第94話 鯖の味噌煮(2)

 リックの前にはいつもの丸盆に、飯茶碗と味噌汁椀が並んでいて、奥には主菜である鯖の味噌煮が置かれている。

 もちろん、飯茶碗に装われた白いごはんはふっくら艶々と輝き、湯気をもうもうと立ち上らせている。

 味噌汁椀にも熱々の味噌汁が入っていて、出汁と味噌の甘い香りをふわりと漂わせる。


 リックは箸を右手に持つと、まず最初に味噌汁に手をのばす。


 口元に味噌汁椀を持ってくると、いつもと同じいりこ出汁の香りがふわりと漂う。

 その香りを確かめると、リックは味噌汁の具を確認する。

 表面の皮が黒くテラテラと艷やかに輝き、実の部分がとろりと蕩けるように柔らかく煮えている。刻まれた鮮やかな緑の海藻はワカメで、とても肉厚がありその歯ごたえが楽しみになる。また、刻んだ九条ネギが散らされていて、その香りがゆらりと届いてくる。


「ズズッ……」


 リックは口縁に唇を重ね、音を立てて味噌汁を飲み込んだ。


 まず口いっぱいに広がるのはやはりいりこ出汁の香りなのだが、ワカメがもつ海の香り、軽く甘みを含んだ味噌の発酵した香りが負けじとその存在感を主張する。

 いりことワカメ、味噌の旨味に加え、素揚げした茄子の油がたっぷりと混ざりあった味噌汁の味は格別だ、

 じわりと舌から染み込んでくるような感覚がやってくる。


「アアァーーッ」


 啜るときに息を吸い込むので、飲み込んだあとに溜まった息を吐き出すときに気をつけないと声がでてしまう。

 啜る度に同じように声を出していれば正直迷惑ではあるが、料理を提供する側としてはとてもよく味わってもらっているようで嬉しいものだ。


「うまいなぁ……」


 しみじみと感じたことが伝わってくるような、濁声だみごえでリックは声を漏らした。


 味噌汁椀を元の場所に戻して飯茶碗を持ったリックは、箸を使って白いごはんを持ち上げる。

 箸先にのせた白いごはんは艶々と輝き、まだもくもくと白い湯気を纏っている。

 リックはフウフウと三回ほど息を吹きかけて口の中へとそれを迎える。


「ふほっ……」


 まだ少し熱かったのか、小さく口を開け、舌の上で転がすようにごはんを冷ますと、もぐもぐと咀嚼を始める。

 粘りがあって水分をたっぷりと含んだごはんは新米の特徴だ。

 糠の匂いを吸わないように手際よく研いで炊き上げられていて、仄かに甘い香りが口の中に広がり、舌には優しい甘みを残して喉の奥に消えていく。


 リックは初めて食べる新米の食感や甘さ、香りなどを楽しむとようやく主菜へと向き直る。


 丸盆の奥にある半月皿の中心には十字の切れ目が入った鯖の身がふた切れ、折り重なるように盛り付けられていて、白髪ねぎがふわりと飾られている。

 また、鯖の身にかけられた茶色い味噌の色をした煮汁は皿全体にとろりと広がっている。もちろん、その煮汁には薄切りにされた生姜が混ざっていて、そのしんなりとした様子は鯖と共に煮られたことを示している。


「ごくり……」


 店の照明に照らされ鯖の身や煮汁がてらりと輝いているのを見てリックは生唾を飲みこんだ。

 ほぼ茶色一色なのだが、茶色いものは美味い。

 本能が身体が反応し、リックの口の中にまた涎が溜まる。


 ただ、リックはマルゲリットの近くで生まれ育ったこともあり、海の魚を食べるのはこれが初めてだ。遡上してきた鮭などの川魚を食べたことはあるが、同じ食べ方で良いのか不安になってくる。

 そこで、隣の大男がどのように食べるのか、できるだけ頭を動かさないよう、目だけを左に向けて観察する。


 隣の大男は、右手に箸を持つと、箸先を揃えて鯖の身を押し切るようにして切り分ける。そして、身の中に残った骨を箸や指で抜き取ると、解れた身を煮汁にまぶして口へ運んだ。


 それを見て理解したのか、リックは早速とばかりに腹側の身に箸を伸ばす。

 揃った箸先がぐいぐいと押し込まれながら手前に引かれ、皮と身を切り裂いていく。

 やがて、鯖の身がほろりと崩れるように骨から解れると、残った小骨を指で抜き取る。

 そして、身を煮汁にまぶすと煮汁が垂れないようにそっと……しかし素早く口に運ぶ。


 口の中に入れる前から味噌と鯖の香りがふわりと漂う。

 それは味噌汁の香りとは違い、甘みのある香りだ。


 開いたリックの口に鯖の身が入ると、鯖特有の身と脂の香り、味噌の香り、砂糖の甘い香り、醤油の香ばしい香り、日本酒のふくよかな香り……いろいろな香りが風味となって鼻腔へと抜けていく。


