第四十三節:束の間の憩い

 

 微かな水のせせらぎが聞こえる。

 空には僅かな星が瞬き、世界はほんの薄明かりのヴェールに包まれていた。

 その中、クロエは穏やかな川の流れに半身を浸す。

 

 「……ふぅ」

 

 細く、美しく均整の取れた身体には、今は何も纏わず。

 昼間の戦いや、此処まで来るのに付いた埃を洗い流していた。

 水は少々冷たいが、それもまた心地良い。

 野営した場所の近くに、綺麗な小川が流れていたのは幸いだった。

 戦塵に塗れたままである事に文句はないが、それでも不快である事は間違いない。

 男二人と、面倒がったルージュ辺りは汲んで来た水で身体を拭うだけにしていたが。

 この機会を逃せば、水で直接身体を洗えるのは何時になるかも分からない。

 その為クロエは、夜中に一人水浴びをしていた。

 

 「……街に戻ったら、出来ればお湯を使いたいわね」

 

 以前訪れた街で入った、温泉の事が脳裏を過る。

 あの温かな湯舟に身を浸すのは、なかなか耐え難い快感であった。

 天然の温泉とは行かないが、大きな街なら湯屋の一つもある。

 事が済んだら、其処で少し散財するのも良いかもしれない。

 

 「…………」

 

 そんな事を考えながら、腕を水で洗い流していると。

 カサリ、と。微かに草を踏む音が響いた。

 クロエはそちらに視線を向け、反射的に手元に魔剣を呼び出しかけたが。

 

 「……クウェル?」

 「あ、いや、すまない。驚かせるつもりはなかったんだが」

 

 木々の隙間から姿を見せたのはクウェルだった。

 鎧は身に付けておらず、鎧下の軽装と腰に剣を下げているだけの恰好だ。

 彼女は少し周囲の様子を伺いつつ、遠慮がちに川の傍まで近づいて。

 

 「少々、眠れなくてな。気付くと、汗や埃も大分不快に思えてしまって……」

 「……なら、貴女も少し身体を流していく?」

 「あぁ、お邪魔でなければだが」

 

 構わないわ、と頷けば、クウェルは遠慮がちに笑ってみせた。

 それから少し木の陰に入って、身に付けていた物を一度その場に外していく。

 

 「……なかなか、経験がないものだから、少しドキドキするな。森で水浴びというのは」

 

 ちょっと気恥ずかしそうに言いながら、クウェルは小川に足を踏み入れた。

 胸元に小さな飾りを下げている以外に何も纏わぬその姿は、やはり古妖精らしく美しく整っている。

 特に細すぎず、さりとて大き過ぎぬ胸などは。

 普段は鎧に抑えられて分かり辛いが、クウェルもまた相当なスタイルの持ち主だった。

 

 「? どうした?」

 「いえ、何でも」

 

 視線に気付き、首を傾げるクウェル。

 それに対し、なるべく感情を悟らせぬようクロエは平坦に返した。

 決して自分の平坦さに、劣等感を覚えているわけではないのだ。

 傍らにいる相手の内心など知らぬまま、クウェルは心地良さげに目を細める。

 冷たい水の流れが身体に触れる感触。

 それを楽しむように、クウェルは水の中で軽く手足を動かした。

 

 「……少し、意外ね」

 「何がだ?」

 「古妖精は、森で暮らしている事が多いと思っていたから。水浴び、初めてなのね?」

 

 素朴な疑問。

 何気なく問うと、クウェルは少し苦笑して。

 

 「私の家系は、魔王の守り人として森の中ではなく、人里に根を下ろしていたからな。

  魔剣の封印管理など、神殿の者の協力もなければ難しかった」

 「……英雄の末裔っていうのは、色々大変なのね」

 

 その苦労が具体的にどういったものかは分からないが。

 クロエの言葉に、やはりクウェルは笑いながら小さく首を横に振る。

 

 「それが当たり前で、苦だと思った事はない。言ってしまえば、墓の世話をするようなものだ。

  何も変わらず、その役目が当たり前に続くと思っていたが……」

 「……それが、この騒動だものね」

 「人よりも一生の長い妖精の身だが、よもや生きてる間に魔王復活なんて事態に立ち会うとはな」

 

 パシャリと、手のひらに掬った水で身体を流す。

 それは恐らく、叙事詩に語られる英雄達が遭遇したのと同等の「冒険」だ。

 異なるのは、自分達はそんな大それた英雄ではないという事。

 魔王カリュブディス。仮に挑んだとして、果たして其処に勝機はあるのだろうか。

 

