15-6「フェリー」
列車の窓を開くと、海からの風がぶわっと車内に躍(おど)り込んで来る。
ライカとアビゲイルの髪が揺れ、2人は楽しそうな悲鳴を上げて自身の髪を抑えた。
その風は、独特のにおいがする。
僕はそのにおいをかいだことが無かったのだが、アビゲイルから、「これが海のにおいだよ」と教えてもらった。
僕は、窓を開いた姿勢のまま、ずっと海を眺め続けた。
王国南部は冬でも温暖で、暖かな太陽光を浴びた海はキラキラと光り輝き、その上を大小さまざま、いく隻もの船が白波を立てながら進んで行く。
ミャア、ミャア、と猫の様に鳴く鳥が風をつかんで舞っていた。
ずっと、思い描いて来たことがある。
この海と、空の間で、仲間たちと一緒に飛行することだ。
絵や写真では見たことがあるが、実際はどんなものかも分からない海の上を、仲間たちと一緒にどこまでも、どこまでも飛んでいく。
戦争など関係なく、ただ楽しむために飛ぶ。
それは、どんなに素晴らしい瞬間になることかと、僕はずっと夢に見て来た。
そんな望みはとても叶わないだろうと、諦めていた。
だが、どんな偶然か、それが現実のものになろうとしている。
海の青と、空の青。
同じ青なのに少しも同じではないその2色の世界の狭間(はざま)で見る光景は、どんなものなのだろう?
僕の胸は、期待に膨(ふく)らんだ。
だが、僕はすぐに、海が素晴らしいだけでは無いと、知ることになった。
列車がタシチェルヌ市に到着すると、僕らは小休憩となって、昼食をとることになった。
短いが自由行動ができる時間で、そこで僕らは港町の料理を堪能(たんのう)し、ほんの少しだけだが街を歩き、その雰囲気を楽しむことができた。
僕は魚を食べたことはあったが、それは家の近くで釣って来た川魚などで、海の魚というものや、貝といったものは食べたことが無かった。
レイチェル中尉やカルロス軍曹たちについて行って入ったレストランでは、それら魚介類をふんだんに使った料理が提供されていた。
最初は驚かされたが、その味は素晴らしかった。
トマトという野菜をベースにハーブなどで風味を整えたソースが、パスタと呼ばれている麦でできた細長い麺に絡められ、何種類もの魚介類が具として盛り付けられている料理を食べたのだが、食べる以外のことを忘れてしまうほどに美味しかった。
アビゲイルが盛んに、故郷の味を懐かしがっていたのもうなずける。
その時、僕は幸福だった。
生まれて初めて海を見ることができたし、素晴らしい食べ物とも出会うことができた。
僕にとって、今日は人生で最良の日の1つになるに違いない。
僕はそう思っていた。
だが、そのわずか1時間後には、この世界の全てを呪っていた。
原因は、船酔いだ。
僕らは食事休憩を終えた後で港に集まり、クレール市へと向かう定期航路で運航されているフェリーに乗り込んだのだが、フェリーが出発して5分もするともう、気分が悪くなってきた。
地面が、揺れている。
それは正確にはフェリーの甲板なのだが、僕にとっては地面だ。
そして、地面は普通、揺れることは無い。
フェリーの上の地面は、不規則に、急になったり、ゆっくりになったりしながら、繰り返し揺れていた。
一瞬も途切れることなく、揺れ続けている。
僕は、揺れる乗り物には乗り慣れているはずだった。
乗馬すれば上下に揺れるのが当たり前だったし、自動車だって走ればずっと揺れている。飛行機も、飛んでいれば揺れる。
乗馬はどんな風に揺れるか大体分かるのでうまく対応できたし、自動車の揺れ方には規則性があって慣れることができた。飛行機の揺れは、操縦桿を僕自身が握って制御しているので平気だった。
だが、これはダメだ。
船の揺れは、ダメだ。
気持ちが悪い。
こんなに気分が悪いのは、初めてだ。
乗船してから30分ほどで、不快さにこらえきれなくなった僕はフェリーの舷側(げんそく)に駆け寄り、眼下の海へ向かって胃の中を空っぽにしていた。
