第5話 不安

 イヴの宿題を見ていた音無たちだったが、しかし平穏はあまりにも早く消えていった。夏休みの最後ということもあり、あちらこちらで問題が発生したのだ。朝からアルコールを大量に摂取して暴れる大学生や、周囲の人間の迷惑を考えない学生集団などが、時間が経つに連れて続々と出現し、それと比例して通報も増えていった。


 人手があまりにも足りない事態になっている。今年は去年よりも節制のできる者が減っているようだ、と音無は嘆いた。


 しかし去年との比較でいえば、それよりも目を見張ることがある。それは大きな事件が起きていることだ。犯罪の確認はないものの姫ノ宮学園の閉鎖はこの街では大きな出来事であるし、そのあと誰もいないはずの学園内で光の柱などが確認されている。雪柳研究所でも不可思議な波動を感じ取ったと調査を進めているようだが、いまだに進展はないようだ。


 そして人体消失事件と都市警察を狙った殺人だ。あまりにも凄惨なこの二つの事件は誰もが望まないかたちで終幕となる。すべてを上羽實に押し付け、犯人の死亡というかたちで無理に終わらされた。


 そんなはずはないことは少し調べればわかることだ。上羽實の《欠片の力》は「減速」であり、人体を消失させることもできなければ、ましてや白枝畔(しらえだほとり)の《欠片の力》を消失させることもできない。


 別の誰かがいるのは明らかだが、都市警察の上層部は動かない。


 それだけに疑念を持つ仲間たちもまた動けなかった。上層部のあからさまな捜索の中断が、上羽實とともにいた人物、また所属していた組織の危険性を物語っているからだ。中途半端に手を出せば返り討ちに合う。そもそも実力のあった白枝畔ですら敵わなかったのだから、彼女よりも弱い者たちは疑うことができるものの、行動に移すことはできなかった。


 賢明な判断だ、と音無は思う。その判断ができずに、心のままに動いてしまったからこそ白枝は負けたのだ。油断があったわけじゃないだろう。彼女はそんなことはしない。ただ犯罪者を目の前にして、撤退を選べなかったのが彼女の敗因だ。


 しかし誰もが彼女の件から学んで慎んだ行動をとっているわけではない。


 金雀枝との会話を終えて、音無は第五支部に戻ろうと歩いていく。角を折れたところでイヴが待っていた。


「終わったよ」


「じゃあ戻れるんですか?」


「うん。まあ、今のところは片付いているみたい」


 都市警察の人間は基本的に行動力がある。たとえ外の気温が高くとも、部屋の中でじっとしているよりはいいと考える者ばかりだ。だからこそ舞い込んできた大量の仕事もすぐにこなすことができた。


 情報系の担当はそのかぎりではないことは、導の様子からも明らかである。彼女たちは自分の個性と技術を生かしているのだ。


「そうなんですか」と言うイヴの様子が少しおかしいことに気付いた。やけに周囲を気にしているし、心なしか不安そうにも見える。過度な人見知りである彼女だが、外にいるくらいで挙動不審になることはない。


「なにを気にしてるの?」


「あ、ええと……」


 申し訳なさそうにするイヴの頭を音無は撫でた。考えがまとまらないのか、それともなにかのせいで緊張しているのかはわからないが、とにかく気持ちを落ち着かせてほしいと思ったからだ。


 金色の髪は手触りがよく、柔らかかった。


 心なしかイヴの表情から緊張がなくなっているように思える。「もう平気です」と言われ、音無は手を離した。


「それで、どうしたの? もしかしてここじゃまずい話?」


 近くにはまだ他の都市警察の人間がいる。身内には聞かれたくない話もあるだろう。隠しておくべき話もあるのだから、それなりの理由があるのならばここから離れるべきである。


