25.かなとなお 四

 端と端、間に合う距離では到底なくて。そう分かってしまっていたから足は一歩も動かなくって。

 かなちゃんは手を振り続け、分かっていない、それが羨ましくも思えてきて。

 目をそむける勇気もない僕は、ただ、なお君が柵を上ろうとしている姿を視界に収め続け。

 極限にまで間延びされた世界の中で。

 ザリッ――、あまりにも大きなノイズが僕を呼び戻した。

 すぐ近く、それは砂利を蹴り上げた音だった。髪がなびき、スカートがひるがえる。

 僕も須藤も、小湊さんですら固まり動けない、声も出せない状況で。ただ一人、千佳だけが走り出していた。

 間に合わない。

 それくらい、千佳だって分かってる筈なのに。


「っ!」


 僕も走り出していた。

 地面を強く蹴りつけて、腕を大きく振って加速する。

 突然走り出した僕たちに驚く周りの目には気にも留めず、ただ一直線になお君の下へと駆け抜ける。

 ――距離がある。かなちゃんの声も届いていない。今から向かったところで間に合う訳がない。

 理にかなわないと反証が次々浮かび、足を止めようとする。けれど。

 。現に千佳は走ってる。

 鎖のようにからまろうとする思考をかなぐり捨てて、千佳の背中を追いかけた。

 やけに鼓動が大きく聞こえ、荒々しい自分の息遣いがなぜか笑えてたまらない。

 視界のなかでは柵に体を預けたなお君が、その柱に掛けられた黄色い帽子を取ろうと右手を伸ばし、バランスを崩した。

 まるで鉄棒かのように、柵を軸にくるりと回転するなお君は頭から柵の向こうへ身を投げる。


「っ――――!」


 落ちた。

 そう頭で理解した次の瞬間、落ちいくなお君の背中に影が飛びついた。

 なお君はその影に縫い留められ、ぶらんと垂れ下がっている。

 なお君もその影も動きを止めて、そこで千佳と僕はようやくなお君の元へと辿り着いた。

 影は、茶褐色をしていた。

 よく見ればそれはボーイスカウトのような制服で、なお君が落ちることをバッグハグで抑えていた。


「こら、駄目ですよ? 柵に登ったりしたら」


 存外に優しい声音には聞き覚えがあった。

 雁ヶ原アドベンチャーパーク、この施設の管理人兼広報官、自称、フォレストレンジャー小早川その人だ。

 僕たちの前で、小早川さんはバッグハグのままブリッジするかのように腰を反らし、なお君をこちら側へと引き戻して地面に降ろした。そして、なんとはなしに柵の柱に掛けられていた黄色い帽子を手に取ると、なお君に差し出した。


