第16話 画策する悪鬼

 本当に歩けているのだろうか。


 今、たしかにこの世界で生きているのだろうか。


 茜夏は生存しているという感覚を失いつつあった。視界はぼんやりとし、足取りもおぼつかない。倉庫から脱出してからしばらく感じていた血液の流出も、今ではよくわからないでいた。手で自分の肌に触れてみても、温もりはない。


 だから自分が今生きているというたしかな感覚はなかった。


 傷から流れ出る血が地面に垂れ落ちるため、シグナルに見つからないようにと能力を少しずつ使って移動していたらいつの間にか下水道にいた。浅い流水の中を歩き、痕跡を残すはずの血液は水と共に流れていった。


 実に単純な発想だ。それだけに相当切羽詰まっていることがわかる。


 現に、後方の闇からシグナルの近づいてくる足音が聞こえそうだった、それが水の跳ねる音だとわかり、緊張を解く。それを何度か繰り返していた。


 シグナルを一度目の交戦で倒せなかったのは痛手だ。倉庫に入ったと同時に能力を使えば、もしかしたら殺すことはできたのかもしれない。その考えはもちろん最初に思い浮かぶことである。


 ただそれはシグナルがきちんと倉庫内にいた場合にかぎり使える手段だ。彼の厄介なところは対面しなければ、近づかなければ、本人であるかどうか判断できないことだ。あの異様な髪色も判断を狂わせる要因だ。赤と緑の髪色をしていればそれはシグナルである、という短絡的な思考はもっとも危険だ。


 奇抜で派手な髪は思考を短絡化させ、彼の内側に潜む異常を上手く隠している。目を見張るべきは外側では決してない。


 茜夏があの距離まで近づいてようやく、あの後ろ姿がシグナルであると確信できる。その距離こそ彼が上手く隠している、異質な気配を悟ることができるのだ。


 あの髪で一般人として紛れ込むことができるのも、外見があまりにも注目を浴びるために、だからこそ音楽や芸術の分野に住む人物だと周囲に錯覚させられる。


 異質だからこそ紛れこめる。


 もし彼の外見が普通であれば、内に潜む異常は隠せない。人々の意識はその気配を感じ取ることができるだろう。それほどにシグナルという男は道から外れている。


 反省と後悔を一頻りやり、次はシグナルと相対したときのことを考える。どうすれば生き残れるのか。それが今は重要だ。


 しかし限界というものは思っていた以上に早く訪れるもので、茜夏の見ている景色はいつの間にか横たわっていた。水の音が足もとから聞こえるのは変わらないが、上半身が水に触れている感触はない。前のめりに倒れたのではないことがわかった。


 そしてその横たわった世界に人影が現れた。シグナルかとも思ったが、しかしそれにしては背が低い。それに身体が細すぎる。


「うわぁ、こんな出会いってあるんだぁ」


 感激するようにそう言ったのはウィンクだった。なぜ下水道なんかにいるのかと問い質したかったが、すぐに察しがついた。シグナルから連絡を受け、茜奈を殺そうとしたものの、逆に追い詰められて逃げてきたのだろう。


 ウィンクは警戒することなく、茜夏の近くでしゃがみこんだ。


「先輩にやられたんだって? だっさ~」


 そういうお前も茜奈にやられたんだろ、と茜夏は言いたかったが、しかし声を出すことができなかった。


「――あっ、いいこと思いついちゃった」


 そう言って、ウィンクは携帯電話を取り出した。それは組織から支給されたものとは違う機種だった。


「もしもし、私です、私ちゃんです。ちょっと手伝ってほしいなあって思って」


 ウィンクの声が徐々に小さくなっていった。茜夏に話を聞かれたくないからボリュームを下げたのかとも思ったが、しかしそれは勘違いだった。声が小さくなったのではなく、耳が遠くなったのだ。音を拾えなくなっている。


 それに合わせるかのように視界が暗闇に浸食されていった。


 茜夏は眠りにつくように、気を失った。



     ※



 血痕を追ってアクセルに辿りつこうとしたシグナルだったが、その無意味さに気付き、堅実な状況証拠から彼を見つけ出すのではなく、これまでの経験でそれとなく培われてきた直感を頼りに街を歩いていた。


 どんなに目を皿にして彼の痕跡を追ったところで、その途中で「加速」の能力を使われてしまえば、辿ることはできない。


 いつものシグナルならば、アクセルの考えを読み解くことができるのだが、今回ばかりはそうはいかない。なにしろアクセルは血を多く失っているため、通常どおりの思考をできていないはずだからだ。逃げるという一心で、移動を続けている。


