(6)

「えーっ……」


 わたしはひとり自室の天井に向かって息を吐いた。


 呼気は熱い。体も熱い。抑制剤を飲んでもこの熱さはどうにもならないらしい。


 しかし性欲はどこかへ吹っ飛んでいた。


 その証拠とでも言うように、ひとりきりの自分の部屋、ベッドに寝っ転がっていても、自慰行為などをする気はまったく湧かない。


 ぐるぐるとわたしは全身で考える。それこそ足の先から頭のてっぺんまで、学校で放たれた京吾の言葉で満たして。


 ――「『運命のつがい』がいるんだし。かえちゃんには、今は手を出す気はないよ」


「えーっ……」


 わたしはもう一度、なんで? とか、どうして? といった気持ちを吐露するように、天井に向かって音を吐き出す。


 なぜ京吾はあんなことを言ったんだろう? その疑問でわたしの頭はいっぱいだった。あれほど脳裏を占めていた性欲がどこかへ飛んで行ってしまうほど、わたしはぐるぐると考える。


 わたしと京吾が肉体関係を持つかどうかに、なぜわたしの「運命のつがい」が関わってくるのだ?


 ……そう疑問を呈したものの、答えはわかっている。なにせ、わたしと京吾は生まれる前からいっしょにいる幼馴染なのだ。彼の考えを推察することなど、わたしにとっては朝飯前である。


 京吾のことだ。仮に、仮にわたしが「運命のつがい」を選んだときに、すでに――古くさい言い方をすると――キズモノであった場合、いろいろと不都合が生じると考えたに違いない。


 そういうわたしからすると意味不明な考えの末が、「今は手を出す気はない」というセリフにつながったのだ。


 しかし、「えーっ」である。わたしからすると「えーっ」なのである。


 今すぐケモノのごとく手を出されたって文句はないくらい、わたしは京吾のことが好きなのだ。


 けれども、京吾にはそのことは伝わっていないのかもしれない。


 あるいは、十二分に伝わっているけれど、わたしがまた「運命のつがい」と顔を合わせたら気が変わるとでも思ったのかもしれない。


 ……それは心外である。とても心外である。


 たかだか「運命」に出会った程度でわたしの気持ちは変わらない……ハズ。いや、たぶん。きっと。


 言い切れないのは、わたしが「運命のつがい」に関する情報をすべて忘却してしまっているからだ。


 ……もし、会った瞬間に「運命」のほうを好きになっちゃったら?


 あんまり想像できないが、その可能性は捨てきれない。そうでなきゃ「運命」なんてロマンティックで壮大な名称を与えられるわけがないだろう。


「オメガバース」でも悲劇の例としてよく出てくるし……。


「運命のつがい」がいるのなら、そのひとと結ばれるべきなのだろうか?


 否、違う。クサい言い方をすれば、運命とは自らの手で切り拓き、作るものである!


 わたしは、京吾が好きだ。


 ものすごーく好きだ。


 地球を一周しても足りないくらいの距離に腕を伸ばせるくらい、好きだ。


 なら、その好きをつらぬけばいい。


 ……なんだ、単純な話じゃないか。


「運命のつがい」がいる? そんなの知ったこっちゃない。わたしは京吾が好きなんだ。


 それはきっと、いや絶対、「運命」と会ったって変わらない、たったひとつの気持ちのはずだ。


 けれども京吾はそんなわたしを信じられないのかもしれない。


 いや、わたしを信じてはいても、オメガ性の本能が彼に引っかかりを与えているのかもしれない。


 なら、証明すればいい。


 わたしは突然やってきた「運命」を選ばない。


 京吾といっしょにいる。その「運命」を選んだってことを、京吾にわからせてやればいい。


 そのためにわたしがするべきことは、ひとつ!



