第42話 休息09

 足早に去って行った彼の後ろ姿が見えなくなると、見計らったように大きなため息が聞こえてきた。そのため息の主をゆっくりと振り返れば、その主は目を細め指先で俺を呼び寄せる。そしてその仕草に俺の中では不安とか焦燥とかではなく、ついに来たかという諦めの気分が胸に広がった。


「いま俺が言いたいこと、わかるよな?」


「まあ、大体は」


 先ほどまで発していたのんびりとした声音とは違うその声に、ほんの少し背筋が伸びる思いがした。


「だよな。俺さ、お前のことすげぇ見覚えあるんだけど」


「そうですね、自分もです」


 短くなった煙草を携帯灰皿でもみ消し、目の前で眉をひそめるこの人を――九条明良を俺は知っている。それは自分だけではなく、お互いに顔を合わせた瞬間その事実に気がついた。ただ、再会を喜ぶような知り合いではないのは確かで、なんとも言えない気まずさが真っ先に胸の内に広がった。

 それは叶うならば、なにも見なかったことにして立ち去りたいくらいの、そんな複雑な気分だった。


「お前、ユウだよな」


「ですね」


 しばらく呼ばれていなかった自分の通り名を聞くと、無意識に眉間にしわが寄った。


「優哉だからユウ、か」


 そして俺を指差した明良の眉間にもまた、同じくしわが寄る。


「あの時から若い気はしてたけど、あそこ出入りしてた時いくつよ。っていうか、お前いまいくつだ。最後に会ったのは二年前だったか? でも顔を出し始めたのってもっと前だよな」


「いまは十七です。明良と最後に会ったのは多分十五くらいだったと思う。あそこに顔を出してたのは二年ちょっとくらい」


 中学二年から高校一年の半ばくらいまであのBARに出入りをしていた。ただ最後に明良に会った日まではさすがにあまり覚えていない。


「馬鹿、若過ぎだっつうの! いくら若くても十八、九かと思ってたのによ。いまが高校生? 十七歳ってどういうことよ」


 再び煙草をくわえた明良に肩をすくめれば、ひどく苦い顔をされた。けれど自分も同じような顔をしているのは、間違いない。

 こんなところで以前の自分を知っている人間には会いたくなかった。


「俺も相当遊んでるから人のこと言えねぇし、あんまとやかく言いたくないけどな。佐樹は俺にとって大事な親友なわけ……いまは?」


「まったくないです」


 高校に入ってあの人と顔を合わせるようになってから、後ろめたさが強くなってもう二度と行かないと決めた。


「そ、ならいい……まだ遊んでたら間違いなく俺はお前ボコらなきゃなんねぇからな」


 カチリと音を立てたライターに火が付いて、目の前で紫煙がゆらりと揺れる。その向こうに見えるのは言葉にならないという表情だ。


「俺達と同じ店に出入りしてたことはあいつに言わねぇけど、そのうちバレるからな。そん時は自分で言えよ……つうか、渉のやつ気づけよな」


 舌打ちして苛々と髪をかき乱す明良の仕草に思わずため息が漏れた。

 ――月島渉、彼のことも実は見知っていた。

 あずみが持ってきた写真展の案内状に書かれた名前ですぐに気づいた。あの日、顔を見てさらにはっきりと思い出したが、向こうはまったくこちらに気づいた様子がなかったので、ある意味、彼の記憶力のなさをありがたいとさえ思っていた。

 BAR Rabbitに顔を出していた頃の知り合いなど、いま現れてもらってもなにもいいことはない。ましてやあの人がそれを知って楽しいことなど、間違いなく一つもない。以前といまの自分ではあまりにも違い過ぎる。


「まあ、お前だいぶ雰囲気が変わったしな、あいつ馬鹿だから気づかないかもな。眼鏡なんてもんはしてなかったし、もうちょい髪も長かったし。つうか、顔付きが全然違う」


 明良の苦笑いに入学直前を思い出した。

 高校デビューはよく聞くが、マイナーチェンジにもほどがあると、あずみにひどく呆れられた。しかし当時はあの人の目に触れないよう、目立たず三年間ただ近くにいられればいいと思っていたので、さして気にはしていなかった。けれどいまと以前ではそんなに見た目が違うものだろうか。


「特に佐樹といる時はかなり顕著だぜ。お前って笑えんだな。あん時は氷像が動いてんのかと思うくらいひどかったのによ」


「……どんな例えですか」


 急に声を上げて笑い出した明良に目を細めると、その顔だよ、とさらに笑い飛ばされる。確かにあの当時は感情表現が豊かだったかと聞かれれば否と言えるが、そこまでひどいとは思っていなかった。


「頭の悪そうな彼氏と別れてから来なくなったよな」


「そういう記憶は消去してもらっていいですか」


 あの人にこうして出会う前の自分の過去は、正直抹消してもいいくらいになかったことにしたい。あまり彼には知られたくないことばかりだ。困惑したまま明良を見返すと、ゆるりと口角が持ち上がり、彼の中で気持ちの整理がついたのがわかる。こちらを見る視線から険が削がれた。


「お前を見た時の俺の動揺を思い知れ。どう誤魔化すか、めちゃくちゃ焦ったんだぜ」


「それはお互い様です」


 目を細めた明良にため息交じりで肩をすくめる。

 このリビングに足を踏み入れた瞬間、目に留まったのは明良の姿だった。そして彼は人の顔を見るなり目を見開き、不自然なほど固まった。


「それにしても、佐樹の彼氏がよりによってユウかよ。世の中狭いな」


「ですね」


 まさか想い人の親友が、振り返ることもない過去の登場人物だとは夢にも思わない。

 明良とは顔を合わせれば挨拶を交わし話す程度の知り合いではあったが、あの小さな空間の中では大抵の客は片手ほど会えば顔が知れた。ただし明良の場合は、店でも一際派手な素行だったので、一度会うだけで十分かもしれなかったが。


「しかもあいつはお前にベタ惚れだしな。みのりの時よりもマジだな佐樹のやつ」


「みのり?」


「あ、ああ……佐樹の、最期の彼女」


 聞き覚えのない名前に首を傾げると、明良は一瞬顔を強ばらせた。そしてほんの少し口ごもりながら首の後ろを掻くような仕草をする。あまり俺には言いたくないことだったのかもしれない。ほんの少し後悔したような表情が浮かんでいた。


「あとで気づいてショックを受けられても困るから、先に言っとくけどな。いまのお前……みのりに少し雰囲気が似てるよ」


 ふいに視線をそらして煙を吐き出した明良の仕草に、胸の辺りにズキズキとした痛みをともない息が詰まる。あの人の最期の彼女というだけでも胸がざわめくと言うのに、なんだかトドメを刺されたような気分になった。

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