「全然! そんな大層なことじゃないんです!」イヴはブンブンと両手を振って否定をした。


「じゃあなに?」


「その……街の雰囲気がいつもと違う気がするんです」


「まあたしかに少し浮かれ気味ではあるわね」


「その逆なんです」


「逆?」


「沈んだような空気を感じるんです。気のせいかもしれませんけど」


 イヴの言葉を受けて、音無は街の様子を窺ってみた。日中の明るさのせいか、街には笑顔しかないように見える。そんなはずはないのに、目につくのは談笑をしている人たちばかりだ。それが偶然だとするならば、談笑をしている人たちが多いのだろう。この暑さをものともせずに、誰かとの時間を楽しんでいる。


 逆にこの暑さにうな垂れている人も当然いる。彼らからはイヴの言っていた「沈んだ空気」を感じられるが、しかしそれだけで彼女が気にするとは思えなかった。


 イヴの過度な人見知りは、相手の心に敏感に反応してしまうことが起因している。相手がどう思って接してこようとしているのか、どういう心情で目を向けてきているのかを感じ取ってしまう、と本人から聞いていた。


 その特異な体質の持ち主が街の空気に異変を感じている。友達としても、都市警察の一員としても、それは無視できないことだ。


 以前にも似たようなことがあったのを思い出した音無は、別の場所に移動することにした。イヴはそれに従う。


 二人が入ったのは、近くにあったファミリーレストランだ。チェーン店ではなく個人経営だが、店内は混雑していた。これだけ混雑していて賑やかであれば、音無たちだけの声を聞きとることはできないだろう。


 店員に空いていた席に誘導してもらい、二人は向かい合うようにして腰を落ち着けた。さっそくイヴから詳しい話を訊こうとしたが、彼女はメニューを広げて、目を輝かせていた。


「朝ご飯食べた?」


「はい。少しですけど」


「じゃあ、軽くなにか食べましょうか」


 音無は手を挙げて店員を呼んだ。店員を呼ぶボタンがなくて、イヴは少し落ち込んでいたのが微笑ましかった。


 イヴはオレンジジュースとパンケーキを、音無はサンドイッチとアイスコーヒーを注文した。ポニーテールの店員は、同じ女の音無でもどきりとする笑顔を向けて立ち去っていった。


「今の人、綺麗だったわね」


「はい……。ですけど」


「どうしたの?」


「あの人、いっぱい詰まっているようで空っぽです」


 なんのことかすぐにはわからなかったが、どうやら「心」の話をしているらしい。前置かなくても理解してもらえるという信頼は素直に嬉しかったが、あまりにも唐突だと考えることすらできない。


「矛盾してるよ?」


「悪口に聞こえちゃうかもしれないんですけど、だけど今の店員さんを一言で表すなら、それが一番合ってる……感じです」


 普通の人とは違う部類なのか、と音無はさっきの店員の名前を思い出す。胸に名札をしていたため、わざわざ調べることもない。


 その名字は「日神」。


 あとで導に経歴等を調べてもらおうかとも思ったが、しかしそこまでする必要はないと判断した。誰かれ構わず調べ回すのは意外と精神を削られる。


「誰に訊かれたわけでもないのにその話をするのって珍しいわね。いつもは向日葵が面白半分で誰かれ構わず訊いているようだけど」


「びっくりしちゃって、ついぽろっと」イヴは照れたように言った。


「そんなことってあるんだ」


「相手にもよりますけど、たまにあるんです。相手の心に押し潰されそうなときは、声に出して和らげるんです」


「そんなに凄い人なんだ」


 音無の目にはただ美人にしか映らなかったが、それは仮初の姿らしい。その内側には矛盾が孕んでいる。音無にはイヴの感じたものを理解することはできない。いや、イヴ以外の誰にもそれは理解できない。


 だから音無にできるのは、弱く脆い彼女を支えてやることだけだった。


「凄いかどうかはわからないけど、強い心を持っている人だと思います」


「そっか」


 その言葉に、音無は日神の名前を刻まざるをえなかった。矛盾でできた強い心など、いい印象を持てるはずもない。もしかしたら彼女は迷いを抱いていて、今はまだ答えが出ていないからこそ無害な状態なのかもしれない。