 逃げる、という言葉にシグナルは疑念を抱いた。プランどおりに行かなかったからといって逃走を選択するような男だっただろうか。むしろ次の一手を――確実な一手を用意するような男ではなかったか。


 だが、その疑念もすぐに晴れる。アクセルは今、まともな思考をできない。それに行動にも制限ができてしまっている。逃走が妥当なのだ。


 死にかけのアクセルはともかく、問題はトリックの方だった。ウィンクが仕留め切れていなければ、あの“手”が容赦なく襲いかかってくるだろう。あればかりは運が絡んでくる。未知数の力を前にして、《欠片の力》がまともに働くかどうか。


 あの自動乱射装置はアクセルだけではなく、トリックの対策としても用意していたものだ。未知数の力だが、手にさえ触れなければ問題はない。彼女が反応できない速度での攻撃ならば確実に仕留めることができる。


 と、シグナルは考えていた。もちろん絶対の保証はない。やはり未知数の力は未知数でしかなく、どんなことが起きても不思議ではない。


 だから正直に言えば、ウィンクはしくじっていると読んでいた。彼女もまた逃走を選んでいるだろう。


 遠くの方でサイレンが鳴り響いていた。顔を上げ、音のする方を確認してみると、夏の夜空に昇る濃い灰色をした煙が微かだが見えた。都市警察の十五支部がある方角だ。


「派手にやるじゃねえか」


 いつもならば許されざる行為だが、しかし今夜にかぎりシグナルは許容していた。どんなに派手にやろうが、どんなに一般人を巻き込もうがどうでもよかった。ただ最終的に、アクセルとトリックさえ死んでくれてさえいれば、文句の一つもない。


 煙から視線を外し、路地裏を進んでいるときだった。


「あっ、せんぱーい」


 背後から声がし、それは確認するまでもなくウィンクだった。こんな場所で突き抜けて明るい声を出すのは間違いなく彼女だ。場違いと言ってもいい。


 振り返ると、やはりウィンクがいた。手を大きく振っている。


「トリックはどうした」


「しくじっちゃった」


ウィンクは舌を少し出した。


「もう一回行って来い」


「いや無理ですよぉ」


「とやかく言うな」


「だって、事務所が介入してますもん」


 シグナルは舌打ちをした。都市警察ならまだしも事務所はかなり厄介である。未知数の力を持った組織であり、しかしその力は強大だ。治安維持を目的とする都市警察とは異なり、依頼の完遂を目的とする事務所は、その力を制御することなく振るう。


 誰が派遣されているのかはこれから訊くとして、シグナルとしてはよれよれのシャツを着たあの男だけは勘弁してほしいところだった。苦い記憶が蘇ってくる。


「どんな奴がいた」


「ナイフ使いと鉄槌使い。どっちも学生だね」


 ならば、あの男ではないだろう。ひとまず安心できそうだ。子供に甘いあの男だからウィンクが戻ってこられたと思っていたが、そうではなかったらしい。


「先輩の方はどうなんですか」


「目下捜索中だ」


「いえいえ、状況じゃなくて状態の話です。先輩、怪我してるじゃないですか。だっさい勲章をもらっちゃってるじゃないですか」


「大した傷じゃねえよ」


「んじゃ、まあ作戦会議といきましょうよ。組織はなんて言ってるんですか?」


「裏切り者を始末しろの一点張りだ。失敗すればまあ俺たちが始末されるだろ」


「そのときは組織に殺されるまでもなく、トリックに喰われてるでしょうけどね」


 そう言ってウィンクはけたけたと笑った。緊張感もなにもない。ただこの状況を楽しんでいるようにしか見えないし、まさにそのとおりなのだろう。


「先輩はこれからどうするんですか?」


「とりあえずはアクセルを捜し出す」


「その必要はないですけどね」


「どういうことだ」


「さっき拾ってきました」


 ウィンクの視線が彼女の背後に移されたため、シグナルはそれを追った。路地裏の暗闇を、目を凝らしてみれば、そこにはアクセルがいた。壁に寄りかかるように座り込んでいる。生気は感じられなかった。


 シグナルから逃げた結果、ウィンクに捕まってしまうとは運がない。いや、考えようによればシグナルに運が向いているのだ。捜す手間が省けている。


「生きてんのか?」


「まあかろうじて」


「じゃあ、さっさと始末するぞ」


「そこを待って欲しいんだよね」


 と、ウィンクがシグナルの行く手を阻んだ。


「どういうつもりだ」


「どうせ殺すんだから、ここは目一杯利用しましょうよって言ってるんです。だってほら、トリックの行動を制限するのに使えませんか?」


 たしかにそのとおりだったが、実に彼女らしくない発言だった。彼女の凶悪さは単純明快な殺意にある、あの手この手と策を練らず、単純にその能力で相手に死を与える。それがウィンクという少女だ。


