第二十九節:暗幕の裏側で笑う者
水都アディリアンから徒歩で5日ほどの距離。
かつては「死の山」と呼ばれ、今は呼ぶべき名を持たない荒れ山がある。
ろくに草木も生えない灰色の山肌を晒し、さながら野晒しの屍にも似たその地にて。
一つ、見る者を圧倒する存在があった。
「塔」だ。夜明け前に突如として現れた、一本の塔。
それは光を反射しない黒い石材で出来ているのだが、壁の何処にも継ぎ目がない。
石を積み上げたのではなく、まるで一つの巨大な岩塊から削り出したような。
そんなあり得ぬ塔の頂点。
明らかに外観よりも広大な空間に、その者は静かに座していた。
闇色のローブを身に纏い、鋼の玉座に君臨する死者の王。
死の大渦、摂理の反逆者、七柱の魔剣の王。
即ち、魔王カリュブディス。
遠い伝説の時代に葬られたはずの怪物は、その瞳無き眼で何もない虚空を見据えていた。
『……さて、そろそろ祭りとなってきたか』
囁く。骨と僅かにこびり付く肉片しかない身体で、どう声を出しているのか。
何にせよ生者のいない暗黒の淵で、カリュブディスは一人言葉を紡ぐ。
『此度は、どのような者がいるのやら。多くは有象無象であろうが』
笑う。愉快げに、同時に嘲るように。
嘲笑を向ける先は、他ならぬカリュブディス自身だった。
有象無象。魔剣の王であり墓土の主たる自分以外、等しく全てが有象無象である。
その考えは今も変わったわけではない。
しかしそう侮った者に、かつて敗北を刻まれた事も忘れてはいなかった。
屈辱と憤怒、そして憎悪。
肉体の蘇生は不完全であったが、魂に染みついた怨嗟は完全なものだ。
思い出す。あの七人の者達を。
思い出して、カリュブディスはクッと無い喉を鳴らして笑う。
『多くの有象無象の中に、果たして貴様らのような者はおるかどうか。
おらぬのであれば、今度は我が勝ってしまうぞ』
笑いながら、虚空を見る眼は遥か彼方の景色を捉えている。
魔王の復活を知らせる、稲妻の布告。
近くにある都市の大半に、カリュブディスは手当たり次第にばら撒いていた。
それに対する反応の数々を、距離を超越した魔王の眼が見下ろす。
多くの者は混乱し、雷で刻み付けられた文書の真偽を意味もなく議論し続けている。
中には誇張やデマなど、流言飛語を垂れ流して遊ぶ輩までいる始末。
『……愚かしさというのは、時代が変わってもそう変わらぬものか』
巣に水を流し込まれた蟻を見る気分で、カリュブディスは無感動に呟いた。
そう、多くの者は突然の嵐を前に、ただ意味もなく右往左往しているに過ぎない。
だが決して、それが人間の全てではなかった。
『ふん、動くか』
ほんの僅かだが、魔王の言葉に興味の色が乗る。
幾つかの街から、武装した小集団が出発した様子をカリュブディスは見た。
冒険者、という奴だろう。
カリュブディスが夜と黎明を支配していた時代にも、彼らはいた。
その支配を終わらせた七人の内、幾人かはやはり冒険者だった。
あえて危険を冒し、その先を切り開く為に進む者。
その冒険者の多くもまた、有象無象に過ぎないだろうが。
中には、そうでない者もいるかもしれない。
『しかし、辿り着くのもそう容易くはないぞ?』
手にした剣――ではなく。
先端に髑髏を乗せた錫杖を、軽く一振り。
玉座の前の床に、幻像が揺らめきながら現れた。
それはこの塔を中心とした、周辺一帯の俯瞰図だった。
時々砂嵐のような音を立てながら、その図は状態を変化させる。
外周から塔へ向けて近づくのは、街を出発した冒険者らを表す光点。
ならばそれを待ち受ける、無数の黒点は何を意味するか。
『本物の勇者ならば物足りなかろうが、心ばかりの歓待の準備は整えた』
カリュブディスの魔剣、《
その魔力で生み出された、配下たる無数の不死者達。
幻像に表示された黒点の数は、見えるだけでも優に百を超えている。
大半は知能を持たない雑魚だが、中にはあの信徒達のように、多少頭の付いた者も混ぜた。
それで、僅かばかりでも歯応えのある
『そう、それぐらいは悠々と突破して貰わねばな』
頭の足りない不死者の群れ。
それを切り開いた先に待つのは、四体の恐るべき死の騎士。
この全てを踏破した時、ようやく人は王との謁見を赦される。
『この鋼の玉座にて待つ、名も無き有象無象よ』
