最終話

 刑事二人がぼくの家にやってきたのは、犯人が自首したという知らせが入ってから二日後のことだった。またもや早朝だ、くそったれ。

「警察学校で、一般常識のクラスを設けるべきだと思わないか? インスペクター・ロビンソン」

「朝の九時三十分は十分に常識の範囲だ、ミスター・ポッター」ぼくの嫌味を、サムが平然とした様子で受け流す。「それに、コーヒーを飲むには、ちょうどいい時間だしな」

「うちの事務所は喫茶店じゃないんだってば!」

 目を吊り上げるぼくの目の前に、サムが大きな紙袋をぶら下げてみせた。

「……何これ」

「ぼくとサムからのお礼です。今回の捜査では、あなたには大変お世話になりましたから」

「……最後の最後までな。全く」

 ぶつくさ言うサムから紙袋を受け取りながら、ぼくも口を尖らせる。

「ホントに感謝してるならさ、ちゃんと事前連絡を入れてだな——あれ、もしかしてこれ、バイルンベイクッキーの詰め合わせ?」

「お好きだと伺ったので」

「とっておきのコーヒー淹れてやるから、ソファーに座っててくれ」

 途端に機嫌が良くなったぼくは、弾む足取りで刑事を事務所へ促した。ぼくのそばを通り過ぎながら、オリバーが付け加える。

「袋の奥にもいろいろ入れているので、楽しみにしていてくださいね」

 刑事の言葉に満面の笑みを返すと、ぼくは二人がソファーに沈んだのを確認して、いそいそと台所に向かった。コーヒー豆をミルサーにかけながら紙袋を漁る。

「アラビカ豆……オーストラリア産?! 試したことなかったな。こっちはオーガニックナッツの詰め合わせ、こっちはマリアージュフレールのフレーバーティー!」

 わーい、と一通り喜びに跳ね回ってから、ぼくはカップをトレーに乗せて二人の元に戻った。

「それで。まさか本当にお礼を言うためだけにうちに来たのかい、刑事さん」

 ぼくの言葉に、刑事二人はぴくりとも表情を動かさなかった。怪しすぎる。

「……言っとくけど、それほど長い間は付き合えないぞ。今日はこの後、仕事で出かけるんだから」

「それほどお時間は取らせません。一昨日前の襲撃について、あなたに一つお願いしたいことがありまして」

 オリバーの言葉に、そういえば自分がほんの三日前に誰かに狙われたことを思い出した。スーパーへと向かう少し暗い道のり、心許ない薄明かり中で目に焼きついた刑事の鮮やかな一閃。

「そんなこともあったっけなあ」

「重ね重ね申し訳ないのですが、あなたに一度、署で容疑者の確認をお願いしたいんです」

「まさか、今から?」

「いえいえ! できるだけ早い方が助かりますが、ご足労いただくのは一両日中で大丈夫ですよ」

「それならいいけど……電話かメールで伝えてくれるだけでよかったんじゃないかな。初対面の時に連絡先、無理矢理聞き出していったろ」

 ぼくの言葉に、サムがカンガルーのカップからゆったりと口を離しながら、こともなげに口を開く。

「君の事務所は署から徒歩五分で、聞き込み先への通り道でもある。営業時間が十時以降だから、それまでは人の出入りもない。コーヒーも出るしな」

「いいか、次は本当に、コーヒー出さないからな!」

 ぼくの言葉ににやりと笑い、不敵なキリンがまた一口コーヒーを流し込んだ。くそ、気を利かせて砂糖なんて入れてやるんじゃなかった。

「ところで、ルーカス。その後変わりはないか」

 その後、というのはアランの事件が解決した後のという意味だろう。

「いや」

「それならいい」

 そう言って、サムは再びコーヒーカップを手に取った。もう話は終わったと言わんばかりのサムに代わって、オリバーが三日前の出来事について、いくつかぼくから聞き取りをする。

 やがてそれも終わると、いつの間にかすっかりカップを空にした刑事二人が、余韻も名残も感じさせることなく、さっと席を立った。挨拶もそこそこに足早に玄関へと向かい、ドアの前で揃ってぼくの方を振り返る。

 いつもより真っ直ぐに背筋を伸ばした二人が、その背筋に負けないくらいまっすぐぼくに目を向けた。

 やや気圧されるぼくに向かって、警部補が口を開く。

「この度の捜査への協力に感謝する、ルーカス・ポッター。——良い一日を」

 そう言い残し、サムが身を翻した。後ろに続いたオリバーもまた、微笑みをひとつ残してドアの向こうに消える。

「……なんだ、これが言いたかったのか。サムのやつ」

 ドアにぶつかった独り言は、なんだかひどくぼくを爽やかな気分にした。まあ、あと一回くらいは、忙しそうな彼らにコーヒーを振る舞ってやってもいいかもしれない。

 事務所に戻り、手早くカップを片付ける。十五階の窓から差し込む強力な太陽の光が、ぼくの手とカップにまとわりつく水滴に反射してきらきらと輝いていた。信じがたいことに、ぼくが必死に冬らしさのかけらを探しているうちに、ブリズベンの長い夏はすぐそこまでやってきているようだった。

