★二百三十四段 ありのまゝに言はん

【徒然草 二百三十四段 原文】


 人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事かへりごとしたる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。


 人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣やるこそ、心づきなけれ。世にりぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。


 かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。




【本文】


 始まりは些細な質問だった。

 二年四組うちのクラスの二時限目の授業の最後に、女子バスケ部員の富田光希とみたみきが挙手をした。切り揃えた前髪がトレードマークの活発な生徒だ。


「先生、わからない言葉があるんですけど、質問いいですか?」


「いいぞ、何だ?」


「オーガズムって何ですか?」


 ええ? オーガズム? 朝から何言ってんのこの子?


 思わず顔がひきつるが、当の富田は真剣な表情。どうやら本当に知らないようだ。

 クラスの何人かはピクリと反応したが、基本ベジタリ男ばかりだから殆どの生徒がその言葉を知らないんだろう。皆俺に注目し、答えを待っている。


「オ、オーガズムな! あれだ、オーガニックって聞いた事あるだろ? 有機栽培、つまり農薬とか化学肥料を使わないで野菜を栽培する事をオーガニックって言うんだ。そのオーガニックとリズムを組み合わせた新しい造語だよ。植物に音楽を聴かせると育つって言うだろ? 有機栽培に音楽、即ちリズムを取り入れた最新の栽培法、それをオーガズムという」


 よくもまあこんなデタラメがすらすらと出てくるものだ。我ながら感心する。確かにオーガズムへ至るにはリズムが大事だけれども。


「へえ、農業用語だったんだ。意外だなあ、お姉ちゃんが言ってたからてっきりファッションの事かなって思ってたんだけど」


 ふむふむと富田は納得したように頷いた。おい富田の姉ちゃん、中学生の妹に何を言ってるんだ。


「じゃあ先生、大人のオモチャって何?」


 お姉ちゃん勘弁してください!


「ま、麻雀とかビリヤードの事だよ。あと、ダーツとかな」


 さすがにローターとかディルドの事だ、ディルドってのは男性器を模した張り子の事でな、なんて言えない。


「ああ~、なるほど。そっか、お姉ちゃんが興味あるって言ってたから何かなって思ってたんだけど、ダーツとか確かにお洒落だよね。納得」


 興味津々な年頃なんだろうけど、使用時は妹に見られない様お願いしますお姉ちゃん。マジで。


 富田はその答えに納得してくれた。この時は華麗にかわした自分ナイスだなんて得意になっていた。しかし、後々にこれが学校全体を巻き込む事に発展するなんて、この時は露ほども思っていなかったのだ。



『徒然ww 二百三十四段 ありのまゝに言はん』


 

 数日後、廊下を歩いていた時の事だ。

 擦れ違い様に三年生の男子が俺を見てニヤニヤと笑った。そしてこう言ったのだ。


「夕べは蔵野先生とお楽しみでしたね」


 下品に笑いながら教室に入っていく。


 何だ? 確かに昨日の仕事終わりも抄子先生と夕飯を食べたが、その後はそれぞれ家に帰った。大体まだキスだってしてないんだぞ。

 人によって全然違うだろうが、俺は付き合いだしてから肉体的に繋がるまで3ヶ月ぐらい掛けるのが無難だと考えている。だから抄子先生とそういう関係になるのはクリスマスイブを照準に準備しているのだ。それまでは清い関係でいるつもりである。聖なる夜を性なる夜にするのだ、なんちゃって。


 それからも何だかおかしかった。一部の生徒からヒソヒソと噂されているようだ。女子からはゴキブリでも見るような、あからさまな嫌悪を感じる時もあった。


 更に数日後、週に一度の全学年の教師が集まる職員会議にて。二年生の教師はどうなってんだと三年生の担任の先生から指摘を受けた。

 どうなってんだと言われても、誰も身に覚えがない。抄子先生と顔を見合わせるが、彼女も首を傾げていた。代表して主任である北条先生が聞き返す。


「あの、何の事でしょうか?」


「とぼけないでください。性教育の時間でもないのに、生徒達に卑猥な話をしているらしいじゃないですか。しかも自慢気に!」


 まるで要領を得ない北条先生の返事に三年生の先生はヒートアップする。


「落ち着いてください。ええと、それは私がですか?」


「北条先生と蔵野先生だと聞いています。何でも週末の夜にはいつも大人のおもちゃで遊んでいると語っていたとか!」


 ん? 大人のおもちゃ?