 ひと噛み、ふた噛みと鯖に歯をたてると、脂がのった腹の身はふわりと柔らかく、皮はとろりと柔らかい。

 煮汁の甘さと、鯖の身から出た旨味に全体に甘じょっぱい煮汁が舌のうえで絡み合う。


「うまいっ! これは……」


 ――また白いごはんに合う味だ……という言葉を飲み込んで、リックは左手に飯茶碗を持った。


 リックが鯖の背側の身に箸を入れると、今度はほろりと身が解れる。その身をまた煮汁にまぶすと、飯茶碗を下に差し出して口元まで運んでくる。ぽたりぽたりと煮汁が白いごはんの上に落ちているが、そんなことは気にしない。


 まず、口に入れた鯖の身は香り、風味は同じなのだが食感が異なる。

 引き締まった背中の身は歯をたてるとギュッと押し潰していくように身が解れていくと、鯖の身の濃厚だが淡白な旨味がじゅわりと溢れ出る。その旨味が煮汁の甘じょっぱい味と混ざりあっていく。


 そこでリックは白いごはんを箸で掬うようにとって、口の中に入れる。

 鯖の味噌煮と比べて香りが弱い白いごはんは口の中で自己主張せず、鯖の味噌煮の味を壊すこと無く、薄めることもしない。だからリックは口の中に入っている鯖の味噌煮の量が増えたような気になり、もりもりと咀嚼を繰り返すことになる。


 ――ああ、やはり白いごはんに合う料理だ。


 リックは口の中のものをごくりと飲み込むと、心からそう思った。

 そして、なぜか心がホッとする。


 ただ、このまま鯖の味噌煮と白いごはんだけを口に入れていては、飽きてしまう。

 そこで、リックは左手の飯茶碗をそっと丸盆に戻しながら、右手の箸でキャベツの浅漬を摘んで食べる。

 シンプルに塩と昆布、鷹の爪だけで漬けこまれたキャベツの葉は、キャベツの食感を残したまま、漬け汁の旨味を吸い込んでいてピリリと辛く、そして美味い。そして、うまい具合に鯖の味噌煮の濃厚で甘い味に慣れた舌をリセットしてくれる。


 そしてリックは左手に味噌汁椀を持って、今度は具を箸で摘んで食べる。

 とろりと溶けた茄子の実と柔らかな皮の食感、肉厚なワカメのプリプリとした食感を期待通りと楽しみ、ごくりと飲み込んでまた鯖の味噌煮へと箸を向けた。


 そこにクリスがお櫃ごはんを持ってやってくる。


「はい、おかわり用のお櫃ごはんね」


 リックが座るカウンターの前にある台へクリスはお櫃を置いた。

 それを見たリックがクリスに声をかける。


「なぁ、クリス……海の魚って美味いんだな!」

「そうでしょう?」

「泥臭くないし、魚臭くもない――この甘い煮汁もこっくりとしていて……」


 リックがキラキラとした目で必死で感じたことを伝えようとする。

 勢いよく話しはじめたのはいいが、なんとか味噌煮の旨さを表現する言葉を探すリックだがなかなか言葉がでてこない。


「まぁ――とにかく、なんかいい味だ……」


 なんとなく必死になっている自分に恥ずかしくなったのか、だんだんと語気が弱まっている。


「バチンッ!」


 すると、リックの隣に座っていた大男がリックの背中を平手で叩き、そのままリックの右肩までその腕を伸ばしてぐいと引き寄せた。

 おそらくリックの背中にはとても形のいい大きく赤い手形がくっきりとついていることだろう。


「そうだよな!」


 大男はリックの顔を覗き込むように顔を近づける。

 リックは突然走った背中の痛みに面食らった感じではあるが、その痛みを耐えるのに顔を歪めて背中を反らせた。

 鯖の身なり、ごはんなりを口の中に入れていたら吹き出すところだったろう。


「煮汁に『鯖』の脂や身から出る味が溶け込んで、『鯖』特有の香りのいいところだけが残ってる。これは美味いよな!」


 いままで黙々と鯖の身を食べていた隣の大男もリックの言葉にのって料理の味を絶賛する。

 だが、やはり突然背中を叩かれたリックとしては黙っていられない。


「痛ぇなおい、いきなりなんだよ!」

「そうですよ、オセフさん。知らない他のお客さんをいきなり叩くとか……やめてください。

 まあ、相手がリックさんだからいいですけど……」

「オレだったらいいのかよ!」

「いえ、仕事柄鍛えられているから大丈夫だろうって思っただけよ。他意は……あまりないわ」


 クリスの弄りのこもった言葉にツッコミ返すリックだが、見事に型に嵌っている。

 だからクリスは笑い声を堪えつつ、余所行きの笑顔だけを見せた。「あまりないってことは、少しは他意があるのかよ」というツッコミを待つのだが、そこにオセフが被せるように話しだす。


