3-3 (物理学生たち)

 クロエとイーサンが準備してくれていたのは、研究棟の一角にあるありふれた無機質な会議室だった。白い壁、移動も容易な折りたたみ式の長机、至る所に備え付けられたコンセント。燦々と太陽が照りつけるこの国にあってどこか薄暗さを感じさせる空間だったけれど、ホワイトボードの端に残る複雑そうな数式の一部と映画やドラマで見たような不思議な機械が、この無個性な空間にいろどりを添えている。

 数式柄のモチーフは使ってみたことがなかったけど、うまく個性になじめば面白いインテリアができそう――そんなことを考えながら突っ立っていたぼくの二の腕を、カシムがとんとんと叩いた。

「どうしたんですか、ルーク。ぼうっとして」

 そう言って、カシムがにこりと笑う。その親しげな笑顔と圧力のある青い視線に、ぼくは慌ててカシムがエレベーターの中でぼくに示してみせた席へと移動した。背もたれを引き、ぼく達二人はそろって、ぎしぎしと音が鳴りそうなぎこちない動作で腰を下ろす。

 ぼくとカシムに続いて、物理学生たちもまた、ぼく達に向かい合う形で席についた。顔を見せにきただけだから、と立ち去ろうとするクロエを「一緒に話をした方が効率的だ」と引き留めたのはヴィクトールだった。ぼくの真正面に座った赤髪の物理学生が、ぼくの視線に気づいて肩をすくめる。

「あなたも来るとは思わなかったな」

 聞きようによってはぼくの来訪を喜んでいないようにも思える言葉だったけど、まあ文字通りの意味なのだろう。そう思わせるような、どこか無機質な響きが彼の言葉にはある。

 ぼくは彼とそっくり同じ動きで肩をすくめて口を開いた。

「まあ、ぼくはついでというか。この坊やのお目付役のようなものだから」

 ぼくの隣で爽やかな笑顔を振りまいていたカシムが、途端にがたりと椅子を鳴らした。

「……ルーク」

「まあ、それは冗談として」

 地をはうカシムの声に、ぼくは一矢報いた心地よさでにこりと笑う。

「君たちの話を聞いて、ぼくももう少しだけアランについて知りたくなったんだ」

 自分でもウソかホントかわからないぼくの言葉に、ヴィクトールが髪と同じ色の眉を上げた。肩をすくめる仕草に合わせて、彼の身につけたリッチブラウンのTシャツが上下する。デザイン性が高いわけではないけれど、少なくともその辺のスーパーで買ったものではなさそうなシャツだった。サイズは少し大きめだが、かすかに赤みを帯びた深いブラウンは青年の赤髪と緑の目を、このぼくが感嘆するほど完璧に引き立てている。

 この物理学生は、意外と色彩感覚に優れているのかもしれない。このシャツを選んだのが家族でなければの話だけど。

 青年の家族構成について想像をめぐらせ始めたぼくに、ヴィクトールが続ける。

「お目付役ってのが本心では? この人、教会の前でぼくたちに話しかけてきた時も大変な勢いだったし」

「ヴィック!」

 遠慮のないヴィクトールの言葉に、クロエが慌てた様子で声を上げた。

「なんだよ、君だって驚きすぎて絶句してたくせに」

「それは、……知らない人に話しかけられて、少し驚いただけ」

「よく言う。まあ、あの場にイーサンがいなければ、ぼくとクロエは二人はそろって逃げ出していたかもしれないね」

 その言葉に、ぼくは意外な思いで視線をカシムに向けた。寡黙だと評判のイーサンが、この――ぼくの隣で苦笑している――頑固なライオンの相手をしたのか。

「ああ、別にあなたのことを怖いと思ったわけじゃないのよ」周りへの配慮に溢れるクロエが、カシムに向かってフォローらしきものを入れる。「……ただ、ずいぶんと思い詰めた顔をしてたよね。だから、わたしはてっきりあなたが『ルーク』なのかと思ったんだけど」