それが果たされたなら、初めて魔王はその名を讃えるだろう。
有象無象ではなく、自らが敵とするに相応しい英雄、或いは勇者として。
笑う。カリュブディスは笑う。
今は闇に沈みながら、愉快そうに、嘲笑うように。
* * *
真昼の街道に、弦を爪弾く音が響く。
その旋律に合わせて、美しい少女の声が詩を吟じる。
かつて大陸に恐怖をもたらした死人の王。
そして王を討ち滅ぼした、七人の英雄の詩を。
日は上れども世は暗く。
夜の闇は尚深い。
死者の夜明けよ、王の
死人の群れよ、王の剣に導かれん。
何人が其に抗えようか。
何人が其に勝ろうか。
神々すらも恐れぬは、偉大なりし死人の王。
死の大渦、命と光を呑み込まん。
夜明け前は夜より暗い。
それはもう、数百年も昔の話。
最初に神々から「不死の秘密」を盗んだとされる者。
彼の者こそカリュブディスであり、後に魔王として大陸に覇を唱えた。
最も古い
その魔剣《死人の支配者》は、その名の通り死者を支配する。
かつての魔王は、剣の一振りだけで地平を起き上がった不死者の軍勢で埋め尽くしたという。
これに対し、大陸の人々は無抵抗であったわけではない。
多くの国々が団結し、この命を呑み込む《死の大渦》に立ち向かった。
けれど敵は不死者、倒せども倒せども王の号令一つで立ち上がる。
逆に生者は一度命を失えば、そのまま王の軍勢の一部とされてしまう。
味方の数は減るが、敵の数は一方的に増え続けるだけ。
それは余りにも絶望的な戦いだった。
神々すらも恐れぬ墓土の主、魔王カリュブディス。
寄せる波のように死の領域は広がり、人々はその渦に呑み込まれぬよう身を寄せ合う他なかった。
死人の夜明け。この絶望の時代を、人々はそう呼んで恐れた。
しかし不死なる王の治世は、決して永遠には続かなかった。
恐れを抱き、けれど恐れず立つ者達。
百の英雄、百の勇者。
死者の王に死を与えんと立ち向かう。
大渦は笑い、光を呑む。
多くの勇気が露と消え。
多くの命が穢された。
けれど彼らは諦めぬ。
この命ある限りと歩みを止めず。
やがて炎の口に大渦は呑まれん。
我は不死なりと王は告げ。
我らの志も不滅なりと勇者は応えた。
王と剣は炎に消え、最後に立つのは七人。
数多の犠牲をその胸に抱き。
七人の英雄は、ついに死者の王を討ち果たさん。
最後に余韻を残しつつ、クロエは王の最後で詩を締め括った。
仲間達から送られる、小さな拍手。
その賛辞に少し恥じらいながら、楽器の弦から指を離す。
「……これが、多分魔王を討った七人の英雄について、一番知られている詩だと思う」
「確かに、何処かで聞いた覚えはあるな」
芸時には疎いガルも、歌声に記憶を刺激されたらしい。
詩の類と縁遠い者でも聞き覚えはあるぐらい、それは有名な伝説だった。
「しかし魔王カリュブディスねぇ……この話、どれだけ本気だと思う?」
「どっかのヒキコモリ魔術師の悪戯に一票」
ルージュは眉に唾をつける仕草をし、ビッケもまた懐疑的な態度を崩さない。
雷で描かれた文章の真偽を確かめる。
クロエの登録を済ませた直後に、四人は組合から直接その依頼を請け負った。
動いているのは彼らだけではなく、他にも幾つかの冒険者一行が同じように依頼を受けているはずだ。
「それを確かめるのが、私達の仕事だけど……俄かに信じがたい、というのは分かるわ」
「先ほどの詩の内容によれば、その魔王は討たれているのだったな」
「ええ、激しい戦いの末に、七人の英雄の手で葬られた。少なくとも、伝説はそう語ってる」
魔王殺しの七人。
実際のところ、記録が古すぎる為に文献によっては面子が違ったりする。
「我こそは英雄の子孫である」と、後世で勝手に名乗った者も多くあるせいだろう。
放浪の賢人、土妖精の王、半神半人の
そして、魔王の剣を死の山に投げ入れたという小人。
数ある記述の中で、この五人に関しては共通して語られる事が多い。
「ふむ、魔王殺しの勲しか。竜殺しの次に目指す先と考えると、なかなか悪くはないな」
「イヤイヤイヤイヤ、流石に与太が過ぎるでしょ旦那」
至極真面目に伝説に挑む事を考え出すガルに、ルージュは苦笑いを溢す。
「本当に相手が復活した魔王だったら、あたしらみたいな冒険者風情じゃ敵わないよ」
「まーぶっちゃけ国が動く案件だよな、ウン」
