20,まるたんやんま
「ふひ~、やっぱ温泉はいいですなあ」
もくもく立ち上る湯気。日常に疲れた三十路女を癒す源泉かけ流しの露天風呂。
イラストレーター決定からわずか1ヶ月後、原稿で忙しいのにわたしいま、温泉に入ってる。なんという背徳感。
飯坂温泉駅に着いてから個人経営の小さなカフェでコーヒーとケーキをいただいた。チェックイン時刻になって送迎車で駅まで迎えに来てもらい、玄関口の両サイドに小川が流れる豪華絢爛な大旅館に到着。広々とした和室に荷物を置いて浴場へ向かった。
「目の前に山、見渡す限り山」
数百メートル先の山を眺める舞ちゃん。この山も旅館の敷地らしい。
「サルとかカモシカが出るんだってね」
両脇を広げ、岩風呂の縁に肘を乗せる温泉ポーズで美奈ちゃんが言った。
「どれどれ」
そう言われるとサルやカモシカ、もしくはクマを見つけたくなって山肌を舐めるように眺めてみたけど、姿は確認できなかった。
露天風呂から上がると寒くてほんとうに死にそうな気がしたので、内湯の大浴槽に浸かってから出た。もちろんこちらも源泉かけ流し。
「わーあ、すごい豪華」
温泉に浸かった後は夕食タイム。外に面した部分はガラス張りの和風レストランで黒毛和牛すき焼き定食をいただく。
「わたしもいつぶりかしら」
「わたし、こんなの初めてかも」
「美奈ちゃんの初めてを、私たちが目撃してしまいましたな、デュフフフフ……」
「夢叶、黙ってれば童顔だけどちょっと知的な女子なのにね」
「バカは喋るな、喋らなければバカか利口かわからないって、職場のベテラン爺さんが言ってた」
「ふふふ、夢叶ちゃんはお利口さんだよ」
なでなで、なでなで。わたしに身を寄せてきた舞ちゃんに頭を撫でられて猫のように喜ぶ三十路を過ぎたダメ女。
とりあえずビールということで、ふくしま地ビールを小さな瓶から各々グラスに注いで乾杯。
おお、これはうまい。ドライでキレがあるのに、麦の香りが口いっぱいに広がる
「ああ、うまい、これが、こういうのがあるからなんとか生きていられるんだよぉううう……」
すき焼きぐつぐつ舌鼓。その間にも中居さんがジュレ、刺身、炊き込みご飯などの小料理を続々と運んできて、わたしたちはその度に「ありがとうございます」と礼を言う。この品格がわたしには合っている。そういう仲間に出逢えたのも幸い。
「よしよーし、夢叶ちゃんはよく頑張ってる。小説も頑張ってる」
そうだよお、頑張ってる、会社に行って小説書いて頑張ってるんだよぉ。
わたしは小壺に入った女神の美肌スープなるふかひれスープをすすった。ナツメ、蓮の実、クコの実、キクラゲなども入っていて食感も良い。
うおおお、なんだこのとろとろした天に昇る高級な味わいは。
って……
「へ? 小説?」
女神の美肌スープを堪能しつつ、舞ちゃんの言動をようやく処理したわたしは我に返った。
ハンドルネームが本名だからバレてる!?
うわ、読者が数えるほどしかいないわたしの愛すべき作品たちだけど、その中に舞ちゃんがいるとは。もしかしてSNSのフォロワーさん? いずれにせよ数えるほどしかいない。世間は狭いよ。
「うん、わたし、まるたんやんまだよ」
にっこり女神の笑みの舞ちゃん。
「マルタンヤンマ?」
声に出して疑問符を浮かべたのは美奈ちゃんだった。
え、まるたんやんま? えーっと、これは、どういうことでしょう……。いや、頭では理解してるけど。
「マルタンヤンマ? トンボ? ヤンマ科トビイロヤンマ属?
舞ちゃん空飛べるの? わたしはただの三十路女だから飛べないよ。飛べない三十路女はただの三十路女。
「トンボの話? ほんと夢叶は物知りだよね」
と、全く状況を理解していない美奈ちゃんがわたしを誉める。苦しゅうない。
「もう、わかってるくせに」
ええ、ほぼほぼ理解しましたとも。一方美奈ちゃんは疑問符が千手観音。
「あの、まさか、イラストレーターのまるたんやんまさん?」
「そうだよ。今回はイラスト依頼してくれてありがとう」
「ひええええええ……」
まさか舞ちゃんがまるたんやんまさんだなんて。
「驚いちゃった?」
いたずらな笑みを浮かべる舞ちゃん。
「まさかですよ。舞ちゃんがまるたんやんまさんだなんて、世間は狭いよ」
「だね。会社の同期でお友だちの夢叶ちゃんが描く小説のイラストを描かせてもらえるなんて、思いもしなかった」
舞ちゃんはにんまりほのぼの笑んで言った。
「いやはや、主任乗務員のイラストと平社員の文章で構成される作品とな。あ、そうそう、このこと会社には内緒だよ」
日本総合鉄道株式会社では最近ようやく兼業が認められたが、不特定多数の人間がいる組織で身バレは可能な限り避けたい。きっと舞ちゃんにも迷惑がかかる。
「うん、もちろんだよ」
大人の約束をして、食事をしながらしみじみと。地ビールに続いて純米吟醸『摺上川』をいただく。米の風味が口いっぱいに広がって、キレが良いのにまろやかな舌ざわり。
「ああ、料理が美味しくて酒が美味い!」
そう、美味しくて美味い! この感覚、おわかりいただけるだろうか。
「ふふ、夢叶ちゃんオジサンみたい。でも、ほんとうに美味しいね」
「あのー、さっきからわたし、置いてきぼりなんだけど」
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