「あ、そうだ。それについても聞いてみたいと思っていたんだった」

 クロエに向かって笑みを深めるカシムをよそに、ぼくは急いで彼女の言葉尻を捉えた。

「二人とも、ぼくの名前を元々知っていたんだよね。もしかして、アランが何かぼくについて話してた?」

 もしそうだとしたら、思いがけないもいいところだ。あれほど、自分の性的指向を口にすることを恐れていたアランが、よりによってその相談相手の話を友人にしていたなんて。

 そしてどうやらぼくの予想は正しかったようで、アランの友人二人はそろってぼくの質問に「いや、全然」と首を横に振る。

「あなたの名前は、彼の口から一瞬出てきただけだったわ」

「それだってまあ、珍しいことには違いなかったけど」

「たった一度だけ聞いた名前の人をいきなり訪ねるなんて、今考えたらかなり不躾だったなって思うんですけど」

 おおっと。そこに気がついてくれて、なによりだ。欲を言えば、もう少しばかり早く気がついてほしかったな。できればぼくを訪ねる前までに。

「ただ、あなたの名前を口にした時のアランの様子が、あまりにもなんというか、華やいだ感じだったから――まあ、その後すぐに話を変えられちゃったんだけど」

「そうそう。珍しいこともあるもんだと思ったね。それで、クロエがきっと恋人の名前だろうから、絶対にからかったりするなって」

「その忠告は正解だったと思うよ。それで、そのとき君たちの他にぼくの名前を聞いてた人っているのかな?」

 ぼくの質問に、二人はやや面食らった顔をしつつも素直に考え込む。

「トニーもいたよね」

「いたな」

「同じ学部の留学生なんですけど。ヴィックと仲がいいから、時々わたし達と一緒に話したり遊んだりもしてて。たしか、あの時は一緒にいたと思う」

「そのトニーは、アランと仲がよかった?」

 ぼくの言葉に、クロエとヴィクトールはまたしても驚いたように動きを止めた。少しばかり考えるそぶりを見せてから、改めて首を横に振る。

「……たぶん、特に仲が良いわけではないと思うわ。ヴィックを通して顔見知りだとは思うけど、ほかに接点らしい接点なんて持ってないみたいだし」

「いっそ清々しいほど、互いに無関心だな」

「そもそもトニーが、ひどくその……よく言えば人見知りするタイプだから」

「なるほど……」

 ぼくは『よく言えば人見知りするタイプ』と表現される人物のイメージを形にできないまま、わかった風を装って相槌を打った。

「ちなみに、その彼もぼくがアランの恋人だと勘違いしていたと思う?」

「さてね。クロエが『ルークはアランの恋人に違いない!』って断言していた場には、いたと思うけれど」ため息まじりにそう答え、青年が眉を上げた。「――それにしても、ルーク。あなたはなんでそんな質問を、ぼく達に?」

「ああ、別に特に意味はない――」

 適当に言葉を濁したぼくの足を、そのときカシムが横からぽかりと蹴りつけた。一体なんなんだよ! ――という非難を込めて振り返ると、青年が物言いたげにぼくを見つめている。

 わけがわからないまま顔を正面に戻したぼくは、斜め向かいに座るクロエの隠しきれない不審気な様子に気がついて大いに慌てた。彼女の隣で、ヴィクトールがおもしろそうに――そして油断なくぼくを観察している。

 遅ればせながらようやくカシムの言わんとしていることを理解したぼくは、直前まで言おうとしていた言葉をすんでのところで切り変える。

「あーほら、ぼくはアランから色々と相談を受けてたからさ。あの子の友人の話を、こうして本人達の口から改めて聞けて、つい嬉しくて……」

 ぼくのいいわけに、クロエが腑に落ちないと言いたげに首を傾げた。そのクロエの表情に釣られるように、ヴィクトールもまたさらに目を細めてみせる。わかるよ、今のは全くもって、トニーについて聞き込みをする言い訳になってなかったよな。実は密かにアランのことが好きだったのだとかなんとか言った方が、言い訳としてはまだ成立する。

「ええと、クロエ。トニーってもしかして、短髪を逆立ててセットしていたりするだろうか」見ていられないと思ったのだろう。それまで黙って様子を伺っていたカシムが、さらりと横から口を挟む。「わたしはたぶん、君たち二人とアランと、そしてそのトニーが一緒にいるところを見たことがあると思う」

「あら、そうだんたんだ」

「印象に残っていたから、よく覚えているんだ。わたしの知っているアランは、ひとりでいることが多かったから……友人に囲まれているあいつを見られたことが、なんだかとても嬉しくて」

 少し照れたように微笑みを落とすカシムに、クロエの表情がやや和らいだ。これが狙ってのことならば、こいつ、なかなかやる。

 相棒に感謝しつつ、どうやってこのまま話を和やかな談笑へともって行こうかな、とあれこれ考えていたぼくの隣で、カシムが続けた。

「ところで二人は、アランと旅行に行ったことはある?」

 途端にクロエの顔に再び不審げな陰りが走り、ぼくは天井を仰いだ。のっぺりとした白い塗装に、縦長の蛍光灯が二本ずつ並んでいた。なるほど、第三者から見ると脈略のない質問の、なんとはらはらさせられることだろう。