努めて興味が無い素振りを見せつつ、ビッケも軽く同意した。
それからため息を一つ。
「そう、もし本当に魔王なんてのが万一にも復活なんてしてたら、さっさと逃げようぜ」
「まぁ……依頼の内容は、事態の究明だから。それでも良いのかしら」
何やらビッケの様子が変に感じて、クロエは緩く首を傾げる。
思えば、酒場で狂った男の話を聞いた時から、少し態度がおかしかった気がする。
その時は特に気に留めなかったが……。
「ふむ。確かに、此方が必要以上に無理をする必要はないが」
やはり敢えて踏み込みはせず、ガルもただ同意だけを示した。
ルージュは改めて問うまでもなく、ビッケは何処か安堵したように笑って。
「まぁウン、どうせタチの悪い悪戯だろうけどさー。だからこそ、変な火の粉を浴びたくないじゃん?」
「それはその通りだな」
頷き、ビッケの言葉に応じながら、不意にガルが足を止める。
それに一瞬遅れて、ビッケもその場に立ち止まった。
うげっと嫌そうに表情を歪めて、腰に下げた
「敵だ」
ガルの言葉は、端的に今の状況を示した。
二人に比べて勘の鈍いクロエも、漂うものを感じ取って敵の存在を知る。
それは即ち、死臭。
「ったく、臭くて鼻が曲がりそうだねこりゃ」
顔を顰めてルージュが呟く。
同時に、街道脇の雑木林から無数の影が現れた。
予想通りの死体、死体、死体。
知能は無いはずだが、まるで街道を通る者を待ち伏せていたように襲い掛かる。
「これも悪戯だとしたら、随分手が込んでるわね」
「多分暇なんでしょう、そうに違いない」
文句混じりの軽口と共に、クロエとビッケはそれぞれ武器を構えた。
それより先んじて、既に飛び込んだのが一人。
「イアッ!」
それは当然ガルだった。
戦いの雄叫びと共に、自慢の大金棒を振り回す。
この手の屍に低級霊を憑依させた不死者は、身体が多少欠けても動くタフさが強みだ。
しかし一撃で五体をバラバラにされれば、そんなものは関係ない。
一振りで2体、二振りで5体。
鋼の暴風と化したガルにより、死体の先頭集団は枯れ枝のように蹴散らされる。
「数ばっか多いのは面倒だねぇ。爆ぜな!」
取り出した杖から、ルージュの詠唱に従って火球が放たれる。
それはガルの頭上を飛び越えて、未だに林の中にいる不死者達を巻き込んで炸裂した。
爆風。炎の威力に木々がなぎ倒され、散った火の粉が草木を焦がす。
「ちょっと、流石に此処で《火球》は拙くない……?」
「あ、いっけね」
「姐さん姐さん、流石に山火事はオレやばいと思うの」
幸いというべきか、爆ぜた炎は林の一角を黒く焦がしただけで、燃え広がる様子はない。
集団の一部が爆発で吹き飛び、ガルはそれを好機と更に突っ込む。
「……正直、不死者の類は苦手ね」
呟き、クロエも嵐が吹く死地へと踏み込んだ。
「帳」を纏い、黒い魔剣《宵闇の王》が次々と蠢く屍を切り裂いていく。
二人の間を縫うように、ビッケもレイピアの切っ先を閃かせた。
――後は戦いとも呼べない、一方的な展開だった。
動死体も動骸骨も、ろくにクロエ達を傷つける事も出来ず、程なく全てが動かなくなる。
殲滅したことを確認してから、一息。
「お疲れ様。……念のため聞くけど、こんな数が自然発生する事なんてないわよね」
「この近くで最近合戦でもあったんなら分からないけど、そうでもないなら人為的だろうねぇ」
散らばった残骸を嫌そうに確認しつつ、ルージュがクロエの言葉に応じる。
やがて風に攫われるように、骨も死体も塵となって崩れ去った。
それは本物の死骸ではなく、魔術で生成された不死者である事を示している。
「……どうする? 報告に戻るのもオレはありだと思うけど」
「いや、これだけではな。出来ればもう少し踏み込みたい」
慎重さを唱えるビッケ。
しかしガルは首を横に振る。
「これで終わりとは思えん。叶うならば、魔王復活の真偽まで確かめたいが」
「……そこまでは難しいかもしれないけど、確かにこのままじゃ子供の使いね」
頷き、クロエは進む先に視線を向ける。
其処に広がるのは、先ほどまでとは何も変わらぬ風景。
しかし今は濃い死の気配が漂い、それが薄れる様子もなかった。
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