「ああ、すまんすまん……みんな黙って食ってるからわからなかったんだが、オレと同じように美味いと感じている人がいるとわかったら嬉しくなって……つい、な……。

 本当にすまん。悪かった」

「ほんと、オセフさんやイサークさんに背中を叩かれるとか、わたしなら息ができなくなって死ぬと思うわ。

 シャルなら骨が折れると思うし、気をつけてくださいよ?」

「わはは、すまんすまん。気をつけるよ」


 リックはクリスに怒られて小さくなっているオセフをみて、自分から文句を言うのを止めた。オセフの体格に圧されたところもあるが、何よりもここで喧嘩などしようものならクリスが、更には領主であるエドガルドがどう出てくるかわからない。下手すれば職を失う可能性もある。


 背中はじんじんと痛むのだが、リックは苦い笑みを向けてオセフへの返事とした。

 一方のクリスはツッコミが飛んでこなかったことに不満そうな顔をしている。


 それに、リックにもオセフの言うことがなんとなく理解はできた。普段は独りでこの店に来ていたが、先日はあーだこーだと料理の感想を言う同僚のアレホに対し、「感想ならオレじゃなくてシュウさんに言えよ……」とは思つつ相槌を打つ自分がいた。そのときは、アレホと同じ体験をして、同じ感覚を共有したことで仲間意識が強まったのだ。