せっかくのご馳走が魚たちのエサになってしまったが、多少はそれで楽にはなった。
だが、多少は、だ。
僕は吐き出せるものが無くなってしまうと、そのまま甲板にへたりこむしか無かった。
それは僕だけではなく、ジャックも一緒だった。
彼もまた僕と同じ様に船室から甲板へと駆け上がって来て舷側にかじりつき、胃の中を空っぽにしてしまうと甲板に座り込んで、真っ青な顔をしたまま苦しそうな呼吸を繰り返している。
しゃべる気力も無い様だった。
ライカも、具合が悪い。
彼女は僕らと違って不快感に何とか耐えている様だったが、船室でじっとしていることはとてもできず、風に当たって少しでも不快感を取り除こうと甲板へと上がって来た。顔色は悪く、僕らの近くで壁によりかかりながら、ハンカチで必死に口元を抑え込んでいる。
海が初めてという人々は、部隊の中にたくさんいた。
船の揺れが平気という人もいたが、僕らと同じ様に苦しんでいる人は多い。
「だらしないねぇ。この船、ほとんど揺れてないじゃないか」
そんな僕らの姿を、アビゲイルが呆れた様な顔で見下ろしている。
彼女は、船酔いは全く平気である様だった。
さすがは港育ちと言ったところだろうか。
僕はこれまで自分の生まれと育ちに不満を持ったことは無かったが、この時ばかりは彼女のことが羨(うらや)ましかった。
アビゲイルによるとこのフェリーは船としては大きい方のもので、揺れの程度としては小さい部類に入るのだそうだが、その事実は僕らにとっては少しもなぐさめにはならなかった。
アビゲイルと同じく王国南部の出身で、海の近くで生まれ育ったレイチェル中尉も船酔いは問題にならない様子だった。
中尉も船室から甲板へと上がって来ていたが、それは煙草を吸うためであって、壁によりかかり、苦しむ僕らを眺めながらぷかぷかとやっている。
何と言うか、実に美味(うま)そうに煙草を吸っている。
「船酔いに苦しむ僕らを見下ろしながら吸う煙草はまた格別」などと思っていないことを祈るばかりだ。
カルロス軍曹も、一見すると船酔いは平気そうだった。
彼はレイチェル中尉と一緒に甲板へとやって来たが、元々喫煙者ではないため、今は黙って壁によりかかりながら海風に当たっている。
「軍曹。さすがだな。このひよっこどもとは鍛(きた)え方が違うか? 」
「ええ。もちろん」
だが、僕は、レイチェル中尉の問いかけに顔色一つ変えずに答えたカルロス軍曹の言葉が、かすかに震えていたことを聞き逃さなかった。
軍曹はクールに振る舞ってはいるが、実際には船酔いを我慢しているのだろう。
僕が良く知っている人たちだと、他には、ハットン中佐、クラリス中尉、アラン伍長、そしてカイザーなどは、船酔いは平気であるらしかった。
ハットン中佐は若い頃ヨットを乗り回していたこともあったらしく、意外にも船には慣れている様だった。クラリス中尉もまた、クレール市に療養のために何度も通っていた経験があり、船には乗り慣れているらしい。アラン伍長も実家が港で水先案内人をやっているということだったから、船の揺れは問題にならなかった。カイザーも、ベルランの開発に関わるためにクレール市にいたことがあり、船にはその時に慣れたのだそうだ。
だが、ハットン中佐たちの様になるほどと思える理由がないのにも関わらず、船の揺れが気にならないという人もいる。
体質というやつなのだろうか?
人によってこうも違うのかと思うと、何とも羨(うらや)ましい、いや、恨めしかった。
だが、理不尽なこの世界を呪っても、何も改善はされはしない。
僕は、ただ、1分1秒でも早くフェリーがクレール市に到着し、揺れることの無い本物の地面の上を歩ける様にと祈り続けた。
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