「――このメンバーでそんな話は、出たこともないわね」

「そうか……。じゃあ、彼が着替えるところを見たことは――」

 言い募りかけた青年の足を、今度はぼくがぽかりと蹴り付け、カシムが驚きに見開いた青い目をぼくに向けた。

 そんなぼく達二人に、クロエの低い声がかぶさってくる。

「ちょっと待って。一体なんなの、さっきから」

 そのこわばった声色に、ぼくとカシムは慌てて顔を彼女の方へと向けた。クロエは文字通り、怒っていた――そしてその怒りは、明らかに彼女の深く傷ついた心の表れで、ぼくとカシムは狼狽のあまり音を立てて椅子から立ち上がる。

「違うんだよ、クロエ!」

「誤解だ、わたし達はそんなつもりでは――」

「違うって何? アランの大学生活を知りたいって聞いたけど、明らかに何かの調査をしてるよね。わたしたちを調べ回って、本当は一体何が知りたいの」

 彼女の言葉に、ぼく達は分かりやすく言葉に詰まってしまった。

 思わず助けを求めるようにヴィクトールに視線を向けると、ヴィクトールがぼくの視線の先で皮肉げに眉を上げる。

「まあ、ぼく達がルークにしたことが返ってきたわけだ。調査の対象になるというのはなるほど、あまり愉快なことではないようですね」

 たっぷりと皮肉の効いた冷ややかな笑顔で、ヴィクトールが続けた。

「研究対象である素粒子の気持ちを理解する機会をくれて、感謝しますよ」

「……そうね、わたし達もあなたに同じことしましたもんね。アランの恋人が、彼を自殺に追い込んだのかもって勝手に思い込んで、それを探るためにあなたを訪ねたんだもの。そんなわたし達に、ルークは親切にしてくれたのに……あなたを責めるのはフェアじゃないです」

 長いまつ毛を伏せて落ち込む姿に、ぼくはさらにうろたえてしまった。

「クロエ、ごめん。わたしが悪かった。きちんと話すよ」

 ぼくよりほんの少しばかり早く冷静になったカシムが、クロエの手に自分の手を重ねてお詫びの言葉を囁いた。女性とのふれあいに慣れていないぼくは、そんなふうに触ってクロエは嫌な気がしないだろうかとどきりとしたけれど、幸いぼくの懸念は杞憂だったようで、クロエはその手を振り払うことなく、ただかたくなな視線でカシムを見つめ返した。ぼくとヴィクトールが見守る中、青年が説明を重ねる。

「これはアランのごくプライベートな話だから、口にするか迷っていたんだけれど……ぼくは高校の時、彼の体にちょっとした傷があるのを見たことがあって」

 カシムの言葉にクロエの視線に戸惑いが混じり、ヴィクトールがふっと真顔になる。

「その傷は明らかに誰かからつけられたものだったから、アランがもう痛い目にあっていないか――いなかったのか、確認したくて二人に話を聞きにきたんだ」

「……なるほど、そういうこと」

 クロエがため息混じりにつぶやく。

「改めて二人に聞くけれど、アランが誰かに傷つけられているようなことは、もうなかっただろうか」

 カシムの質問に、クロエとヴィクトールが視線を交わし合った。先に口を開いたのはヴィクトールだった。

「君のその話を聞いて、ひとつ思い出したことがある」

 人を食ったような皮肉げな笑みを消し去り、青年が真剣な表情で続ける。

「ぼくがアランにまとわりつき始めた頃の話なんだが――何かの拍子にアランの背中を手のひらで軽く叩いたことがあったんだ。ほんの軽く、あいさつ程度の強さで」

 説明しながら、ヴィクトールがぽんっと空中を叩いた。ほとんど指しか動いていないような、ごくごくライトな一撃。

「たかだかこの程度の強さで、アランはひどく痛がったんだ。体を強張らせて、真っ青になって、脂汗を浮かべて。さすがのぼくも、これはまずかったのだろうと思ったな」

「それは……いつ頃の話かな」

 カシムがうめくように尋ねる。自分で聞いておきながら、その表情には拒絶の表情が浮かんでいる。

「二年前。正確には、一年十一カ月前の七月二十一日の話だ」

「……よく覚えてるね」

 微量の呆れを含んだぼくの感嘆に、ヴィクトールが「別に」と肩をすくめる。

「あの日はたまたま、剛体力学の教授が授業でやらかした日だったんで」

 二年後まで正確に日付が記憶されるような、一体その教授はどんな偉大な失敗をやらかしたというんだ――と言葉を失うぼくの斜め向かいで、クロエが「ああ、あの日ね」と言いたげに小さく頷いていた。もしかして、その教授は本当に歴史に残るような、とんでもないことをやらかしたのだろうか。