 だが、この提案はどうだろう。正しくはあるが、どこか不自然なように思われた。今まで頭脳としてシグナルやアクセルがいたために見せることのなかった一面だろうか。


 いや、それもない。やはり彼女は考えるよりもまず行動するタイプだ。その後始末を何度させられたことか。


 シグナルが逡巡していると、「私らしくないって思ってるんですか?」と心中を見透かしたように言った。


「私だって人並みには考えるんですよ。今回は事務所が関わってますしね。本当なら逃げたいところですが、まあ逃げたところで組織に消されるだけですし、結局こうやって頭を働かせるしかないってわけです」


「どう利用するんだ」


「先輩にも一芝居打ってもらいますがいいですよね?」


 シグナルが頷くや否や、ウィンクは素早く携帯電話を取り出した。見覚えのないものだ。いつの間に、と思ったが、別に報告するようなことでもない。


 どこかに電話をし、二言、三言告げるとそれは終わった。


 シグナルの視線に気付いたウィンクは言う。


「まあ、私にも伝手(つて)というもんがあるんですよ。長いことこっちにいますからねえ。世の中には話が会う人もいるもんです」


 ウィンクと話の合う人間を想像しようと思ったが、どうにも形にならなかった。


 彼女は笑みを浮かべながら、今後の作戦について語った。



     ※



 如月トモから月宮たちの状況と茜奈について聞いたアリスは、事務所のとある一室に向かっていた。誰もが目に留めているはずのその一室に繋がる扉は、しかし誰も不用意に近づかない扉でもあった。本能的に拒絶をしてしまうのだ。気になったとしても、なにか危険な香りが放たれていることに気付く。


 そんな扉を、アリスは開いた。電気は点けられておらず、窓からの光だけが室内を照らしていた。椅子が二つ並んでいるだけで、他にはなにも置かれていない。この部屋は対面する部屋であって居住を目的にはしていない。家具や備品が置かれていなくてもおかしくはない。ただ質素な面接室ではある。


 アリスは扉に近い椅子に腰かけた。そして目の前の椅子に座っているアイリスの目を見据えた。彼女はいつもここにいるわけじゃない。ましてアリスがここに呼んだわけでもない。


 それなのにアイリスは静かにアリスを待っていた。


 ここに来ることを知っていたかのように。


 訊くまでもなく、知っていたのだろう。なにせ椅子は二つしか用意されていない。アイリスの分とアリスの分。他には誰も来ないとわかっていて、この時間にやってくると知っていて、こうしてこの部屋にいるのだ。


 姉として、一人の人間として彼女を尊敬しているアリスだったが、ときどき怖くなることもあった。


「街の様子はどう?」


 アイリスが言葉を発した。ただそれだけなのに、アリスは見入ってしまう。その艶やかな唇の動きを見逃すまいと集中してしまう。


「都市警察十五支部付近で爆発があったようです」


「月宮湊はどうしてる?」


「今は異能力者である茜奈という女を追っています」


 異能力者という言葉を使うのは、月宮以来のことだ。魔術も《欠片持ち》も能力としては普通でしかない。この街の――この世界の常識から外れていないのだから、普通と断言できる。もしここが《表の世界》だったのなら、それは異常だと判断されるだろう。あの世界はそういう世界だ。神秘を否定する世界。


 アリスが続けて茜奈についての情報を話そうとしたとき、「彼女の力は『暴食』よ」とアイリスは静かに言った。本当になにもかもを把握しているようだった。


「暴食――というと、あの七つの大罪の一つですか?」


 暴食の他に、嫉妬、怠惰、色欲、憤怒、強欲、傲慢の六つがあり、人間を罪悪に導くものだと言われている。場所や宗派によって八つだったりするが、もっとも浸透しているのはこの七つだ。また他にも「七つの罪源」と呼ばれることもある。


「そうね。人間を死に招く感情や欲望の一つ。それぞれに対応する悪魔がいるのは知ってるわよね」


「ええ、まあ」


 傲慢はルシファー、 強欲はマンモン 、嫉妬はレヴィアタン、 憤怒はサタン、暴食はベルゼブブ、色欲はアスモデウス、怠惰はベルフェゴール。悪魔の他にもそれぞれに対応する動物がいる。