「はい、帽子」


 なお君は地面に降ろされたまま、その場に座り込んでいた。状況が飲み込めていないのか、ぱちくりと目をしばたたかせる。

 小早川さんはくすっと笑い、再び帽子を差し出した。


「次からはですね? 無理に自分で取ろうとせずに、近くにいる大人の人にお願いするんだよ? 私とかね!」


 そのくだけた笑みを見た途端、なお君の表情にも色が戻り。


「ありがとう、ございます」


 差し出されていた帽子を受け取った。


「うん、よく言えました。それから……お姉ちゃん達にもね?」


 小早川さんは息を切らせている僕たちに目を向け、なお君に促す。


「ありがとう、ございます? ――ぁ」


 なお君は不思議そうな顔で僕たちにお礼を言い、そこで僕たちの後ろに目を向けて気づいたようだ。


「なおくーん!」


 かなちゃんが手を振りながら駆けてきており、須藤と小湊さんはほっとした表情を浮かべてゆっくりと歩いてきていた。


「なおくーん!」


 なお君の表情がやわらぐ。

 かなちゃんはそのままなお君の首元に腕を回して抱きついた。


「もう! いっぱいさがしたんだから!」


「……うん」


 なお君はされるがまま、ぎゅっと抱きしめられている。


「まいごになっちゃ、め! なの!」


「ごめんなさい」


「もぉ、ほんとーに、いっぱいいっぱいさがしたんだからね!」


「うん」


「こんなとこ、のぼっちゃめっ! なの!」


「うん」


「あぶないの! けがしちゃうの!」


「うん」


「も~~、なおくんは、おねえちゃんのわたしがみてないとだめなんだからっ」


 かなちゃんはひとしきりなお君に怒っている。

 しばらくは二人きりにした方がいいのかもしれない。


「千佳、少し――」


 ――離れようか。そう言い切れなかったのは、千佳が二人の様子を見ながら、目を鋭く細め、口を固く結んでいたからだ。


「っ、大丈夫です」


 千佳はこちらに気づき、はっとして言いつくろった。


「大丈夫、大丈夫ですから」


 けれど、その表情は強張ったままで、いつも千佳が浮かべている笑みとは違い、なにかの一押しですぐに壊れてしまいそうな、ガラスのようなもろい笑みに見える。

 千佳もその自覚があるのか、ふつと視線を切る。

 そして、その割れそうな笑みを顔に張り付けたままかなちゃんの元へと向かい、


「――え?」


 かなちゃんを、背中側から抱きしめて、抱き上げて、たかいたかいをするかのように持ち上げた。


「わっ、わわ?!」


 かなちゃんは急に持ち上げられて足をバタバタするけれど、千佳はかなちゃんを持ち上げたまま柵に寄っていく。


「ぇ――、こわいこわいこわい!!」


「…………」


 かなちゃんの目は柵の向こう側、真っ逆まっさかさまの崖下を映している。


「ねぇ、はなして! はなじぃでぇー!!」


「…………」


 千佳は無言のまま、かなちゃんを見ている。

 と、なお君が千佳のスカートのすそを引っ張り、振り向いた千佳となお君が目を合わせた。


「……」


「……」


 千佳はなお君に笑いかけると、なお君はそっと裾から手を離す。


「はぁなぁじぃでぇ~!!」


 千佳は今度こそゆっくりと後退し、かなちゃんをそっと地面に下ろした。


「ふ、ぅ”ぅ”~」


 緊張感はぎたものの、こらえきれなかった恐怖心がうめき声になって漏れている。千佳はそんなかなちゃんの頬をそっと両手ですくい、真正面から顔を合わせた。


「かなちゃん」


「ぃっ、ぅ」


 言葉にこそなっていないが、かなちゃんの表情には訳が分からない、と。どうして、と千佳の突然の行動に対する困惑がありありと浮かんでいた。


「かなちゃんは、なんだから」


千佳は笑う。笑いかける。かなちゃんの表情により一層の困惑が広がって、それでも一層、笑みを深めて笑いかけた。


「あなただけは、彼を褒めてあげないと」


「ぇ 、っ」


 かなちゃんは不思議そうに首を傾げるけれど、千佳はそんなことなどお構いなしに続ける。


「危なくて、ケガだけでは済まないかもしれなくて。怒られることも、分かっていたと思います。それでも、どうしてそうしたのか」


 さとすように問いかける。


「それは、だって、ぼうし」


 なお君は柵の柱に掛けられていた帽子を取ろうとした。その帽子を取るために、柵を上ろうとした。


「そう。そうなんだよ」


「?」


 よくできました、とばかりになお笑いかける千佳に、かなちゃんの表情には大きなはてなマークが浮かぶ。


「なお君はね、帽子を取ろうとしたの。それはどうして?」


「どうして……」


 かなちゃんは困惑の表情のまま、なお君を見て。

 なお君は、一度千佳に視線を送り。

 すっくと一歩踏み出すと、かなちゃんに帽子を手渡した。


「しんぱいかけて、ごめんなさい」


「ぇ?」


 かなちゃんは手渡された帽子と、バツが悪そうに頬を掻くなお君の顔を交互に見た。


「……これ、わたしの?」


 正面に立つなお君は、かぶ。かなちゃんは、僕たちが見つけたときから

 信じられないとばかりにかなちゃんは、帽子を裏表何度か繰り返す。目の前で起こった光景に理解が追いついていない。かなちゃんの表情にじんわりと驚きの色が広がっていく。


「これ、わたしの――、わたしのだ!」


 なおちゃんが手にしている帽子には、側面にチューリップのアプリコットがつけられていた。

 きっとなお君はそれを見て、かなちゃんの帽子だと気づいたのだろう。


「もしかしてだけど。なお君が迷子になったのも、この帽子が原因だと思うよ」


「ぼうしが?」


 かなちゃんはなお君を見て、なお君はバツが悪そうに目を逸らす。


「かなちゃんが帽子をしてなかったから。どこかで落としたことに気づいたなお君は、それを探してるうちにはぐれちゃったんだよ」


 かなちゃんが帽子をしていないことに気づいたなお君は、それを気にしてあちこちに気を向けていた。そのうちにかなちゃんとはぐれてしまい、迷子になった。


「なおくん……」


「……」


 はぐれてしまったものはしようがない。だからせめて帽子だけでも見つけようとして、手に入れようとして柵に上ったのかもしれない。

 なお君は口を閉じたまま。

 それはつまり、千佳の推理が正解だということを暗に告げていた。


「だから、ほら」


 その丸みのある声音は、どこかいたずらめいている。


「たとえみんなが彼を叱っても、分かってあげられなかったとしても。あなただけは、褒めてあげないと」


 なお君は何も言わない。ただ、照れくさそうにかなちゃんから目を逸らし続けているだけだ。

 けれど。それがすべての答えだった。


「……ッ、~~~~っ!」


 疑念は確信に変わり、かなちゃんの心にじわじわと溶け落ちていくにつれ。

 比例するように頬が真っ赤に染まっていった。


「かなちゃん」


 千佳と目を合わせたかなちゃんは、口をぱくぱくとさせていた。声にならないその声が、小さな肩を震わせている。


「ほら」


 千佳が微笑むと、かなちゃんはぐっと息を呑んでなお君に向き直る。なお君はそんなかなちゃんを不思議そうな目で見返して、その目にまたかなちゃんはびくりと体を震わせて。


「~~ぁあ、もぉ!」


 そこからの彼女の行動に、僕は目を丸くした。

 かなちゃんが、なお君をしっかりと抱きしめて。


「――ありがと」


 耳元に顔をよせ、はっきりと、そう口にしたものだから。

 かなちゃんも理解わかってる。けれど、なまじ意識しすぎてしまった彼女はなお君を真っすぐ見ながら口にすることができなかった。

 ありがとうなんて言葉、普段、何気なく口にできている種類の感謝の言葉。ただそれだけの言葉が喉奥につっかかるほど、あまりにもどかしすぎたから。

 かなちゃんはその五文字を伝えるために、強引な方法で直視しないようにした。

 それが抱きしめることだった。

 なお君は抱きしめられるまま、ただ嬉しそうにはにかんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る