんだ。

 夏場とはいえ、夜風にさらされたコンクリの大地は冷たく、殊更に悠一の意識を現実へと引き寄せる。


「…………」


 悠一は、ひたすらに無言だった。

 無言で、父の死について考えていた。


 ――僕が悪い子だったから、いつものように怒鳴られて、殴られて、ベランダから半身が外界へと浮いたまま首を締められて……。


 必死の抵抗をした悠一に、この現状を予知する余裕などあるはずもなく。

 事態は二転三転とし、落ちたのは悠一の父だった。


 そして、彼は死んだ。

 ただ、それだけのことだった。


「……う、」


 悠一の瞳から、涙が溢れた。


「……うぅぅぅ、ああぁぁ、」


 口からは嗚咽。

 これまで頑なに涙腺の蛇口を絞って、絞って生きてきたはずの悠一の瞳からは、想像もできない程の涙が溢れて、溢れて、地面に赤黒く広がった血に溶け合った。


 悠一は父を愛してなどいなかった。

 別段、嫌いだとも想っていなかった。


「そういうものなのだ」と、それ以外の言葉で形容することは不可能な関係性。

 だから、父がこうして目の前から姿を消し、悲しいからそうしているのか……安堵していたからそうなっているのか……幼い少年に、理解できるはずもなかった。


 だから、泣いた。


「――大丈夫?」


 声。

 凛と澄んで透明な、鈴のような音。


 気づけば、悠一の隣に美翅がいた。

 両腕で折り曲げた膝を抱え込むようにして、首だけ悠一の方を向いて彼を見つめていた。

 彼女は何時からそこにいたのだろうか。


 何一つ現状への理解が追いついていない悠一でありながら、すぐ傍に美翅がいたことが嬉しいと、その感情だけは如実に理解できた。


「どうしよう」


 悠一の呟きは冷たい風にかき消される事なく美翅の耳に届く。

 美翅もまた、口を開いた。


「何が?」

「……わからない」

「……そっか」

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「わからない。でも、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい」