「そんな事を私や蔵野先生が話すわけないでしょう! 週末はよく夜通しで麻雀をするとは話した事はありますが、そんな大人のおもちゃだなんて……」


 抄子先生も北条先生に続いて反論する。


「私もそんな話は一切していません。週末にはダーツバーによく行くという話はしましたけど」


 ぶほっ!っと盛大に噴き出してしまった。先生方の視線が俺に集まり、直ぐに立ち上がって釈明をする。


「ごごご、ごめんなさい! 私のせいです!」


 俺は説明した。

 生徒から大人のおもちゃとは何かという質問を受けた事。本当の事を教える訳にもいかず、咄嗟に麻雀やダーツの事だと答えてしまった事。

 それを生徒達が大人のおもちゃとして拡散してしまったのだろう。北条先生や抄子先生の麻雀やダーツの話がねじ曲がって広がってしまい、今のような事態になってしまったようだ。 

 

「はあ。何だ、そういう事でしたか」


 三年生の先生も落ち着いてくれたらしい、長いため息をついた。


「す、すいません。まさか、こんな事になるとは」


「でも仕方ありませんよ。そんなの本当の事言ったらセクハラに取られかねませんし」


「そうですよ。むしろ上手い事返したなあって感心しちゃいました」


 申し訳なくて下を向き体を縮めるが、他の先生方はフォローの言葉をかけてくれた。しかし、校長先生のまるで鈍器のような低く重い声が上げかけた俺の頭を押さえつける。


「卜部先生。貴方は教師失格です」


 厳しい言葉だった。

 職員会議の時には教頭先生に仕切らせて殆ど発言しない校長先生が険しい顔付きで俺を叱った。


「教師が生徒に嘘を教えたのです。これがどれほどの事か、わかりますよね?」


「――っ! ……はい、教師としての自覚が足りませんでした。すいませんでした」


 教師だって人間だ。教えた事が間違っている時だってあるだろう。でも今回は違う。わかっていてわざと間違いを教えたのだ。教師失格といわれても仕方ない。


「やってしまった事はしょうがない。ですが、どんな失敗も取り返せます。卜部先生」


 すぐに校長先生の険しい表情は消え失せて、いつもの好好爺然とした人の良さそうな笑顔で言った。


「さあ、その方法を皆で考えましょうか」





 翌週、月曜。体育館での朝の全校集会。

 今日の校長の講話はいつもとは少し違った。

 校長に続いて俺も壇上へ上がる。


「えー、皆さんおはようございます。今日はですね、最近流れている、北条先生や蔵野先生が大人のおもちゃで遊んでいる、という噂の件について、卜部先生に説明をしてもらいます。では卜部先生、お願いします」


「はい」


 校長先生の口から出た「大人のおもちゃ」という過激な言葉に三年生を中心にざわつき、中には失笑する生徒もいた。俺はそのざわめきを全身に受けて演台の前に立つ。


 結局、俺から生徒達に説明をさせてもらうことになった。卜部先生が一人で泥を被る事はないと他の先生方は言ってくれたが、実際悪いのは俺だ。俺に説明させてくれと頼み込んだ。自分の尻拭いはせめて自分でしたい。


「原因は、私の浅はかな言動によるものです」


 生徒達に向かい、ゆっくりとはっきりと伝えた。

 生徒から質問を受けたが、つい麻雀やダーツの事であると答えてしまった。そのせいで北条先生や蔵野先生が誤解を受けているという事。


「大人のおもちゃとは、性具、陰具とも呼ばれる性的快感を得るための道具の事です。その場では答えづらく、適当なその場逃れの答えを教えました」


 しかしそれは、教師としては許されない行為だ。


「教師としてあるまじき言動でした。生徒に嘘を教えるなんて言語道断です。これからはきちんと考え、初心に返り、皆さんとちゃんと向き合って行きたいと思っています」


 演台からずれ、俺は頭を下げようとした。それを校長が制止する。


「貴方が謝ることはない。部下が失敗した時に謝罪するのは上司の仕事ですよ。さ、降りてください」


 そう言って俺の体を押した。押されるままに壇上から降りると、校長先生はネクタイを正した。


「という訳です。今回は生徒の皆さんを大変混乱させてしまいました。申し訳ございませんでした」


 謝罪の言葉を述べると、校長先生は俺の代わりに深く長く頭を下げた。





 