 だからオセフの行動に対してもリックは決して悪い気はしなかった。


 気を取り直したようにリックはまた料理へと向かい直す。


 リックは鯖の味噌煮に箸を入れて身を解すと、煮汁に沈んだ生姜の薄切りを拾い、上に乗せて口へと運ぶ。

 これまで味わってきた味に、ジャクジャクと音をたてる生姜の歯触りが加わり、食感が少し変化する。

 煮汁の旨味を吸い込んだ生姜は、自らがもつひりりとした辛味をじわりと煮汁に加えながらすり潰される。


 そこにまた白いごはんが追いかけるように口へと運ばれると、リックはまたもぐもぐと咀嚼を続け、ゆっくりと嚥下していく。

 そして、今度は胡瓜の醤油漬けを箸でつまむとパリポリと音を立てて齧る。

 煮汁の生姜よりも厚みがあり、瑞々しい胡瓜の歯触りが鯖の味噌煮にはない歯触りを楽しませる。

 魚介の出汁や醤油と共に加えられた紫蘇の実などの香りが鯖の味噌煮がもつ濃い風味を忘れさせ、また次のひと口を食べたいと思わせる。

 そして、リックは味噌汁を啜ると、また鯖の味噌煮へと箸を伸ばす。


 腹の部分は少ないので、背中や尾側の身を解すと腹の部分を少し混ぜて食べてみたり、淡白な身の旨味を楽しんでみたりと食べ方をいろいろと試す。

 都度、白いごはんを頬張り、もぐもぐと咀嚼してときにそのまま、ときに味噌汁で流し込むように飲み込んでいく。

 そして、飯茶碗にお櫃からごはんを装い、また鯖の味噌煮に向かい合う。


 鯖の身を解し、たっぷりと煮汁に絡ませると口に運び、続けて白いごはんを頬張る。

 またもぐもぐと咀嚼して、ときに味噌汁で流し込む。

 味噌汁の具を食べては漬物をパリポリと音を立てて齧り、白いごはんを食べる。









 リックは夢中で料理を食べた。

 茶碗に白いごはんを三杯。そして、丸盆上の皿に残っているのは鯖の骨だけである。


「ふぃぃ……」


 丸盆の上に箸を置いて、リックは食後の満足感をたっぷりと含んだ息を吐く。

 既にオセフは食べ終えて席を立っており、リックの隣には違う料理が運ばれてくるのを待つ男が座っている。


 リックが食べるのが遅いのではなく、オセフが早いだけである。


 隣に座った客はリックに気づかれないように丸盆の上にのる皿をチラチラと見ているのだが、リックの方はまったく気にしていない。それほどまでに満足感で満たされていた。


「どうだった?」


 隣に座る男の前に漬物を差し出したクリスがリックに尋ねる。


「このあたりの川魚じゃ泥臭くて食えたものじゃないが、海の魚ってのはこんなにも美味いんだな……。

 朝から並んでまで食べに来る客がいるとは驚いたが、並んでも食いたいと思う気持ちもよくわかるよ」

「ありがとうございます」


 絶賛とも言えるリックの言葉にクリスも嬉しそうに笑みをつくる。


「ところで……いつもの話なんだけど、なにか進展はあった?」

「いつもの話って?」


 クリスはアプリーラ村襲撃事件の情報をリックから聞き出そうとしているのだが、残念ながらリックはそれに気が付かない。これまでクリスは事件の捜査情報などを聞いてはリックにビールを飲ませていたのだが、前回はリックが夜勤中も立ったまま不審者の侵入がないことを確認している話を聞いてビールを出してしまった。恐らくそれが原因で、リックの中では捜査情報の提供をすればビールを飲ませてもらえるという図式が残っていないのだろう。


「え? えっと……」


 これはクリスも困ってしまう。

 何か情報があるのなら奥にある以前のように四人がけの座席に移動してもらい、そこでビールを出すということも考えていたのだ。


「いつものって……あ、あれか!

 うーん……といっても、最近は収穫祭のせいもあって真新しい情報というのもないんだ。そもそも……」


 リックもいま座っているカウンター席では周囲に他の客がいることを思い出した。


「そうね、奥の席にきてくれる?」

「――そうだな、賛成だ」


 クリスを先にして、二人はカウンター席から離れ、テーブル席へとやってくる。

 リックに座らせると、クリスは胸元に丸盆を抱えるように持ったまま立って話を促す。


「そもそも――どうしたの?」

「そもそも、若い女を攫うということは、十中八九、奴隷として売りさばくためだ。

 だが、この国では犯罪奴隷以外の人身売買はご法度……国外に連れ出すか、違法な奴隷商人に引き渡すしかない。

 奴隷商人は若い女を取引するなら、目立ちたくない……。

 ここまではわかるよな?」

「ええ、そういうものなのでしょうね……」


 クリスは目を細め、残念そうに返事をする。基本、奴隷制度がない国なので労働力以外に若い女性の奴隷を買う目的など考えたくもないが、理解はできるのだ。


「次に、子どもだな……。

 子どもは体力や技術もないんだから労働力として期待するというのは理解できないだろう?

 じゃぁ、連れて逃げるにしても足手まといにしかならない。

 なのに、盗賊は一〇歳以下の子どもを攫っているんだ。これはなにか目的があるってことだ。

 若い女を攫ったのは、そのついでだってことだな」


 リックの話にクリスは黙って頷く。


「で、子どもを攫った目的はなんだってことになるんだが、誰も想像できないんだよな……」

「――そうね、わたしにもわからないわ」


 クリスも丸盆を抱えたまま、視線を宙に走らせるが何も浮かばない。


 これが日本であれば、何かの人体試験に使うという小説もあるだろうが、それなら子どもである必要はない。

 非力で暴れられるなどの面倒がないという程度の理由にしかならない。


「ただ、若い女や子どもを連れて逃げれば目立つ。目立つのに誰にも見られていないんだ。

 ということは、陸路ではなくて筏か船で川を使ったんだろうってことになるんだが……筏は足場が悪い。ずっと何かにしがみついていないと振り落とされるし、足も濡れてどんどん身体が冷えてしまう。子どもには耐えられないだろう。

 だが、船を持っている盗賊なんていない。サン・リブレムの下流なら川賊や海賊もいるかも知れないが、ナルラ領にはいないと断言できる」

「なるほどね。理解したわ」


 つまり、村を襲ったのは盗賊ではなく、船を所有し、子どもを攫うことを目的にした何者かだとリックは言いたいのだ。


「それで、いまは下流域にあるグリエゴ領の領主に調査を依頼しているらしい。

 なんでも、海の船と、川の船では底の形が違うらしいんだ。もし、国外に連れ出されているならグリエゴ領のどこかで乗り換えているはずだそうだ」

「ふぅん……お父さまにも確認してみるわ。ありがとう。

 ところで、ビールなんだけど――もうお腹いっぱいでしょ? 次に来たときに出してあげるわ」

「おっ! じゃ、楽しみにしてるぜ」


 リックはクリスに大賤貨を一枚渡すと、立ち上がって店を出ていった。

 クリスはその背中を見ながら、ますますシャルを目当てにした襲撃であったという話に信憑性が増してきたような気がして背中に悪寒を感じ、ぎゅっと丸盆を強く抱きしめた。

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