「まさかその悪魔が憑いているというのですか?」


「そんなことはないわ」


 悪魔が憑いているなど、それこそこの世界のバランスを重んじるアイリスが放っておくはずがないではないか。アリスは突拍子もない自分の考えを嘲笑した。


 しかし、アイリスの言葉はアリスを裏切っていく。


「彼女が宿しているのは、大罪そのものよ」


「それは誰もが持っているものではありませんか?」


「言い方が悪かったわね。彼女に宿っている『暴食』というのは、冥界の王に仕える従者の一体のことよ。悪魔なんかよりももっと上の存在ね」


 ただただ絶句することしかできなかった。冥界といえば神界の真逆の位置に存在する世界である。地獄とも呼ばれるその場所に君臨する王の従者の一体が、人間の中に存在している。それがどんなに異常なことか。世の魔術師が知れば、機関が知れば、卒倒するに違いない。


 先日の精霊の件でさえ、騒ぎになったのだ。「最高」の称号を持つアイリスがその場を治め、その件については決着がついているようだが、しかしこの事実はそれを蒸し返すだけではなく、この街の存続に関わってくる。いくらアイリスがいるからといって、バランスを正すからといって、所有していい力には限度がある。

 

 ましてや、この街にはすでに月宮湊がいる。「神の力」を持つ彼が。


 それに加えて今度は冥王の従者。


《表の世界》と《裏の世界》の両方を一度に敵に回すことだって――アイリスが回避しようとしている戦争が引き起こされることになる可能性だってある。


 そのことにアイリスが気付いていないわけがない。それなのに茜奈を放置していたのは、いったいどういう意図があってのことなのだろうか。アリスの心と頭は乱れに乱れていた。整理をしにきたというのに荒らされてばかりだ。


「なぜ野放しにしていたんです」


「月宮湊がいるからよ」


 アイリスは答えた。


「人間であるとはいえ月宮湊は『神の力』を与えられている。それは神の従者といっても間違いではないわ。そしてそのちょうど逆位置にいるのが『七つの大罪』であり、この二人でバランスはとれている」


「理屈はわかりますが、それでも危険では」


「危険じゃないと判断したから野放しにしているの」


「なにを根拠にそう言うのですか? 私には姉さんのような判断を下すことはできません。やはり念のために、と考えを巡らせてしまいます」


「単純に知識と経験の差よ」


 積み重ねてきた知識の差というのは理解できるが、経験の差には違和感を抱いた。いったいこれまでにどんな経験を積めば、展開の先の先まで読めるというのか。ただ盤上を知っているだけでは下せない判断を迷うことなく口にできるアイリスはやはり別格なのだ。


 同じ言語を使っているようで、実は違うのかもしれない。


 同じ世界にいるようで違う。


 同じ部屋にいるようで違う。


 彼女のことを知れば知るほど、距離は広がるばかりだった。一向に近づけない。「最高」の魔術師と、ただの《欠片持ち》との差は大きい。


 アリスの不安を察したのか、アイリスの声が気持ち柔らかくなる。


「大丈夫。月宮湊の逆位置の存在だからといって、彼ほどの力があるわけじゃないわ。従者の力はあくまで従者の力。『神の力』よりもずっと弱い」


「けれど、湊は悪寒を感じていました」


「それはね、彼女の力が常時発揮されているからよ。月宮湊のように魂のやりとりがない。特殊な能力を持たない人間であることがない。だからその空気を――冥界の空気を感じ取ったんでしょう」


 それは月宮が『神の力』を使わなければバランスがとれないということじゃないだろうか、とアリスは思った。ただ強弱の話から、月宮がその力を使えば、茜奈が常時的に発動させている『暴食』と釣り合いがとれてしまうとも考えられる。


 あの少年は、どれだけのものをその身に宿しているというのか。器の修復はできても、魂の修復をするには時間がかかる。姫ノ宮学園での三千の魂を使用した魔術、同所での精霊との一戦、そして今回の『暴食』。そろそろ休暇を与えなければ、本格的に崩壊を起こしかねない流れだ。


(どうせ言うだけじゃ聞かないんだから、命令ってことにしよう)


 彼の行動を制限するのはなかなか困難だ。それはアイリスによってある程度の自由が許されているからであり、だからこそアリスの発言では弱い。


「姉さんはどこまで知っていたんですか?」


「一年が一年でないことまでは知っているわ」


 また誤魔化されている、とアリスは内心で呆れた。いつぞやの姫ノ宮学園の資料を見せたときの感想を思い出していた。あれも結局いまだにわからずじまいだ。


「とにかく、『暴食』の件について時期に終幕を迎えるわ。射干玉いのりにきちんと監視させているなら問題はない」


 秘密裏にアリスが命令させたことをなぜアイリスが知っているのかは不明だが、しかし彼女がそう言う以上、間違った選択ではなかったようだ。

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