17-7「空間識失調」

 僕らにとって、何をしなければならないかははっきりと分かっていた。

 ケレース共和国がどの様な意図の下に王国を助けてくれるのか。純粋(じゅんすい)な善意からか、あるいは、何か思惑(おもわく)があってのことなのか。それは、分からないし、どうでもいいことだ。

 僕らは必ず、今回の食糧の輸送を成功させなければならない。


 王国は飢餓(きが)に陥(おちい)りつつあり、本当に食べるものが無くなってしまえば、この戦争に負けるしかなくなってしまう。

 戦争に負ければ、王国という国家はこの世界から消滅し、僕らは連邦か帝国、そのどちらかの言うことに黙って従う他は無くなってしまう。


 連邦や帝国が、王国の主権を尊重し、僕らに内政の自治権なりを認めてくれる可能性は、決して、ゼロではない。

 だが、最初からそんなことをアテにすることは、あまりにも危険すぎる。

 そもそも王国の主権を尊重するつもりがあったのなら、連邦も帝国も、王国に攻撃など実行しなかったはずだからだ。


 王国は、僕らは、戦う以外の選択肢を持っていない。

 戦いの結果、連邦や帝国の攻撃を跳ねのけるか、あるいは、王国と僕らがこれから先も自立して存在することを認めさせるかしなければ、王国は王国として存立できないし、僕らは僕らとして生きていくことができない。

 これは、僕らが戦っているこの戦争とは、そういうものだ。


 ケレース共和国から出発する、食糧を輸送する船団は、作戦通りに行けば王国を経済封鎖している海上封鎖線を突破して来ることになっている。

 できるか、できないかは、僕ら301Aにとっては、完全に考慮の範囲外だ。

 何故なら、僕らは王国からそれほど離れた所までは飛んでいくことができず、ケレース共和国の船団が無事に封鎖線を突破してくれないと、何もすることができないからだ。


 僕らは、封鎖線の突破が無事に成功するという前提の下に作戦を立て、打ち合わせをし、護衛を成功させるための準備を開始した。


 さっそくだが、これまで行って来ていた、増槽を使用しての長距離飛行の訓練が役に立つことになる。

 ケレース共和国からの船団が封鎖線を突破した後は、王国がその護衛を引き継ぐことになっているのだが、その、護衛を引き継ぐ場所まで飛行して上空で戦闘空中哨戒を実施するためには、どうしても増槽を使った航続距離の延長が必要だった。

 護衛をする場所までの距離も離れているし、船団の上空で少しでも長い時間、護衛を実施するためには、長い航続距離が不可欠になる。


 作戦の実施が決まった翌日、僕ら301Aは実際に護衛任務を実施する時を想定し、船団を守ることになる空へと向かって飛んだ。

 作戦をより確実に成功させるためには、戦場となるはずの場所を確認しておかなければならないし、そこまで確実にたどり着き、そして、そこから基地まで迷うことなく帰って来られる様にしておかなければならなかった。


 今回の作戦のために、久しぶりにハットン中佐がプラティークを操縦し、僕らを誘導してくれることになっている。

 ただ単に長距離飛行をするだけなら、訓練の成果もあって僕らは何とかこなすことができるだろうが、今回、僕らは陸地の全く見えない海の真ん中まで飛行し、しかも常に移動を続けている船団の上空にどうにかしてたどり着かなければならないから、訓練と比較するとずっと難度が跳ね上がっている。


 目印も何もない洋上を飛行し、どこにいるかが正確には分からない船団と無事に合流するためには、操縦者の他にも搭乗員がおり、航法に集中できる人が乗っているプラティークによる誘導が必要だった。


 王国の南部へとやって来た時、僕は海の上を飛ぶというだけで気分が高揚してしまうほどだったが、それから数ヶ月が経った今は、さすがにかなり冷静になって飛ぶことができる様になっている。


 それに、この空にもだいぶ馴染んだと思う。

 航法の訓練では天体観測や地図の見方、計算のしかた以外にも、目に見える様々なものを覚えることが大切になって来る。

 例えば、海に浮かぶ島々の形や、遠目に見える山などの目立つ地形の形、目印になる街や村などの人工物の見え方など、自分の現在位置を知るために役立つ情報をしっかりと頭に叩き込んでおかなければならない。

 航法を覚えるために、僕は必死になって、王国南部の空から見ることができる景色を記憶して来た。最初は見るもの全てが新鮮に思えた王国南部の空も、そのおかげで今ではすっかり僕の庭の様になっている。


 それでも、ハットン中佐が直接操縦するプラティークに誘導されながら、陸地が少しも見えない洋上へと出ると、それまでにない感覚がした。


 右を見ても、左を見ても、前を見ても、後ろを見ても、青。

 上も下も、当然、青。

 青と青の間を、僕らは飛んでいる。


 何と言うか、不思議な感覚だった。

 空中にふわふわと浮かんでいる様な、そんな感覚だ。

 いや、僕らは飛行機に乗って飛んでいるのだから、空に浮いているのだが、そういうことを言いたいのではない。

 自分がどこにいるのか、自分がどんな状態にあるのか、それがあやふやになって、分からなくなる。そんな感覚だ。


《ちょうどいい。……ハットン中佐、こちらレイチェル中尉。ちょっと、やっておきたいことがあるのですが》


 僕がその奇妙な感覚について悩んでいると、無線にレイチェル中尉の声が聞こえてくる。


《レイチェル中尉、こちらハットン中佐。どうしたのか? 》

《いえ、ちょっと空間識失調について、もう一度教えておいた方が良いかと思いまして。予定にはありませんでしたが、よろしいでしょうか? 》

《そうか、そうだな。よし、中尉、よろしく頼む》


 空間識失調というのは、訓練課程で習ったことがある。

 視界不良時など、パイロットの感覚では、自機の状態がどうなっているのか、判断できなくなってしまうことがあって、その、自分の状態が分からなくなってしまうことを、空間識失調と呼んでいる。


