14-8「追跡者」
僕は、追手が迫って来ているという恐怖のあまり、とても耐えきれずに走り出した。
とにかく、最初の目的にしていた森の南側に向かうため、そこへと続いているはずの道を走った。
僕はそのつもりだったのが、途中、木の根っこに足を取られてよろめかされてしまったことで、いつの間にか道から外れて、どことも分からない森の中に迷い込んでしまっていることに気づかされた。
犬の鳴き声を耳にしてから、何分が経っただろう?
追手は、どこまで近づいてきているのだろう?
家を出る時に僕はいろいろと小細工をしてきたつもりだったが、どうやら、それらはあまり効果が無かった様だった。
そう思うしかない。
実際に、僕は今、連邦軍に追われている。
それにしても、何て勘の鋭い軍用犬なんだ!
僕を追って来ているということは、連邦軍の軍用犬は僕のにおいをちゃんと嗅(か)ぎ分けることができているということだ。
しかも、森の中には雪が残っているから、僕の足跡(あしあと)もしっかりと残ってしまっている。
つまり、連邦軍は、確実に僕を追いかけてくることができる。
自分が意図していない方角へ向かっていることは理解できたが、それでも、僕は走り続けるしかなかった。
立ち止まっていては、やがて、確実に、追手が僕に追いついて来てしまうからだ。
森の中は、木々の根っこや、元々の地形などで、少しも平らでは無かった。
だから僕は何度も転びかけ、そして、積もった雪に足を取られた。
枝にぶつかり、顔に擦(す)り傷ができたが、そんなことにかまってはいられない。
とにかく、逃げ続けなければ。
走り続けている内に、眼が暗順応してきて、少しずつ周囲の様子が分かるようになってくる。
明かりがあるうちには気がつかなかったが、慣れてくると、森の中に何があるのか何となく分かるようになってきた。
木々は黒く、雪は白く見える。その濃淡があるおかげで、どうにか、そこに何があるのかが分かるようになってくる。
僕は走るペースを上げた。
走り続けながら、僕は必死になってどうやって追手を振り切るかを考える。
暗闇に眼が慣れ、状況が分かるようになってくると、恐怖と焦燥(しょうそう)で押しつぶされた様になっていた僕の頭にも、そういうことを考える余力が生まれていた。
家を出る時にやった様な工作をもう1度やっている余裕は、もう無い。
僕が何かをすれば、その何かをしている間に追手との距離がどんどん縮まってしまうだろう。工作を今度こそ有効なものにできるとしても、それをやっている間に追いつかれてしまってはどうにもならない。
僕は無い知恵を振り絞りながら走り続けたが、やがて、目の前の視界が開けたことに気がついた。
そして、足元がぬかるみ、ブーツがすっぽりと埋まるくらい地面の中に沈み込む。
冷たい感触が、地面に沈み込んだ側の足から這(は)い上(のぼ)って来た。
それがブーツの中に染み込んで来た水の冷たさだと気づくのと同時に、僕は、いつの間にか自分が沼地へと迷い込んでしまったことに気がついた。
僕は、家から出た後、小川沿いに進んで、森へと入った。
樵小屋(きこりごや)で休んだ後は南へと向かうために小川の流れとは別の方向へと向かったが、その小川沿いをそのまま進んで行けば、やがて沼地に続いている。
僕はどうやら、迷った末に、森の先にある沼地へと行きついてしまったらしかった。
これには、いい意味と、悪い意味がある。
いい意味は、僕がもう、迷子ではなくなったということだった。
僕が向かいたいのは森の南側で、沼地は森の東側にある。
沼地についてしまったということは、僕は南ではなく東へと向かって逃げていたということになる。だとすれば、ここから右に曲がり、沼地と森の境目を進んで行けば、いつかは必ず、森の南側へと抜けることができる。
そして、悪い意味というのは、僕の逃げ道が限られてしまったということだ。
沼地の中には入って行くことができないし、森の中に戻ったのではまた迷子になってしまうだけだ。
僕は南に向かって、沼地と森の境目を進むしかなく、足元はぬかるんでいるからペースはあがらないし、足跡(あしあと)もはっきりと残ってしまい、追手からすれば追うのがずっと楽になるだろう。
だが、僕には選択肢は無かった。