 「……一つ、聞いても良いだろうか」

 「ええ、何かしら?」

 「君は、何故冒険者に? 見た所――その、複雑な事情があるように思えるが」

 

 そう問いかけつつも、言葉を選ぶクウェル。

 別段、聞かれる事そのものに不快は感じなかったが、如何に答えるべきかをクロエは悩んだ。

 確かに、自分の身の上に関しては複雑と言えば複雑なのだろう。

 多くの記憶を持たず、僅かな手がかりを手繰って恐るべき《帝都》へと向かう旅の途中。

 これについては問題ない。が、冒険者になった経緯と言うと。

 

 「…………ガルについては、聞いてるかしら?」

 「? 聞いている、というと」

 「その……彼が、私に。お嫁さんになって欲しい、って」

 「あっ、あー……あぁ、簡単にだが、ビッケ達からそう聞いたな。ウン」

 

 恥じらうように頬を染めるクロエに、釣られてクウェルの方も赤くなってしまう。

 一瞬漂う微妙な空気。それを払うように、クロエはコホンと一つ咳をして。

 

 「冒険者になった切欠は、それだけ。一人で旅をしていたところ、彼に出会って、それで誘われて」

 「な、成る程」

 「……私が、《帝都》を目指してるのを分かってて、付き合ってくれるんだから。

  ガルもそうだけど、皆とんでもない物好きよ」

 

 《帝都》という単語が何を意味するのか。

 クウェルも知らぬはずはなく、先ほどとは一転して硬い表情を見せた。

 気にせず、クロエは木々の隙間から覗く夜空を見上げて。

 

 「彼ら……というか、冒険者っていうのは、基本そういうものなのかしらね。

  私の事も、今回の件も。危険と分かっていても、得る物があると確信すれば、躊躇わずに飛び込んでいく」

 「……私は、使命あっての事だ。正直、なかなか理解し難い感覚ではあるな」

 「私は最近、ようやく少し分かるようになったわ」

 

 微笑むクロエに対し、クウェルは返す言葉に迷った様子だった。

 細い尾が軽く揺らめいて、水面を小さく揺らす。

 

 「今回の事が終わったら、貴女はどうするの?」

 「……どうする、と言うと」

 「仮に復活した魔王を無事に退治出来たとして、それから? 貴女も、このまま旅を続けるのかと思って」

 「…………」

 

 このまま旅を続けるのか。

 その言葉に、クウェルは先ず沈黙を返した。

 クロエも何も言わず、静寂を埋めるように水の流れる音だけが響く。

 やがて。

 

 「……分からない」

 「てっきり、家の使命があるから駄目だと、即答されるかと思ったわ」

 「直ぐにそう言えなかった自分に、少し驚いている」

 

 苦笑。それから、クウェルは自分の胸元を手のひらで少し押さえて。

 

 「使命は大事だ、今さら投げ出すわけにはいかない。

  けれど、今回の事を通じて、私も思い悩むという事を知ってしまったらしい」

 「良い事だと思うわ」

 「良い事だと、そう信じて良いのかも、私には分からないんだ」

 

 そう言いながら、クウェルは小さく首を横に振る。

 その言葉に、どんな意味や感情が込められているのか。

 クロエには分からなかった。

 或いは、分かった振りをしてやる事ぐらいは出来たかもしれないが。

 

 「……別に、安易な答えが欲しいわけではないんでしょう?」

 

 囁く。意地の悪い物言いになっていないかだけが、少々心配だ。

 余り予想していない答えだったのか、意外そうな表情を見せるクウェルに、クロエは小さく肩を竦めて。

 

 「良い事だと思うわ。簡単に答えが出ないのなら、それだけ貴女は、自分の生き方に向き合っているんだから」

 「……そういうものかな」

 「そうよ。けど、あんまり一人で悩み過ぎるのも、時々馬鹿らしくなったりもするから」

 

 自分で言っておきながら、クロエは思わず笑ってしまった。

 過去すらまともに覚えていない身で、人の十倍は生きる古妖精に偉そうな事を言って良いものか。

 それもまた何とも分からない話だったが、クロエは難しく考えない事にした。

 自分に色々言った相手も、きっと深くは考えてないだろうと、そう思ったから。

 

 「好きに悩んで、迷って、それから誰かに頼れそうなら、頼って良いんじゃないかしら。

  貴女の交友関係は分からないけれど、少なくとも此処には、それを嫌がらない相手が何人かいると思うけど」

 「…………」

 

 再び、水の音だけが静寂を流れる。

 辺りは暗いが、暗視を持つ二人には互いの表情はハッキリと見えていた。

 驚き、呆気に取られたようなクウェルの表情も。

 言ってから、流石に恥ずかしかったかしらと頬を染めるクロエの表情も。

 お互いに、お互いの表情を見ていた。

 それから、どちらともなく笑い出してしまい。

 