 ヴィクトールが淡々と続ける。

「ただ、それ以来アランには極力触れないようにしていたから、今でもまだ彼に傷があるのかは分からない」

「服が……」

 ヴィクトールの言葉に被さるように、今度はクロエがためらいがちに口を開く。

「服が、変わったの。一年前くらいから――アランって以前はいつでも、袖がここらへんまであるシャツばかり着てたんだ」

 言いながら、クロエが肘より少し先のあたりを指差した。その長さなら、七分丈だ。冬でも半袖で過ごす人が多い亜熱帯気候の街で、その丈の上着を夏でも着ていたというのならさぞ印象に残ることだろう。

「細いから寒がりなのかな、と思ってたんだけど、だんだん袖が短いものを着る日が多くなってて。最近はいつもTシャツを着ているわ。重ね着も見なくなった」

「うん。ぼくが知っているアランも、いつも半袖一枚だ」

 ぼくの言葉にクロエが頷いて、その視線をカシムに向けた。

「これであなたの懸念が全て晴れるとは思わない。それでも多少は――」言いかけてそっと目を伏せる「あなたの気持ち、分かるよ。この部屋のみんなもきっと同じ気持ち」

 クロエの言葉に、ぼくもまた神妙な顔をしてまぶたを伏せた。懸命に自分とカシムの気持ちの共通点を探し回っていたぼくに、ヴィクトールがとんとんとテーブルを指先で叩いて合図を送ってくる。そして、自分とカシムを交互に指差しながら眉を上げてみせた。『みんなってぼくも含まれるのか?』と言いたいのだろう。ぼくは猛スピードで何度も小刻みにうなずき、必死の形相でその指を下ろすようヴィクトールに目配せを送る。

 少しの間、何かを考え込んでいたカシムが、クロエとヴィクトールに向かって笑顔を見せた。爽やかな笑みというにはやや陰りがあったけれど、それでもまあ、魅力的な笑顔には違いなかった。

「ありがとう。二人の話が聞けて良かったよ、本当に」

「大した話はできなかったわ」

「いや……大学に入ったことがきっかけで、彼への暴力はなくなったのかもしれないと、そう思えた。――ありがとう」

 そのお礼の言葉が合図となって、事情徴収もどきは幕引きとなった。ぼく達四人はばらばらと席を立ち、エレベーターへと向かう道を歩き始める。

 あの殺意に満ちた手紙の差出人がアランの知人だった、という考えは短絡的すぎたかもしれないな。

 この数十分の話を頭で反芻しながら、ぼくは小さくため息をつく。筆圧で所々に穴の開いた、差出人不明の七枚の手紙。その紙の一枚一枚に宿る、抑えがたい憎悪――アランの友人である三人や、今の話に出てきたトニーがぼくに対してあんなむき出しの感情を昂らせるイメージが少しも湧かなかった。まあ、そう思えたこと自体が収穫かもしれない。アランの体の傷がもう癒えかけていたという可能性も、ぼくを大いに安堵させていた。

 この後に控えたイーサンとの話が終わったら、帰りにニューファームに寄ってパンでも買って帰ろうかな。……いや、それだとかなり遠回りになるし、それならいっそアッパーマウントグラヴァットまで車を走らせるのもありかもしれない。

 すでに帰宅へと意識がシフトし始めていたぼくの隣に、その時ヴィクトールが大股で追いついてきた。少し意外な気がして、ぼくは思わずちらりと視線を彼の方へ向ける。横幅はぼくの方がたくましいけど、身長はおそらく、ほぼ同じくらい。

「さっき聞きそびれたんですがね、ルーク」

 鮮やかな緑色の目を前方に向けたまま、ヴィクトールが話を切り出した。あまり社交的でなさそうな彼に話しかけられて驚くぼくに、赤髪の青年がさらりと続ける。

「あなた、最近誰かに命でも狙われ始めました?」







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