「みんなすまなかった。俺の考えが足らなかった。すいませんでした」


 教室に戻り、自分のクラスの生徒達に頭を下げる。


「改めて、オーガズムについての説明をする。と言っても性的な意味を持つ語句だから、軽くしか説明しないけど了承してくれると助かる」

 

 性的刺激の果てに迎える絶頂であると、あくまで淡々と説明した。俺もそんなに詳しいわけじゃないから、元より詳細な説明が出来る訳じゃないけど。


「ご、ごめんなさい。エッチな言葉だって思わなくて、変な事聞いちゃって……」


 俺の説明の後、申し訳無さそうに富田が謝った。別に富田が悪い訳じゃない。


「知らない事を聞く事が悪いはずないよ。俺の対応が悪かっただけだ。それは性的な言葉だから保健の先生に聞くようにとか、上手いやり方があったはずだ」


 男性教師が女子生徒にそういう質問をされた場合、保留にして養護教諭に丸投げする。職員会議ではそういう風に話がまとまり、保健の先生も快諾してくれた。今後はそのような対応をとる事になる。


「それでだ、今日のホームルームはこの際だから俺に聞いてみたい事があれば、質問に何でも答えようと思う。あ、エッチな事はナシな」


 俺の提案に渡辺が元気よく手を挙げた。


「じゃあ先生! 最近抄子先生と雰囲気良さげだけど、実際のとこどうなの?」


「む? ああ、何でも答えると言ってしまったな。他のクラスの人間には言うなよ、先日告白してオーケーを貰った」


「マジ? おめでとー先生!」

「おめでとう!」

「ピーピー!」


 皆口々に祝福の言葉をくれた。指笛ではやし立てる生徒もいる。


「声が大きいって! 頼むから抄子先生を冷やかしたりとかやめてくれよ。俺は真剣なんだから」


 途端に教室が騒がしくなるが、富田の挙手に気付いてピタリと大人しくなった。静かになったのを見計らって、富田が口を開いた。


「先生、全校生徒の前でその、大人のおもちゃとかあんな事言うの、怖くなかったんですか? なんであそこまで出来るんですか?」


「怖かったよ、色んな人に迷惑をかけたし。でもな、お前達の信頼を失う事の方がずっと怖い。教師が信頼されなくなったら終わりだ。頼りにされてこその教師、それが俺の持論だから」


 困った事があれば何でも相談出来る教師。それが俺の理想だ。その為には常に本気で生徒と向き合わなければならない。嘘は必要ない。


「ん? どうした、みんなニヤニヤして」


 生徒達を見ると一様にニヤニヤと笑みを浮かべていた。それを見てほっと胸を撫で下ろす。


「まあいいや。他にないなら授業を始めるぞ。じゃあ国語の教科書を開いて。今日は百十ページから――」


 生徒達に真摯に向き合うことを再度誓って、新品のチョークを黒板に走らせる。小気味のいい乾いた音が教室に響いた。




【徒然草 二百三十四段 現代訳】


 当たり前の事を誰かが聞いてきたとしても、「こんな事は知っているに決まっている。私を試しているのか知らないが、本当の事をわざわざ言うまでもない」などと考え、冗談だったり嘘を言うのは良くない。確認の為に聞いているのかもしれないし、その人は本当に知らないのかもしれない。だからちゃんと正解を答えないと信用を失うばかりである。


 新しいニュースを聞きつけたとして、それを他の人に「あのニュースは酷いね、世も末だよ」なんて中身を説明せずに言うのも良くない。その人がそのニュースを知らなければ「何の事?」と聞き返してくるに決まっているからだ。

 誰もが知っているような事でも偶々聞き漏らしたり見なかったりすることは往々にしてある。

 正しい説明を省略したりするのはかえって効率が悪く、要領の悪い人がするものである。





 

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