12-3 踏んではいけない領域
やがて車が見慣れたアパートの駐車場に到着する。
ですが、の後に何が言いたかったのだろう、と気にしつつも自分から聞くのははばかられ、ジュディは未練を残したまま車を降りようとした。
「……私が恩人であるディアナに直接手を下すなどということは断じてありません。ですが、私しか助けられないであろう状況で、彼女の安否の確認を怠ってしまったのです」
唐突に聞こえてきたリカルドの言葉が、先程の『ですが』の続きであることに気づくのに、ジュディは数秒間、思考をめぐらさねばならなかった。
きっとジュディの表情から、話を聞きたいのを遠慮していると読み取って付け足してくれたのだろう。だがリカルドの補足は謎の解決とともに新たな謎をもたらした。
婚約者が恩人とはどういうことか、リカルドしか助けられないとはどういう状況だったのか。
しかしいくら考えたところで、裏社会とは無縁で生活してきたジュディには想像も出来なかった。
「すみません。答えになっていませんね」
ふぅっと息を漏らし、リカルドは目じりを下げた。一見、笑っているかのように見えるが、さまざまな感情がないまぜになった複雑な表情だとジュディは感じていた。
「そうですね、今のリカルドさんのお話だけでは、どのようないきさつがあったのか、わたしには判りません。無理して話していただかなくてもいいんです。でも、話すことでリカルドさんの心が少しでも軽くなるなら、お聞きしたいです。一人で抱えて苦しい思いをなさるぐらいなら、吐き出してほしいです」
聞きたい、という気持ちが前面に出るのを圧し隠して、ジュディは落ち着いた声で答えた。
リカルドのことをもっと知りたいから、と言うのもあるが、つらそうな彼を目の当たりにして、少しでも助けになれるならと願う気持ちが大きかった。だがそれを表に出し過ぎてしまうと、以前のようにぎくしゃくしてしまうだけだとジュディは学んでいた。
リカルドは、とにかく心を見せない人だ。いつも穏やかで、ジュディに対しても優しくしてくれるが、ある一定のラインを踏み越えて彼の内側に触れられるのは、ごくごく限られた人だけだ。そして残念ながらジュディはその範疇には、いない。
前に悪夢の話を聞いた時は、そこに気づかず彼の内側にずかずかと入って行ってしまって、拒絶反応を示したリカルドと話がうまくいかずに気まずくなってしまった、とジュディは彼女なりに分析していた。
もっと親しくなったら、リカルドの方からいろいろなことを話してくれるかもしれない。その時まで、そんな雰囲気になるまで待とう、とジュディは思っていた。
きっと今もリカルドは「大丈夫です」と応えるだろうと思っていた。
なので。
「ジュディさん……。ディアナとのことを話すと、どうしても私の以前の職の話と関わってきます。犯罪遺族であるあなたの気分をとても害してしまうかもしれません。それでも、聞いていただけますか?」
しばらくの沈黙の後に投げかけられたリカルドの問いに、驚いた。
「はっ、はい」
とっさに出たのは肯定の返事のみであった。
リカルドはうなずいて、キーを回してエンジンを切った。
「申し訳ありませんが、部屋にお邪魔させていただけませんか?」
ジュディを見つめてくるリカルドの表情は、覚悟のそれだという気がした。
以前、照子から「気軽に話せる内容じゃない」と言われたことを思い出して、どんな話でもリカルドを否定するようなことはしない、とジュディも決意を固める。
車を降りて、階段を上がり、自室に着くまでほんの数分だが、ちらりと見るリカルドの表情は硬いままだ。
「あ、ジュディさん、こんにちは」
リカルドだけを気にかけていたジュディは、不意にかけられた声にはっとした。隣の部屋から香田が出てきていて、こちらを見ている。今は挨拶程度の付き合いだが、以前もう少し親しくしていた頃があった。ジュディがまだ日本の生活に慣れない頃に、よく話し相手になってくれていたのだ。テレビ番組と同じように、もしかするとそれ以上に彼女が日本語を上達させるのに役立ってくれた。
そういえば、前に食事に誘われた時は無碍に断ってしまった。彼にしては前と同じように食事をしながら話を、という軽い誘いだったのだろうに。
「あ、こんにちは」
とっさに笑顔で返すと、隣人はリカルドを見上げて不思議そうな顔をしている。
リカルドも彼に会釈しているが、なぜだか対応に困っているふうに見えた。
「どうぞ」
自室の扉を開けてリカルドを促すと、失礼します、と小声でつぶやいて入っていく。
戸惑っているような香田に「それでは」と断って、ジュディも入室した。
残暑の熱気がこもる部屋の窓を開けようとして、ジュディははたと手を止めた。リカルドの過去の話をこれから聞くのだ。声が外に漏れない方がいい。ジュディは扇風機のスイッチを入れた。ゆるゆると動きだす風を確認して、リカルドに向き直った。
リカルドは、部屋の入り口の近くに立ってジュディを見ている。感情を出していない表情からは彼が何を思っているのかは読み取れないが、まるで踏んではいけない領域に足を入れてしまったかのように遠慮がちにカーペットを踏む足を見て、彼がとても緊張していることが判った。
いつも落ち着いていて、余裕を漂わせているようにさえ見えるリカルドがここまで縮こまるとは、よほどのことだ。
「どうぞ、座ってください。リカルドさんはコーヒーでよろしいですか?」
笑顔を見せてリカルドを招き入れると、ジュディにうなずいてみせる彼の顔も柔らかくなる。
リカルドはソファに浅く腰かけた。目を軽く伏せて何かを考えているように見える。きっとジュディにどう話そうか、と考えているのだろう。
ジュディはリカルドに背を向け、コーヒーメーカーをセットした。紅茶派だが、コーヒーも時々は飲む。リカルドと知り合い、彼がコーヒー好きだと知ってから飲む回数が増えたのも自覚している。
(たとえ自分の想像以上にリカルドさんの過去がひどいものでも、わたしは今のリカルドさんが好き)
そう考えると、ジュディの心がすぅっと軽くなるのであった。
やがてコーヒーが出来上がり、カップに注いでジュディはリビングに戻った。
相変わらずリカルドはうつむき加減で何かを考えているようであったが、ジュディの気配に気づいて、顔をあげる。
「お待たせしました」
リカルドの前にコーヒーを置いて、ジュディは彼の向かい側に座った。
そこから、しばらく二人はそのままだった。
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