 もし答えが出たとき。


 もし矛盾が消えたとき。


 その強い心は、強い決意と覚悟とともに、誰かに牙を向けるかもしれない。そう考えると無視することはできなかった。


 あとで日神に話を聞いてみるのも悪くない選択だが、今はそれよりもイヴの感じた異変を知るべきだ。そう思い、音無は話題を切り替えた。


「以前にも街の空気に違和感があるって言ったことがあったわよね。あれはたしか七月の半ばあたりだったかしら」


「そんなこともありましたね」イヴは嬉しそうに答えた。「憶えてくれてたんですね!」


「ええ、まあ」


 忘れるはずもない、と音無は思った。イヴがそう訴えた日のすぐあとに姫ノ宮学園が閉鎖したのだから。


「そのあとも二回? ありましたよ。七月の終わりと八月の最初だったはずです。なんか変だなあと思うことが続いたので憶えてます」


 七月の終わりは、姫ノ宮学園で光の柱が観測されたとき。


 八月の最初は、人体消失事件と都市警察を狙った事件があったとき。


 どちらもたしかに街で異変は起きており、イヴの感覚の信用性は高まる。となると、今回もまた街でなにかが起きるということだ。


 あるいはすでに起きている可能性も――。


「今日感じたのも同じ空気だった?」


「ちょっと違いますけど、種類は同じだと思います」


「うーん。どういうこと?」


「前のは沈んだ空気ではなかったんですね。だけど全部嫌な空気なんです。こう、暗い場所に一人にされたときに感じる空気みたいな」


「それはたしかに嫌な空気ね」


 注文したものが運ばれてきたため、会話が一旦中断される。運んできたのは日神ではなかった。


 サンドイッチらに手をつける前に音無は立ち上がり、店の出入り口に向かった。手動式のガラス戸の前には脚の短い椅子が並んでいる。数人の子供が遊んでいるだけで、順番待ちの客はいないようだ。


 その前で携帯電話を使った。


 二回のコールののちに通話が繋がる。


「もしもぉし」と覇気のない声。


「向日葵、今大丈夫?」


「いいよ」


「イヴが街の空気に違和感があるって言うの」


「またか」導の声がはっきりとする。どうやら音無の意図を察したようだ。「今のところ、大きな問題はないみたいだけど」


「これからかもしれない」


「だね。うん、わかった。おかしなものを見つけたら連絡する」


「ありがとう。そうだ、なにか食べる? 買っていくけど」


「任せる」


 ぷつり、と通話が切れ、携帯電話をしまう。


 他の人にも協力を仰ぎたいところだが、いかんせん感覚の話をおいそれと信じる者はいない。イヴが《欠片持ち》であり、その力で異変を察知しているのなら話は別なのだが、しかしそれは叶わないことだ。


 叶って欲しくもない。


《欠片持ち》であれば、その力を欲する者に目をつけられることになる。それが都市警察だとしても、正義のためだと謳っていても、駒の一つとして使われることには違いないのだ。


 誰も信じなくとも、音無や導が信じればいい。友達という関係は信頼や信用は当然として、相手を駒だと思うことなど決してない。


 まだ弱いイヴが強くなれるまでは、二人で見守っていこうと決めていた。いつまでも誰かのうしろを歩いているばかりではいけない。


 音無はテーブルに戻って、コーヒーを飲んで一息ついた。


「電話ですか?」


「向日葵にね。なにか買っていこうと思って」


「それはいいですねっ」


 満面の笑みを浮かべるイヴの口の横にパンケーキのクリームがついていた。音無は身を乗り出して指でそのクリームを取った。


「付いてたわよ」


 どうするか迷った挙句、音無はそれを舐めた。なんとなくそのまま紙ナフキンで拭きとるとイヴが悲しむような気がしたからだ。


「やっぱり舞桜さんは優しいです」


「普通だと思うよ」


「いえ、舞桜さんの心は素敵ですよ」


 はたして彼女はどんな心を感じ取っているのか。気にならないでもないが、訊き出さないことにした。


 それを聞いたとき、どんな反応をすればいいのかわからなかったからだ。

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