 *



「……あー、高上さん?」


 わたしはスマートフォンをつかむ手が、異様にぬるぬるしているような気がした。


 スマートフォンのスピーカーから聞こえてきたのは、聞き覚えのない男性の声。


 今、わたしからは見えないものの、スマートフォンのディスプレイにはこう表示されているはずだ。


『山下辰巳』。……わたしの、「運命のつがい」――らしい、男の名。


「た、高上楓です。覚えてらっしゃいますか?」


 少々上ずった声を発しつつ、自分はさっぱり覚えていないくせしてそんなことを言う。


 通話相手の山下さんは、「あー、ハイハイ」と、どこか軽薄さを感じさせる声で応対する。


 その声音から薄っすらと感じる軽さに、わたしは内心でイヤな汗をかいた。


 ……山下さんがチャラ男だったらどうしよう。わたしが一番苦手とするタイプじゃないか。


 しかし、わたしはこの「運命」だろう山下さんと決着をつけなければならないのだ。


 そうしなければ、わたしは京吾とこの先を進んで行けない。別に、冷静に考えればそんなことはないんだろうが、このときのわたしはそう強く思い込んでいた。


「どうしました?」

「あの、また? 会えないでしょうか……?」

「……そうですね。俺ももう一度会ったほうがいいと思っていたところです。『つがい』について、これからのことを話しておいたほうがいいでしょう」


 やっぱりこの山下さんはわたしの「運命」らしい。


 違うかもしれないという可能性も半分くらいは考えていたが、どうやらそれはハズレたようである。


「それでは来週の日曜日はどうでしょう?」


 山下さんの提案に、わたしはまたイヤな汗をかいた。


 ……その日は京吾が出演するチャリティーコンサートが行われる。もちろんわたしは行く気満々で、チケットも――記憶を失う前のわたしが――取っている。


 わたしはどうしようか迷った。京吾との時間を選ぶか、山下さんとの決着を選ぶか。


 そしてわたしはその小さな脳みそをフル回転させて――後者を選んだ。


「――それでは午前一〇時に。いいですか?」

「はい。だいじょうぶです」


 カフェテリアの名前とその最寄駅を告げて、山下さんは「切りますね」というひとことを置き、わりとすぐに通話を切った。


 なんとなくその冷静すぎる態度から、山下さんはわたしのことをあまり良く思っていないのかもしれない、という被害妄想を抱く。


 ……自意識過剰だ。考えても仕方がない。むしろ、わたしに対して冷たいほうがなにかと都合が良い。


 これで食い気味に愛の言葉でもささやいてきたりしていたら、泥沼は必至である。来週の日曜日は修羅場確定だ。


 山下さんが本能に流されていないらしい、冷静そうな人間で良かった。そう思おうではないか。


「――え? 山下さんに電話したの?」

「うん」


 そしてわたしはそのことを逐一京吾に報告した。


 いや、ほら、よくあるじゃないですか? やむにやまれぬ事情とかがあって、好きなひとに黙って事態を収拾しようとした結果、誤解を与えて仲がこじれてしまうっていう展開!


「オメガバース」に限らず、恋愛が絡む話では鉄板だと思ったんですよ! それがわたしたちにも適用されるかどうかは置いておいて!


 実際に恋人ではない男性とふたりっきり――たぶん――で会おうとしているのだ。不貞の疑いをかけられないためにも、恋人には事前連絡をしておくのがスジだろうとわたしは考えたのである。


 京吾はわたしの話を聞いて、「うーん……」とうなり、考え込んでしまった。


「ねえ、それおじさんかおばさんについて行ってもらうことはできないの?」

「えーっ。おおげさだなあ~」

「おおげさじゃないよ。相手は男なんだよ? インドアオタクのかえちゃんじゃ、なにかあったときに腕力で絶対に勝てない相手なんだよ?」

「まあわたしがモヤシなのは認めるけど……。お父さんとお母さんにはちょっと言えないかなー……」

「なんで?」

「来週の土日は久しぶりに夫婦水入らずで旅行に行くって、前々から楽しみにしてたからさ」

「いや、でも、『運命のつがい』と会うことはちゃんと伝えたほうがいいよ」

「それは、まあ……京吾がそこまで言うなら言うけど……」


 正直わたしは内心でメンドクセーと思っていた。


 親に対して秘密を持っていたい。そんな思春期のお年ごろなのである。


 両親のことは嫌いではないが、稚拙な自立心が芽生え始めているのか、距離を置きたい。そういう心境なのである。


「たぶんなにもないよ」

「そんな安易な」

「山下さんが指定したカフェテリア、ググってみたけどテラス席あったし、駅から近くて大通りに面してるみたいだしで、だいじょうぶだよ! なにもないって!」

「……どうだか」


 わたしがあれこれと手を尽くして説得しても、最後まで京吾は山下さんに対して頑なに懐疑的であった。


 最後には


「なにかあったらすぐ警察に電話するんだよ。スマホはすぐに電話がかけられるようにしておいて」


 と何度も念を押すくらいだった。


 それでもわたしは軽く考えていたし、心配されるなんてわたしって愛されてる♪ とか脳内で花を咲かせていた。


 ……結論から言ってしまうと、京吾が懸念するのも仕方ないなと思えるほど、「運命」というのはあらがいがたい誘引力を持っていた。


 まあ、それに流されるようなわたしではなかったが。


 ……いや、ちょっと盛った。


 ちょっとこれはヤバいなと思いました。


 運命ヤバイ。


 日曜日に、そんな聞くひとが聞けば当たり前すぎることを、わたしは思い知ったのであった。

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