第四章

飢餓状態 - ①

 悠一が廃ビルの外へ出た頃には、とっくに日付を跨いでいた。


「……ああ。死体と現場の事後処理はそっちで頼む。ああ? もっと大人しく出来ないのかって、てめぇらは現場のことを知ってからそういう口を叩きやがれ」


 夏樹は先程からずっと、インカム越しにどこかと通話していた。


「何度も言うが、【擬態種(ミメシス)】と相対して、一報入れる隙なんてありゃしねぇ。こちとら、命かけて戦ってるんだ。もう切るぞ」

『待て――』


 電話口から、やや大きめの女性の声が聞こえたが、夏樹は構わずに通話を切った。


「いいんですか?」


 悠一が聞くと、夏樹は「いいんだよ」と、へらへら笑う。


「【管制(オペレータ)】の野郎どもは、いつも無理難題を押し付ける。あいつらは実際に戦わねぇから、好き勝手言えるんだ」

「…………」


 悠一とて、夏樹の言うことには理があると感じた。

 先程の凄まじい戦いを経験すれば分かる。

 それがどれだけ人知を超越したものであるか……疑いようもない。

 とはいえ、口に出して同意はしない。

 ここで立ち話を長くする暇など、悠一にはなかった。


「――それじゃあ、僕は帰ります。明日も学校なんで……」


 それだけ言って、悠一は夏樹に背を向けた。


「――待てよ」


 そんな悠一を、夏樹はその一言でこの場に繋ぎ止めた。


「……まだ、何か?」

「いや、一つ、聞いておきたいことが出来てな」


 悠一が軽く振り返ると、夏樹は、それまで悠一には見せたことのなかった険しい顔つきをしていた。

 それはまるで――【擬態種】と戦う直前に見せた時のような、そんな顔だ。


「『それ』は、お前の意思か?」

「……言っている意味が、よく、分からないです」

「大事なことなんだよ。お前の自意識がそうしているのか、無意識がそうさせているのか……どっちだ」

「…………」


 悠一は数秒、瞼を落として考え込む素振りを見せた。

 それから目を見開き、視線を合わせて、口を開く。


「質問の意図が、わかりません」


 一瞬の静寂。

 夏樹は息を吐いて、小さく言った。


「……そうか」

「もう、いいですか?」


 悠一は背を向けて、今度こそ帰路についた。

 夏樹が今だその場所に立ち止まっているままであることを察しながら、足早に、廃ビルから離れて我が家へ向かう。


「――忠告をしておく」


 背中越しに聞こえた声は遠く、彼方から悠一の耳に届いた。


「ばれるわけがない……なんてことは、決してありえないんだ」

「っ、」


 慌てて振り返った先には、誰もいない。

 悠一の竹刀袋を握る手に、強い力が籠る。

『それ』を放り込んだ袋の隅には、赤黒い汚れが……まるで醤油をこぼした白いシャツのように、強く主張していた。


「……よしっ」


 自宅に到着した悠一は、大事に抱えた竹刀袋をちらりとだけ見て、ポケットから鍵を取り出し、扉に差し込む。


「……あれ?」


 ――おかしい。

 鍵は反時計に回る事なく、ノブを捻ってみると、簡単にドアが開いた。


「鍵、閉めなかったか?」


 悠一が玄関に入ると、廊下の奥から漏れてくる灯りが目に突き刺さる。

 玄関にあるスイッチを手探りで探し、廊下の蛍光灯を点けた。


 点灯管の寿命が近いのか、チカチカと何度か瞬き、LEDならではの薄暗い蛍光灯が点く。


「…………」


 ――何かがおかしい。


 悠一は胸元に手を押し当てて、廊下を進んだ。

 リビングには、電気が点いたまま。


 その奥――襖の先にある和室は、美翅にあてがった寝室。


「……美翅? カイリ?」


 襖をゆっくりと開く。

 暗闇が支配するその部屋には果たして、布団の脇で転がって眠るカイリがいて……他に、誰の影もなかった。

 体調を崩した美翅が寝ていたはずの布団は、これ見よがしに跳ね除けられ、もぬけの殻。


「お、おい、カイリ」


 悠一はその場でしゃがみ込み、眠るカイリの肩に手をのせて揺すった。


「……ん?」

「美翅は、美翅は……何処に?」


 カイリは半身を起こして、ぐるりと部屋の中を見回した。

 それから無造作に捲られた掛け布団に視線をやって――呟く。


「……あ、れ?」

「――っ」


 悠一は慌てて立ち上がり、竹刀袋を思い切り捕まえて、玄関に向かって走った。


「ゆ、ゆういちっ?」


 背後から聞こえてくるカイリの声に答える余裕など、悠一の心にはなかった。


「まだっ、間に合うはずなんだっ!」


 靴を履き、アパートの階段を下り、静まり返った街の中を奔走した。

 行く宛に覚えなどあるわけがなかった。

 それでも、探さないなどという選択肢は生まれるはずもなかった。


 ――アパートの駐車場。

 ――近所の公園。

 ――商店街を超えて、悠一の通う高校、そして駅。


 思い当たる全ての箇所を巡る。

 歩いて行ける距離には限りがある。

 徒歩でさ迷える圏内に、必ず、いるはずだ。


 何処かに、必ず。


「美翅っ!」


 ――今日は、色々な事があった。


 全速力で駆け抜けながら、不意に、悠一はそんなことを考えていた。

 もうへとへとだ。

 脚もがくがく。

 布団で横になりたい。

 そうだとしても、あの家に、美翅がいなければ意味がない。


「何処にいるんだ! 美翅!」


 眠りについた街の中で、悠一の声が遠く、響き渡った。

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