第五章

スワロウテイル - ①

 谷村悠一と黒枝美翅の関係は、一言で表すには難しい。


 複雑怪奇に絡まった歴史を解き明かしていくのに要する時間は、現実に過ぎ去っていった時計の秒針が刻むリズムよりも、ずっとずっと長い距離が必要だ。


 ただ――二人の出会いという側面に関してだけは、たった一場面を語るだけで事足りる。


 それは悠一の年齢がまだ、二桁に届いてなかった頃の話。

 少女は、少年の前に降り立った。


   ***


 夕方に訪れる公園のブランコは、悠一にとって世界で一番何もない場所だった。

 自宅であるアパートから歩いて二分とない場所にある小さな箱庭。

 寂れた小さなベンチと、ブランコが二つ。それと、大きな蜜柑の木。


 夕方にもなれば、他の誰だって居ない。


 一人ブランコに座った悠一は、軽い浮遊感と、キィキィと鳴る金属音に心を委ねていた。


「…………」

「何をしているの?」


 少女が悠一の前に現れたのは、変哲のない夕暮れ。

 何一つこれまでの日常と乖離した部分のない、冬の日だった。


「ブランコ」

「楽しい?」

「……別に」

「そうなんだ」


 少女は悠一が漕ぐ遊具の隣にあった、もう一つのブランコに腰を降ろし、見よう見まねに動かした。


 錆びた金属の擦れる音が二重に増える。


「……楽しい?」


 ブランコを止めた悠一が少女に聞くと、少女もまた漕ぐのを止め、顎に人差し指を持っていって何かを考える素振りを見せた。

 それから、白い前歯を見せつけるようににこりと笑い、「うん」と爽やかに答えた。


「……そっか」


 簡素に答えた悠一の声はどこか弾んでいて、遊具の奏でる甲高い音も調和の取れた、心地よい音色に変貌していた。


「キミの名前は?」

「悠一」

「そっか。じゃあ、悠一くんだ。えへへ」

「うん」

「わたしの名前は、美翅」

「そうなんだ」

「そうなんです。えへへ」


 美翅はよく話す子だった。


 端から見ればそっけない返事に終始しているようにしか見えない悠一に、美翅はひたすらに言葉を投げ続けていた。

 そうしていると、悠一も影響されてか、相槌以外の言葉も吐き出すようになった。


 気づけば二人で居る時、笑うか話すか、ただどちらかに終始していた。


 そんな関係が、悠一にとってはたまらなく居心地の良い空間を作っていた。

 美翅の自分語りを聞けば聞くほどに、悠一は「変わった子」だと考え始めた。

 年齢はどう見たって悠一と同世代か、それよりも下くらいに見えるのに、小学校には通っていないと言った。


 美翅の住まいは「この街」らしい。

 何でも、固定した住居には住んでおらず、この公園で一夜を過ごすことが多いのだとか。


「ご飯はどうしているの?」

「商店街を歩いていると、おじさんとかおばさんが、残り物だからって、色々分けてくれるの。分けてくれない日もあるから、いっつもお腹は空いてます」

「……そうなんだ」


   ***


 明くる日の夕方、公園で落ち合った二人。

 悠一はランドセルの中から、ジップロックに封入された菓子パンを取り出して、美翅に手渡した。


「はい」

「これは?」

「僕の朝ごはん。僕、朝はあまりご飯、食べられないから……あげる」


 嘘ではなかった。


 谷村悠一の朝は、テーブルの上に鎮座された菓子パンを見つけることから始まる。辛うじて残っていた親心がそうさせているらしいが、食べ残しがあったり、包装を開封していなかったりすることがあれば、父には容赦なく殴られていた。


『俺の飯は食べられないってかっ! てめぇ、何様のつもりだっ!』


 父の怒号を思い出し、右頬に触れた悠一は俯いた。


 最近はずっと、開封だけしてランドセルにパンを詰め、通学中に捨てていた。

 悪いことをしているという自覚から、罪悪感に苛まれることもしばしばあった。


「えへへ、ありがとう。美味しいね」


 だから、こうして捨てることもせず、誰かを笑顔にすることが出来るのであれば、悠一が毎日その行為を続けるようになるのに不思議なことなど何一つなかった。


 悠一には母がいなかった。


 気づいた時には父と二人で暮らしており、どうしていないのかだとか、そんな疑問の種が植えられることもないまま成長した。

 学校に通い始め、少しずつ自らの境遇が周りと少し違う事を自覚し始めた悠一であったが、間違っても父に聞こうだなんて考えは生まれなかった。


 そんなことをしようものならば、必ず殴られる。

 それくらいの未来予知は、とっくに出来るようになっていた。


 ――口を開けば殴られた。

 ――黙っていれば蹴り飛ばされた。

 ――言うことを聞けば怒鳴られた。

 ――言われたことを間違えたのなら水に顔を埋められた。


 家にいるのが辛いからと言って、ならば学校にいる間は辛くないのかと問われれば、そんなわけもなかった。


 とかく、子どもとは感受性が豊かな生き物だ。

 本能が理性に勝ることが常で、そんな子どもたちが自らよりも「弱い存在」と定義付けた相手を攻撃するのはしごくまっとうな話。


 クラスメイトの全員がそうではなかった。

 それでも、見て見ぬふりを続ける全員がそうであるとも考えられた。

 少なくとも家にも、学校にも……この街には、悠一の居場所なんてあるわけがなかった。


「はいこれ」

「これは?」

「美味しいよ」


 ――夏。


 美翅が手渡してきたのはオレンジ色をした果物だった。

 公園の端にそびえる、蜜柑の木になっている果実。


「食べられるの?」

「もちろん。わたしは毎日食べてるよ」


 皮を剥き、美翅は美味しそうに果実を頬張った。

 悠一もその姿を見ていると無性に齧りつきたくなって、同じような動作で果実を口に含んだ。


「……すっぱいね」

「うん」

「でも美味しい」

「うんっ」


 美翅は悠一の適当な相槌にも笑顔を返してくれた。

 オチのないつまらない話も笑って聞いてくれた。


 出会って半年も経った頃には、他にない特別な存在として、悠一の中では確立していた。

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