「…………」


 俯く悠一の頭に、そっと美翅の手が触れた。

 びくりと身体を震わせ、美翅を見上げる悠一。

 美翅はいつものように「えへへ」と言って、白い歯を見せて笑った。


 そこで、厚い雲が覆い隠していた月が顕になる。

 おおよそ三十八万光年の遥か彼方より、太陽光を反射させて届く月影が美翅の顔を、全身を際立たせる。


 艶やかな黒髪がきらきらと煌めき――。

 ブラウントパーズの瞳が輝く。


 そして、また、にこりと笑った。


「わたしに任せて」


 立ち上がり、徐に美翅は眼前に横たわったまま微動すらしない遺体に近寄った。


「何を、するの?」


 美翅はおよそ彼女の身の丈程はあるんじゃないかと思える程太い男の腕を手に取って――指先から口に入れた。


「……あ」


 むしゃむしゃと。

 ばりばりと。


 およそ、食事をする風景であるとは到底思えない。


 貪る事だけに集中するかの如く……あるいは、骨すらも残してたまるものかという気概が伝わるような様相で、美翅は男の身体を文字通り――『喰らう』

 血の一滴すらも残さないという貪欲さが垣間見えた。


「あ、み、美翅……」


 悠一の声に動きを止めた美翅は、振り返り、またにこりと笑った。

 頬にべっとりと付着した血液。

 白い歯は赤く染まり、彼女が息を吐くと、つんとした鉄の匂いが悠一の鼻腔を刺激した。


「もうちょっとだから、待ってて」


 それから小一時間もしない内に――。

 あったはずの父の身体は、何処かへと消失してしまっていた。

 汚れた口元を手の甲で拭いながら、美翅は「さて、と」と、これまでの彼女からは感じる事もなかったような、達観した口調で言った。


「後は、地面を洗い流そうか」


 悠一はただ、その言葉に小さく頷くだけだった。


   ***


 悠一の父は蒸発したということになった。


 まともな仕事についていたとはいえ、彼には賭博癖があり、借金こそないものの貯金は殆ど存在していなかった。

 加えて、毎日のように我が子に対して行っていた虐待行為は周知されており、姿を晦ました事について不審がる者は多くなかった。


 悠一の生活は慌ただしかった。

 役人を名乗る人が多く訪れ、悠一の今後について話し合った。


 親戚の中で、谷村悠一を引き取ろうと考える人間はいない。


 昨今の増加する失踪者により、天涯孤独の身となった子どもたちは悠一の他にも多く、児童養護施設は許容人数を超過しているところが殆ど。

 親戚がいるのなら、是が非でも引き取ってもらいたいという国の意向があった為か、話は長期間に及び、


「経済的な援助は行う。家賃も生活費も全て賄う。だから、今の家に一人で暮らしてもらうことはできないか?」


 親戚の一人が、役人にそう打診した。

 まかり通るはずもない暴論だったが、当の悠一がこの案に強く賛成し……結果として、月に数回役所の人と面会をするという約束の元、小学生による一人暮らしが開始された。


 悠一が美翅を自宅に招き、共に暮らし始めたのは騒動から三ヶ月以上経過してからだった。

 二人が互いに「そうしよう」と示し合わせたことはない。


 ただ、悠一が美翅に懇願したのだ。

 最初こそ渋った様子を見せていた美翅であったが、最終的に首を縦に振り、「しょうがないなぁ」と添えて共同生活がスタートした。


   ***


 悠一にとって、それは夢のような日々だった。

 楽しい以外の感情はなく、次第に性格も明るくなっていった彼は学校に通っていても孤独を感じることが少なくなっていった。


 悠一はすでに、美翅が「どういう存在であるのか」知らないわけがなかった。

 知っていて、気付かない振りをずっと続けたのだ。

 彼女にだったら、例えどんなことをされても――最悪、食べられてしまっても良い。


 ――本気でそう思っていた。


   ***


 ある日のことだった。


 その日は悠一の食事当番で、彼はここのところ得意料理であると謳っていた寄せ鍋の調理に没頭していた。

 白菜を小分けに切ろうとして……包丁で指を軽く切る。


「いたっ」


 思いの外深く切ってしまったのか、血は中々止まってくれなかった。

 リビングで落ち着いていた美翅も気づいたらしく、慌てて台所へやってきた。


「大丈夫っ?」


 咄嗟の判断だったのか、美翅は血を流す指先を自分の口に含んだ。


「み、美翅っ」

「だめ、」


 恥ずかしくなって指を離そうとしたけれど、美翅は頑なに指先を咥えたままだった。

 それから数分――悠一は美翅の異変に気がついた。


「……美翅?」

「…………」


 美翅は黙ったまま、「吸い付いていた」

 垂れ流しされる悠一の血液を貪っていた。


「美翅!」

「っ、あ、え?」


 悠一の強い語気に、意識を覚醒させたらしい美翅は、指先を唇から離して愕然と自らの手のひらを見つめた。


「わた、わた、わたし……」

「…………」


 悠一は、ただ黙ってそんな美翅を見つめていた。

 どういう言葉を投げかければ良いのか、正解がわからなかった。


   ***


【擬態種】が生きていく上で必要な栄養素に、人間からしか摂取ができない物質は存在しない。


 ならば、なぜ彼らは人間を喰らうのか。

 一説によれば、それは快楽を求める為であるらしい。


【擬態種】は一度人間の味を覚えてしまうと、忘れられなくなる。そして、渇望する。

 その様相はまるで、自慰行為を覚えたばかりの青少年のようで、やみくもに、快楽中枢を刺激する為だけに行われる。


 もし、食人を覚えた【擬態種】がそれを行わなくなったら?


 専門用語で【飢餓状態】と呼ばれる症状を発病し、およそ合理的な思考回路が欠落してしまう。そして、彼らが取る行動はその全てが野生に転化する。


 人間が【ヒトガタ】の行動を徹底的に管理する背景には、一滴であっても人の血を舐めさせてはならないという、確固たる根拠に基づいたものがあるのだ。


 黒枝美翅にとって、悠一の父を喰らった事こそが、【飢餓状態】を引き起こすきっかけ。


 抑圧されていた捕食願望は、悠一の父を食することによってあっさりと崩壊。

 彼女の無意識は、今か今かとその時を待ちわびていたのだから。

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