 事務所と寝室の掃除をざっと終え、ぼくは念のために自分のデバイスをチェックした。そしていくつかのカーテン生地とカタログ、大きめのデバイスを仕事用のカバンに詰め込む。今から家を出れば、ちょうどいい時間に目的地にたどり着けるだろう。内装も華麗なエレベーターに乗り込み、ぼくは家を出る直前に届いた、大学生達からのメッセージを開く。

『ルーク、わたしでよければ喜んで彼が好きそうな本をお持ちします。クロエもヴィックも協力してくれるようですよ。あと、アランの担当教授にも思い切ってお願いをしました』

『カシムから話は聞きました、もちろん協力させてください! ところで、合計で何冊くらいでその棚は埋まりますか? 一人二百冊くらいで足りるかな』

『なぜ、まず、ぼくのところに連絡しないんです? アランの最近の一番の友達であるぼくが、頼みごとをする相手として一番適当だと思いますがね!』

 愛に溢れた言葉の数々に思わず頬を緩めつつ、弾む足取りでシルバーの中古車に乗り込んだ。地上に向かって慎重に車を発進させながらサングラスを取り出す。目的地は、ブリズベンから北へ四十分ほど車を走らせた郊外にあった。

 クイーンズランド州の海辺の町を、心地よい速度でいくつも通り過ぎていく。窓から吹き込む風に、時々潮の香りと人の暮らしの匂いが混じる。それぞれの町にそれぞれの生活があった。車の中から眺めれば一様に見える人々の笑顔も、時の流れも、本当はきっとひとつひとつが人生の重さをはらんでいる。——それがひどく美しく、愛おしく思えた。

 やがて、海と河の境界線をまっすぐに走る橋へと辿り着く。この国が、海に浮かぶ大陸の一部なのだと思い出させられるような、雄大でどこまでも伸びやかな光景が次々と展開される。

 車内に吹き込む風は完全に海のもので、ぼくはますます晴れやかな気持ちになった。清々しい風が流れる土地は、きっと新しい生活を始めるのにふさわしい。

 橋を渡り終え、半島の中に建てられた無数の建物の中の一つの前でぼくは車を止めた。ぼくの到着に気がついたのだろう。すぐに玄関が開き、シンプルで明るい服に身を包んだ穏やかな笑顔の女性が姿を現した。

「ルーク。今日は来てくれて本当にありがとう」

「やあマリア、ぼくの方こそ本当にありがとう」

 腕を拡げたマリアを抱き返しながら、ぼくは心からのお礼を言った。その背後から、サングラスをかけたミディアム・ヘアのレイディが顔を覗かせる。

「わたしもいるわよ」

「ジェーン!」

「ちょっと心配で顔を出したのだけれど。余計なお世話だったかもしれないわね」

 朗らかに笑いながらぼくをハグし——懲りもせずにジェーンがぼくの耳元でボソリと呟く。

「……あのソファ、やっぱりどうにかして置けないかしら。本当にとても素敵なグリーンなのよ」

「……今あなたの部屋に居座っているカーディナルレッドのソファは、もうお役ごめんという意味でいいんだね?」

 ぼくの言葉に小さな舌打ちを打つと、ジェーンは再び朗らかな笑顔でぼくを解放した。

 その様子をただ微笑ましそうに見つめるマリアに向き直る。

「さて、マリア。まさかあなたの依頼が、アランの部屋のコーディネートだとはね」

「途中で依頼内容を変えてしまってごめんなさいね」

「とんでもない。ぼくにこの機会を与えてくれて、とても感謝してる」

 ぼくの言葉に、マリアがもう一度ぼくにハグをくれた。近くで見ると、彼女のまぶたはまだ赤く腫れているのがわかった。悲しみは風化しない。たとえ激しさはならされても、想いはただ雑味が取れて純化していくばかりだ。それはぼく自身が身をもって知っている。

「さあ、入ってちょうだい。あなたが来るのが楽しみで、何よりも先にお茶やカップやお菓子を買い揃えたのよ——ジェーンが来るのはちょっと予想外だったけれど。でも本当に、二人が来てくれたのがとても嬉しいわ」

 そう声を弾ませて、マリアがぼくを家の中へと招き入れた。きちんと手入れされた、年季の入った木のフローリングがぼくを歓迎してくれる。入ってすぐの場所にあるキッチンとダイニングルーム、その奥には少し広めのリビングルーム——とはいえ、家具といえば小さなダイニングテーブルくらいしか見当たらない。奥の空間はまだ、リビングルームとして機能し始めていないのが見てとれた。