少しでも追手との距離を開くために、僕は進み続けるしかない。
幸い、開けた沼地に出たことで月明かりを得ることができて、森の中よりもかなり視界が良くなっていた。
昼の様に、とまでは行かないが、少なくとも、沼地と森の境目を歩いて行くことは可能だ。
楽な道のりではなかった。
沼地と森の境目は分かるが、分かるのは大体の境目で、足元はしっかりとした森の地面とぐちゃぐちゃにぬかるんだ沼地の地面が複雑に入り混じっている。
僕は何度も足を取られ、手を突き、いつの間にか泥だらけになってしまっていた。
しかも、沼地の冷たい水で、すっかり濡(ぬ)れてしまった。
かなり気持ちが悪かったし、下手をするとこのまま体温を奪(うば)われて身動きが取れなくなってしまうかもしれない。
昼間は、日の当たるところに積もっていた雪がすっかり溶けてしまうほどに暖かかった。
だが、夜になって太陽の光が無くなると、気温は一気に下がった様に感じられる。体温がどんどん奪(うば)われていくのをはっきりと感じ取ることができるほどだ。
普段なら、こんなことはへっちゃらだった。
ちょっとした冒険くらいに思えたことだろう。
濡(ぬ)れた服は脱いで洗濯(せんたく)すればいいだけのことだったし、暖かい暖炉であったまり、汚れた身体は拭(ふ)いてきれいにすればいいだけだ。もちろん、着替えだってある。
だが、僕は今、孤立無援の逃亡者でしかない。
そんなことをできるはずはなかった。
そして、追手は、すぐそばまで迫って来ている。
ワン、という、鋭い鳴き声が、僕のすぐ近くで聞こえた。
僕は心臓が跳ね上がるのを感じながら、咄嗟(とっさ)に、その鳴き声が聞こえてきた方向に身体を向けて構えを取る。
僕が身構えるのとほとんど同時に、森の暗闇の中から1つの塊が飛び出してきて、僕へ向かって飛びかかって来た。
森の暗がりから姿を現した瞬間、月明かりで、一瞬だけその塊(かたまり)の姿が見えた。
枯草の様な色合いの短い毛並みと、ピンと立った三角形の耳、くるりと丸まった尻尾を持つのが特徴的な、見たことの無い種類の大型犬だ。
その軍用犬は、その牙を僕へ向かって突き立てた。
僕は首筋をかばうために左腕を身体の前へと突き出し、軍用犬は僕の左腕に噛(か)みついた。
鋭い痛みが走る。
僕は軍服の上に厚手の生地のトレンチコートを身に着けていたから、軍用犬の牙は簡単には僕の身体には到達しないはずだった。
だが、軍用犬は凄(すさ)まじい力で僕の腕を噛(か)み、いつ、その牙が僕の皮膚(ひふ)を突き破ってもおかしくは無かった。
あるいは、軍用犬の牙が僕の皮膚(ひふ)を突き破る前に、僕の腕の骨が砕かれてしまうかもしれなかった。
少しでも早く軍用犬を振り払わなければ、僕は深手を負うことになるだろう。
僕は反射的に、僕の左腕に噛みついている軍用犬を、沼の水の中に叩きつけた。
ぎゃいん、と悲鳴を上げて、軍用犬は僕から離れてくれた。
それは水の冷たさに驚(おどろ)いただけのことで、軍用犬の闘志は少しも衰(おとろ)えを見せない。
軍用犬は態勢を立て直すと、ぐるるるる、と唸(うな)り声をあげながら、再び僕へ噛(か)みつくために姿勢を低くし、いつでも飛びかかれる態勢を作る。
僕は少しでも早くこの場から逃げ出さなければならなかったが、僕が隙(すき)を見せた瞬間に襲いかかろうとしている軍用犬へ、背中を見せるわけにはいかなかった。
だが、僕には、この軍用犬と時間をかけて対峙(たいじ)している余裕は無い。
軍用犬が僕に追いついて来たということは、連邦軍の兵士も、すぐ近くまで追いついて来ているということに他ならないからだ。
※作者注
ここで出てくる軍用犬は、秋田犬がモデルです。
秋田犬の原型はマタギ犬と言うそうで、昔の猟師が狩猟の供に連れていた種類らしいので、主人公の偽装工作を見破って追跡して来る優秀な軍用犬として登場させてみました。
「それにしても、何て勘の鋭い軍用犬なんだ!」は、某有名スツーカパイロットのマネです。といってもこちらの主人公は主人公補正控えめなので真逆のセリフになっています。
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