危険な私

ここまで私が触れたことの中に、大きな問題があったことを気付いた方はどのくらいいらっしゃったでしょうか。


私は、医療事故により役童強馬えきどうきょうまの母親を死に至らしめたとされた医師について、


『あんなゴミに我々が支払った年金保険料から年金が支払われることを考えれば、我ながらよくやったと思うよ』


と発言して役童強馬の母親を貶め、地元の名士としての立場を利用して自己保身を図ったかのように印象付けるような言い方をしました。


これにより役童強馬に対して同情的な感情を抱いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。


しかしそれはあくまで、


『そう言われている』


というものでしかないのです。先ほども申し上げた通り、医師がそう発言したという事実は裏付けが取れていないのです。にも拘らず、私の説明だけでその医師のことを<悪辣な人間>と捉えたとするならば、それこそが私が<復讐>、特に<個人による復讐>に賛同できない大きな根拠の一つでもあります。


そう、人間は断片的な情報だけで他人の人間性まで断定してしまう傾向にあるという何よりの証左でしょう。


故に、役童強馬によるこの<復讐劇>についても、私は批判的な立場を取ることしかできません。


裏付けも取れない流言に等しい伝聞に踊らされ、役童強馬は復讐に走ったのですから。


そんな復讐劇に巻き込まれて命を落とした被害者達の無念はいかばかりでしょうか。


もし、この事件で亡くなった八歳の男児がヒロ坊くんであったなら、私はいかなる手段を用いてでも役童強馬に対して報復を誓うでしょう。実行できるかどうかは別として。


復讐というのは、こういうものなのです。


フィクションの中で描かれる<スカッとする復讐劇>は、所詮、絵空事でしかありません。それを現実に当て嵌めようとするのは、稚拙な戯言なのだと私は思います。


役童強馬がどれほどの苦境の中で育ったのだとしても、それを復讐によって贖おうとすることは許されないのです。




などということを、せっかくのヒロ坊くんの運動会の前に考えているのは非常に申し訳ないのですが、これも私の性分というものなので、何らかの害がない限りは止めることもできないのも現実ですね。


しかし、同時に大事なことでもあると思います。こういうことを常に頭の中に巡らせることで、私は自身の中にある危険な部分を律することができているのですから。


イチコと出逢う前の、<平然と他人を蔑ろにする危険な私>も、確かに私の中に存在するのです。


私が決して綺麗なだけの人間でないことを、私は自覚しなければいけません。


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