 ぼくの反応をわくわくしながら見守るマリアに、ぼくは満面の笑みを送った。

「とてもいい家だね、マリア。明るくて風通しがいい。何よりどの角度からも庭の様子が見えるのが素敵だ」

 マリアの頬が、少し照れたように輝いた。

「もし良ければ、まずはアランの部屋を見てもいいかな?」

「もちろんよ。——実は、まだどの部屋をあの子の部屋にするか決めかねていて。それもあなたに相談させてほしいと思っていたの」

 そう言って、マリアがぼくを家の奥へと案内する。少し昔に建てられた家特有の少し狭い廊下は、三つの部屋へと続いていた。

「一つは、人に貸そうと思っているの。貯金があるとはいえ、収入源は確保しておきたいから——ここよ。ここが第一候補の部屋なの。一番狭いのだけれど、どうしてだかあの子が一番喜ぶのは、この部屋な気がして」

 言いながら彼女が扉を開けた瞬間、部屋から光が溢れ出た。なんということはない、こじんまりとした部屋だった。磨き込まれた褐色のフローリング、白い壁、不思議なミント色に塗られたクローゼットの扉。ベッドと机、棚くらいしか置けないくらいの、小さな部屋だ。

 けれど——家の間取り図を見た時から、気づいていた。この部屋が、この家の中で一番日当たりがいい。

 正面の大きな窓から差し込む光の中に、アランの笑顔が浮かんだ気がした。コンマ一秒にも満たない白昼夢に、ぼくの胸はいっぱいになった。

「他の部屋を見るまでもないよ、ぼくも賛成だ。どこへでも行けそうな、明るい部屋だね」

「……ありがとう、ルーク。わたしも、同じことを思ったのよ」

 つぶやくようにそう言って、マリアはぼくに向かって優しく笑った。その笑顔を受け止めたぼくもまた、釣られるように微笑みを返す。

「もう少し見てもいいかな」

「ええ、ゆっくりしてちょうだい。わたしは二人のお茶の準備をしているから」

「ありがとう」

 お礼の言葉を口にしながらも、ぼくの心は完全にこの部屋に囚われていた。そっと足を踏み入れ、胸に湧き上がるさまざまな熱を慎重に自分の中に閉じ込めていく。

 本棚は絶対に置くつもりだった。マリアが持ち出した彼の大切な本には、きっと居場所が必要だろうから。本棚の余ってしまうだろうスペースは、彼の友人たちが喜んで埋めると約束してくれた。

 机もベッドも、それほど大きなものは置けない。机はノートが広げられるサイズ、ベッドは大きくてもセミダブルくらいが限界かもしれない。色は——青、白、グレー、ネイビー、ブラック、焦茶色——どう色づけるせよ、この窓の外の光景と美しく調和が取れる色がきっとふさわしい。

 考えながら、存在感のある大きな窓に歩み寄る。カーテンは、薄手のものにしよう。昼は外の光を優しく取り込み、夜は柔らかくこの空間を守ってくれるような——この、少しばかり手入れは必要だけれど見事な庭を、厚手のカーテンで完全に断ち切るのは惜しい気がしたから。

 鍵を開けて思い切り窓を開ける。その瞬間、待ち構えていたかのように空気が縦横無尽に部屋中を駆け巡った。流れる風に合わせて、青々とした芝生と鮮やかな花が揺れている。草花と木々がさらさらと歌う小さな庭は、思わず飛び出したくなるような力強い生命力に満ちあふれていた。風と植物の伴奏に乗って、鳥たちが高らかに声を上げる。彼らが留まる垣根替わりの木々の隙間からは、コンクリートで固められた小さな道が見えた。

 あれは、この住宅地から街の中心へと連れて行ってくれる道だ。広い広い海へと続いている。

 この部屋からならきっと、君はどこへでも、どこまででもいける。

 サファイアブルーの広い空を見上げる。友情は、世界のどんな価値ある宝石にも勝ると言ったのは、どの国のことわざだっただろう。

 混じり気のない素直さで、周囲の人にかけがえのないものを残してくれた。ぼくの人生を変えてくれた。

 何ものにも代えられない、——ぼくの友だち。


 彼のための優しい聖域に、遠慮を知らないご機嫌な電子音が鳴り響いた。そこに浮かびがった六つのアルファベットに、ぼくは思わず苦笑する。

 ——あなたがその幼なじみにちゃんと連絡ができるように、暗示をかけておきますね

 空を見上げながらデバイスを耳に押し当て、ぼくは電波の向こうにいるであろう恋人に行儀よく挨拶した。

「やあ、ブライアン。ああ、今日は本当に素敵な日だね——」

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ミステリではありません 秋月ひかる @Hikaru_akiduki

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