 つまり、自分が操縦している機体が真っ直ぐに飛んでいるのか、上昇しているのか、下降しているのか、旋回しているのか、それらの状態を人間が自然に持っている平衡感覚などで理解できなくなる状態のことだ。

 これは、パイロットにとってはとても怖い状態で、しばしばパニック状態に陥(おちい)り易い。

 人間には生存本能があり、自機の状態が全く分からない状態で危険を感じてパニックとなると、墜落などの危険を回避するべく無理な操作を行い、かえって墜落してしまうという事故が起こってしまうのだ。


 これは、僕らの様な経験の浅いパイロットで特になりやすい状態だったが、時には経験豊富なベテランのパイロットでもなってしまうことがある。


 空間識失調に陥(おちい)った時、パイロットは「計器を信じろ」と教わる。

 空間識失調になってしまった時に事故につながる一番の原因は、自身の平衡感覚が麻痺し、正常に機能していないのに、その自身の感覚を信じて無理な操縦をしてしまうことだった。

 だから、パイロットは自身の感覚ではなく計器を確認し、計器の表示に従って自機の状態を冷静に理解することが、事故を回避するために重要だとされている。


 当然、僕らもそのことは知っている。

 それを、今さら、レイチェル中尉はどうしようというのだろうか?


《よぉし、301A全機、ちょっと、背面飛行して見ろ。ホレ、機体をロールさせろ! 》


 僕にはレイチェル中尉の意図がよく分からなかったが、とにかく、命令は命令だ。

 僕は言われた通りに機体を背面飛行の状態とし、他の僚機たちも同じ様に機体を背面飛行させた。


《いいぞ、全機、そのまま! おーし、そしたら、ちょっとだけ目を閉じろ! 3つ数えるのが怖けりゃ、1つか2つでもいい! 》


 背面飛行の状態で目を閉じろと言われると、結構、恐ろしい。

 だが、レイチェル中尉には、何か意図があるのだろう。僕は言われた通りに目を閉じ、2つ数えてから再び開いた。


 目の前に見える景色は、少しも変化しない。

 右を見ても、左を見ても、前を見ても、後ろを見ても、青。

 上も下も、当然、青。


《ところで、おい、ミーレス! 今、どっちが下で、どっちが上だ!? 》


 そして、レイチェル中尉は唐突に僕に話を振った。

 この感じも、ずいぶん、久しぶりだ。だが、ちょっとだけ懐(なつ)かしかった。


《はい、中尉! 今は上が下で、下が上です! 》

《そおだ、正解だミーレス! 簡単な質問だったな。何しろ、あたしらはついさっき背面飛行に入ったんだからな。……だが、これが、空中戦で、あっちにこっちに旋回して、ぐるぐるぐるぐる回りまくった後だとどうだ? 自分の目で見て、咄嗟(とっさ)に上下を正確に判断できるか? 》


 僕は、上と下に広がる青を見比べてみた。

 どちらの青も微妙に違う色をしてはいるが、空中戦中に激しく動き回って、平衡感覚を失っている時にすぐにどちら側が海で、空なのかを判断することは難しい様に思える。


 例えば、僕から見て上の方には、波の揺らめきが微かに見える様な気がしたが、しかし、敵機と戦っている様な状況でじっくりと観察している時間などあるはずが無く、一見しただけでは、正確な判断ができるかどうか自信が無かった。


《いいか、お前ら! これが海の上の恐ろしいところだ! 今までみたいに陸地が見える場所で飛んでいるのとは、今度の戦場は違う。上も下も青、咄嗟(とっさ)に見分けをつけるのが難しい戦場なんだ。……経験が浅い内は特に怖いだろうし、自分の感覚を信じたくなるだろうが、人間ってのはよくできている様でそうじゃない。迷ったら必ず計器を信じろ! 整備班が必死になって整備して、お前らが大事にしている機体を信じろ! 自分たちに何ができて何ができないかを、よく覚えておけ! 》

》》》》


 レイチェル中尉が言おうとしたことは、僕にもよく理解することができた。

 これは、確かに、何も分からなくなってしまう。

 今は訓練だし危険は小さかったが、実戦中に同じ様な状況に陥(おちい)った時、自分が生きのびるためには、レイチェル中尉が言った様に、計器を信じるべきだろう。


 自分の感覚がアテになるかどうかを証明してくれるものは自分自身しか存在し無いが、計器は何人もの人々の手によって、正常に動作することが保障されている。

 どちらも人間が関わることである以上、完全では無いだろうが、どちらを信じるべきかは明らかだ。


 空間識失調は怖い、怖いと聞いてはいたが、洋上では特に危険だということがよく分かった。

 ついさっき僕が抱いていた不思議な感覚の正体も、おかげではっきりとした。

 あれは、空間識失調に陥(おちいる)る兆候だったのだ。


《よぉし、全機、水平飛行に戻れ! 訓練を続けるぞ! 》


 僕らはレイチェル中尉の号令で機体の姿勢を元に戻し、そのまま訓練を続けた。

 この、美しく、危険を隠している空が、次の僕らの戦場となる。

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