 「……ごめんなさい、急にヘンな事を言っちゃって」

 「いや、ありがとう。驚いたのは確かだが、嬉しかったのも事実だ」

 

 恥じらうクロエに、クウェルは笑いながら首を振る。

 

 「告白すれば、交友関係なんて呼べる相手はロクにいなくてね。申し出は、本当にありがたいよ」

 「そう? ……まぁ、私も人の事はとても言えないんだけど」

 「なら、似た者同士と言うことか」

 

 その言葉に頷き合って、クロエもクウェルも笑った。

 復活した魔王に挑む前とは思えぬほど和やかに、ただの友人同士のように二人は笑っていた。

 どれぐらいの時間をそうしていただろうか。

 笑い付かれたように、クウェルの方が一つ息を吐いて。

 

 「……ありがとう。少し、気分も落ち着いた」

 「よく眠れそう?」

 「あぁ、少なくとも寝不足で足を引っ張るという事はないよ」

 

 クロエの言葉に頷き、クウェルはゆっくりと川の水から身を晒す。

 それから呪文を一つ唱えると、熱を発する魔法を使ってさっと身体を乾かした。

 

 「私はこのまま休むつもりだが」

 「私は、もう少しだけ涼んでいくわ」

 「そうか。余り身体を冷やし過ぎないようにな」

 

 おやすみ、と最後に言葉を交わす。

 服を置いた木の陰にクウェルが戻る時、ふとクロエの視線が小さな煌きを見る。

 先ほど話している時も、チラリと見えていた物。

 クウェルが胸元に下げていた、小さな銀細工の首飾り。

 ハッキリと見たわけではないが、何故かそれが目に付いて。

 

 「…………?」

 

 自分でもよく分からない違和感に、クロエは小さく首を傾げた。

 そうしている間に、着替えを済ませたクウェルが野営場所へと戻っていく音が聞こえる。

 ――水浴びをしている時も外さないのだから、それだけ大事な物だったのだろう。

 だから気になって目が付いたのだと、そうクロエは結論付ける。

 或いは英雄だった先祖縁の品か、場合によっては親の形見の類かもしれない。

 ならば単純な好奇心で突っ込むのは、余り良い事ではないだろう。

 

 「……よし」

 

 そう一人納得すると、遅れてクロエも小川から上がる。

 それから、クウェルが着替えた木陰とは別の、少し離れた木陰に移動し。

 

 「……見張り、ご苦労様」

 「うむ」

 

 其処で黙って座り込んでいる、大柄な影。

 見張り役をしていたガルに労いの言葉を掛けた。

 差し出された大き目な布を受け取り、クロエはそれで身体を拭う。

 小川に背を向けた状態で微動だにしないガルの姿に、小さく笑みを溢した。

 

 「ありがとう。おかげでサッパリしたから」

 「そうか。ならば良かった」

 「ええ。……手間賃は、何が良いかしら?」

 

 そっと、拭った布だけで身体を隠して。

 悪戯を仕掛けるように、その広い背中に身を寄せながらクロエは囁く。

 パタリと、ガルの尻尾が揺れる。

 少しの間を置いてから、答えは返ってきた。

 

 「アディリオンには、少々値は張るが大きな湯屋がある」

 「うん」

 「其処ならば、広い湯舟もあるそうだが」

 「……また、一緒に入りたい?」

 「うむ」

 

 ストレートな欲求に、クロエは思わず笑ってしまった。

 改めて気恥ずかしさが顔に上ってくるが、それをなるべく表には出さず。

 

 「良いけれど、一つだけ条件があるわ」

 「なんだ?」

 

 聞き返されて、少しだけ深呼吸。

 ほんの少しの間を置いてから、クロエは言葉を続けた。

 

 「……今度は、驚かせるような事はしないでね?」

 

 最初に湯を共にした時の醜態を思い出して、クロエはやはり赤くなってしまった。

 その表情は見ていないが、ガルにも十分それは伝わったようで。

 

 「同じミスは二度と犯すまい」

 「そうして貰えると、ありがたいわ」

 

 至極真面目に頷くガルに、クロエもまた笑いながら頷いた。

 これ以上身体を冷やさないよう、手早く服も身に付けていく。

 穏やかな夜の空気に、同じだけ時間も緩やかに過ぎていくように感じる。

 けれど、そんな時間もこれが最後だろう。

 クロエもガルも、休んでいる他の仲間達も理解していた。

 この夜が明ければ、また戦いが始まるのだと。

 

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